痛みの記憶
約4年前、俺が小学校6年生の終わり頃だった。
その日は係りの仕事で、放課後の学校に残っていた。他の児童は、ほとんど帰宅しているような時間。
係りの仕事を終えた俺は、自分のクラスの教室に戻って帰ろうとしていた。
教室の近くまで来ると、中から会話が聞こえる。
「遊佐さん、みんなに良い顔しててホントにウザくない?」
聞き覚えのある声。
静かに中を覗くと、3人の女子が集まっていた。
俺は、廊下でその会話を聴く。
「
滝沢とは、同じクラスの男子で、クラスの中心人物だった。ほとんどの女子が滝沢に好かれたいとか思っていたと思う。
「ね、あれで中学も一緒なんだから最悪」
受験や特別な理由が無い限りは、みんな同じ中学に行くのが当たり前だった。当然、俺と倖楓も同じ中学に進学する予定になっていた。
俺は初めて倖楓に対するネガティブな会話を聴いて、動揺していた。
それくらい、倖楓は学校では人気があった。高校生になった今でも人が集まっているが、昔は人からの誘いをほとんど断らなかったし、誰とでも仲良く会話をしていた。
だから、倖楓を嫌ってる人なんているとも思ってなかった。
「ねぇ、あの子、困らせちゃおうよ」
思わず声が出そうになった。―――いや、今に思えばここで声を出すべきだったのだろう。
「…それ、いいかも」
「何する?」
どんどん良くない方向に会話が進んでいる。なぜそうなってしまうのか、なぜそんな考えになるのか全く理解できない。
ただ、止めなきゃいけない。倖楓にそんなこと絶対にさせない。―――それだけが頭にいっぱいのまま、俺は教室に入る。
「そんなこと、やめなよ!」
精一杯の大声で女子3人に向けて訴えかける。
俺が突然現れたことに、かなり衝撃を受けていた。
「な、何が?意味わかんない」
最初に提案をした女子が、真っ先にとぼけた。
それで方針が決まったのだろう。続けて、
「そうだよ。私達、何もしてない!」
「勝手に勘違いしないでよ!」
たしかにまだ何もしていない。でも、言った事はハッキリと覚えている。
「話が聞こえてきたんだ。…あいつが、何か直接悪いことしたのかよ!」
俺はただ許せない気持ちが溢れて、3人に感情を強くぶつけた。
「や、やめてよね!もう行こう!」
3人が早足で帰ろうとする。
このまま帰したら、絶対にまた悪いことを考える気がした。ちゃんと説得しようと思い、俺は1人の手を掴んで引きとめた。
「待ってよ!」
「痛い!」
それほど強く掴まなかったが、その女子は反射的に言ったのだと思う。
俺はまた会話を続けようとしたが、そのタイミングで、また1人教室に入って来た。
「水本!何してんだよ!」
声の方向を見ると、そこには滝沢が立っている。
この状況を見て、俺が悪く映っているのだろうと思った。
「違う!この3人が―――」
「滝沢くん!水本くんが暴力振るおうとしてきたの!」
俺の言葉を遮って、滝沢に嘘を吹き込む。どこまで汚いのかと怒りが湧いてきた。
そのまま3人は滝沢の後ろへ逃げ込む。
「お前、最低だな」
簡単に嘘を信じる滝沢にも腹が立った。
「そんなことしてない!」
「じゃあ、さっきの手はなんだったんだよ」
「あれは、話の途中だったのに3人が帰ろうとするから止めたんだ!」
俺は何1つ嘘をつかなかった。誠実に説明をすれば、わかってくれると思ってた。
―――本当に甘い。
「水本。1対3じゃあ、どっちを信じるかなんて決まってるだろ?」
現実は非情だった。それを突きつける滝沢の顔は真剣なものではなく、俺をバカにしたような顔をしていた。
俺は、どうしてこんなことになっているのか理解が出来ず、言葉が出ない。
滝沢は俺へ向けていた視線を女子へ変える。
「先生のところに行くか?」
「い、いい!…まだ暴力振るわれたわけじゃないから」
「優しいな。水本!俺も先生には言わないでやるよ、感謝しろよ」
そのまま4人は教室を出て行く。
1人残された俺は、しばらく立ち尽くしていた。
変化は翌日から起こった。
倖楓と一緒に登校して教室に入ると、自分に視線が集まる。あちこちで内緒話が行われはじめた。
