さよなら風たちの日々 第6章ー3 (連載16)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第6章ー3 (連載16)


              【8】


「歩こうか」

 ぼくがうながすと、ヒロミが立ち上がった。

 歩きながらぼくたちに、また無言の時間が流れる。けれどもヒロミはそれでも嬉しいのか、ぼくの隣を小走りで歩きながら、ときおり、嬉しそうな視線をぼくに向けるのだった。

 ぼくは歩く速さをゆるめてヒロミのペースに合わせた。ぼくは別段急ぎ足で歩いているわけではないのだが、ヒロミは背が低くて歩幅が狭いから、ぼくと一緒に歩くと、どうしても小走りになってしまうのだ。

 動物園の入口を過ぎると、目の前に大きな噴水池が見えてきた。ぼくたちが近づいていくとその池から、待ち構えていたように水しぶきが上がる。

 大きな噴水だった。中央に高く、太く、一直線に伸びる噴水。そのまわりを輪になって踊っているかのような低い噴水。それは、デコレーションケーキをイメージしたものだろうか。それとも西洋のお城だろうか。遊園地のメリーゴーランドだろうか。

 ぼくたちはその噴水にしばし目を奪われ、それを眺めていたくて、今度はその噴水のそばのベンチに腰かけた。

 何もしてないのに、何も話してないのに、今ぼくたちのまわりには満ち足りた空間がそこに広がっている。

 近くの売店で、ぼくたちは飲み物を買った。ラジカセだろうか。店内から小さく音楽が流れている。耳を凝らすとその音楽はビートルズの『エリナーリグビー』だった。

「先輩殿、先輩殿」とヒロミが言う。

「あの曲、ビートルズのエリナーリグビーですよね」

 その顔は、明らかに含み笑いを浮かべている。

 ぼくはその言葉に曖昧に返事をしながら、ヒロミの含み笑いの意味を考えた。

 もしかしてヒロミは、知っているのか。あのことを。

 このときぼくはヒロミにそのことを訊けばよかったのだが、しかしそのときは何となく訊きそびれてしまったため、そのヒロミの含み笑いの意味を知ることになるのは、ずいぶん先になってからのことだった。


              【9】


 ぼくたちはベンチに戻り、そうして飽きもせず噴水を眺めていた。

 あたりを見渡すと、やはり噴水をぼんやり眺めているサラリーマンがいる。競馬新聞に目を落とし、ラジオの競馬中継を聴いている男性がいる。修学旅行らしき中学生のグループ。仲睦まじそうな若いカップル。年配女性の三人連れ。小さな男の子を連れた若い夫婦。そして足元には餌をついばむハトもいる。

 とりとめのない話題で、ぼくは、ヒロミに話しかけた。

「ヒロミは進学するの」

 するとヒロミは何度か手を横に振り、

「進学はしないんです。父がお店を三軒経営してて、わたしが卒業したら、その店の一軒をまかせるって言うんですよ」

「何のお店」

「秘密です。まだ秘密なんですよし」

「だって失敗したら、恥ずかしいじゃないですか」

 そうしてヒロミは笑顔を向けたまま手を何度か横に振り、その話題から逃げるのだった。


               【10】


 ヒロミは無口だ。普段は無口で何を考えているか分からないことが多いが、何かきっかけがあると急に饒舌になったり、ずうっと笑顔を見せていることがある。

 あるときヒロミは帰りの電車の中で、こんな話をしたことがあった。

「先輩殿。先輩殿は、神さまを信じますか」

「いや、信じてない。でも何かあるとつい、神さまお願いって思ってしまう」

 ヒロミはくすっと笑って上目遣いにぼくを見た。電車はお花茶屋駅に着いたのだけど、ヒロミはまだ話したがっていたので、ぼくは駅のベンチにヒロミを誘い、話の続きを訊くことにした。