全員が俺を軽蔑するかのような眼を向けていた。俺は、初めて視線の恐怖を感じて動けなくなる。
「ゆーくん?」
隣にいる倖楓が声をかけてくれたが、それにも反応できない。
突然衝撃が来て、俺はその場から押しのけられた。そこには、滝沢と昨日の女子3人が倖楓を取り囲むように立っていた。こちらには目もくれず、倖楓と話している。何事も無かったようにしている女子3人に吐き気を覚えた。
その日はずっと誰からも話しかけられなかった。今まで遊んだりしてきたクラスメイトに話しかけても、反応が鈍い。
―――ただずっと、軽蔑の視線だけが向けられる。
理由なんてわかりきっていた。滝沢達は、先生には言わなかっただけで、クラスの連中には触れ回ったのだ。しかも、しっかり倖楓には伝わらないようにして。
「ゆーくん」
倖楓だけは俺に変わらず声をかけてくれる。―――だが、
「遊佐さん、水本は放っておこう」
滝沢が、俺と倖楓の間に立つ。
「どうして?みんな今日、なんかおかしいよ!」
さすがの倖楓も、クラス内の空気に気付いていた。
それを滝沢は何でもないかのように、
「水本がなんか1人でいたそうだからだよ。なぁ?」
振り返って俺に向けた顔は、昨日と同じように嘲るような表情をしている。
―――この時、気付いた。
ああ、こいつらにとって、俺は何でもなかったのだと。無価値で、ただ遊佐倖楓の近くにいるだけのやつでしかなかった。
本当に無力だと思った。俺が倖楓の近くにいても、何も出来ない。もっとうまく女子3人を止めることも出来たかもしれないのに、失敗した。俺がいることで、無駄な悪意が生まれる。――――俺は、倖楓の近くにいていいような人間じゃない。
―――だから、俺は選んだ。
「そうだよ。だから、さっちゃんは滝沢達と話してて」
そう言って俺は、逃げるように家へ帰る。
その日を境に、俺は学校を休みがちになった。
ある日、心配した両親が俺の部屋に入ってきた。
「悠斗、何かあったのか?」
父さんが俺に目線の高さを合わせながら尋ねる。その優しい眼に、安心感を覚えた。
「どんなことでも言って?お父さんもお母さんも、お姉ちゃんだって、悠斗の味方だよ」
母さんが俺の頭に優しく手を添える。その温かさに、込み上げてくるものを抑えきれなくなった。
何があったのか、俺は全部を両親に話した。言葉に詰まりながらも、なんとか話す俺を両親は最後まで静かに聞いてくれた。それだけで少し救われたような気がした。
「悠斗、お前は間違ってないよ」
父さんの言葉に俺は納得できなかったが、善意で言ってくれていることは伝わった。
「頑張ったね」
母さんが俺を抱きしめる。それでも、自分が頑張れたのかはわからないままだった。
「なぁ、悠斗。これからどうしたい?」
抱きしめられている俺に、父さんが聞いてくる。どこまで先のことを聞かれているのかわからなかった。
「これから?」
「そう、これからだよ。そうだなー、まずはクラスでのことをどうしたい?」
それは学校に伝えて解決してもらうということだろうと理解した。でも、今更そんなことをしたいと思わなかった。何より、倖楓に伝わってほしくない。倖楓に対する悪意でこうなったと知ったら、あの子は傷つくに決まっている。
―――選択肢は決まっていた。
「クラスでのことは、何もしない。ただ、中学はみんなが行かないところにしたい…」
当時の俺は理解していなかったが、時期的に進学先を変更するのには、まだ間に合うタイミングだったらしい。不幸中の幸いだったと思う。
俺の希望を、両親は何も言わずに受け入れてくれた。―――その上で、もう1つお願いをした。
「さっちゃんには、何も言わないで…」
これが一番大切なお願いだった。
「悠斗…」
「倖楓ちゃんだって、悠斗の味方だよ?」
それは痛いほどわかっている。でも、そこだけは譲れない。
「お願い…」
俺の必至さに、両親も最終的にお願いを聞いてくれた。
それからの時間が経つのは早く、小学校の卒業から中学校の入学まではあっという間だった。
―――俺は、倖楓との最初の約束を破った。
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