「神さまというか、もっと具体的にいうと、それは守護神ですね。その守護神は普段は人間の恰好をしていて、何かあると必ず、わたしを助けてくれていたんです」

 ヒロミがその守護神に気づいたのは、高校を受験するその日の朝だったらしい。その朝、偶然お花茶屋の駅で会った守護神はヒロミの頭を軽く、ぽん、ぽんと叩いて、

「これはおまじないだよ。これで織原は絶対、志望校に受かる」と言って励ましてくれたのだという。

 その結果、ヒロミは見事ぼくのいる高校に合格。そしてぼくと出会ったわけだ。

「その守護神さまって、わたしが通ってた双葉中学校の担任だった高橋先生なんです。あ。高橋先生は男の先生です」

ヒロミは空を仰いで、当時の出来事をぽつりぽつりと話しだした。

「最初に助けられたのは、二年生のときです。放課後、上級生三人に体育館の裏に呼びだされて、因縁をつけられたことがあったんです」

「その上級生って、女の子」

 ぼくの問いにヒロミはこっくうなずいて、話を続ける。

「おまえ、何すかしてんだよ。生意気だってすごまれたんです。怖かったですよ。何をされるか分かりませんでした」 

 ぼくは黙って、ヒロミの次の言葉を待った。

「そうするとね、その高橋先生がどこからか現れてきて、おまえたち、ここで何してるんだって、上級生に怒鳴ったんです」

「最初に助けられたのはそのときです。次は確か、校庭で朝礼をしているとき、わたし急に具合が悪くなって倒れたことがあったんです」

「そのときもたまたま高橋先生がそばにいて、わたしを抱きかかえて保健室まで運んでくれたんです」


 そんな話はよくあることだと思った。上級生に絡まれたことだって、どこにでもある話だ。けれどぼくはヒロミの真剣な顔を見て、その否定の言葉を口にすることはできなかった。そして口には出さなかったけれど、『信じるものは救われる』。そんな言葉が頭をよぎった。


 やがて踏切の警報機が、間隔を空けて鳴りだした。上野行の上り電車がやってきたのだ。

 しばらくするとその警報機の音は間隔が短くなり、けたたましくなる。

 やがて電車が轟音をまき散らしながら、ホームに滑り込んできた。電車のドアが開き、降りる客と乗り込む客が交差する。その乗降客の流れが一段落するとドアが閉まり、電車はレールを軋ませながらゆるゆると、やがて加速をつけて轟音とともに走り去っていく。

 電車の枕木をたたく音がやがて小さくなる。そして警報機の音も鳴りやむと、駅には再び静寂が訪れる。お花茶屋の駅は小さい。そして商店街もこの時間、閑散としているから、電車が通り過ぎると駅の周辺は再び静寂が支配するのだ。

「それから中学三年生のときです」

 ヒロミは話を続けた。

「水戸街道の交差点で、信号が青になったから渡ろうとしたら、誰かが大声でわたしのを呼んだんです」

「立ち止まって振り向くと、大声でわたしを呼んだのは、高橋先生でした」

 ヒロミは少し黙った。それはそのあとをどう話していいのか、どう説明していいのか、言葉を探しているようにも見えた。

「その直後なんです。先頭に停まっていたクルマが後ろのクルマに追突されて、横断歩道まで押し出されてしまったんです」

「もしもあのとき先生に呼び止められなかったら、わたし、確実にクルマに撥ねられてましたよ」

 ヒロミはそのときのことを思い出したのだろうか。少し身を縮こませ、おびえるような表情でぼくを見ている。

 それ以来ヒロミは、その双葉中学校の担任だった高橋先生が守護神だと思うようになったのだという。

「その先生、今どうしてるの」

 その問いかけにヒロミは少し悲しそうな表情を浮かべ、

「転任になったんです。でも同じ都内の中学だから、会いに行こうと思えばいつだって会いに行けるですけどね」。

 それでね、それでね、とヒロミは今度は嬉しそうに目を輝かせ、ぼくに言った。

「今度、クラス会があるんですよ。わたし、今からそれ、楽しみにしてるんです」

 もう一度ぼくの脳裏に『信じるものは救われる』という言葉がよぎった。そして『イワシの頭も信心から』という言葉も浮かんだ。

 その高橋先生が守護神だというのは、ヒロミの一方的な思い込みではないだろうか。偶然の一致が、たまたま重なっただけの話ではないのだろうか。

 ぼくは長いあいだヒロミがいう守護神とは、そんな存在に過ぎないと思っていた。

けれどヒロミはその守護神の存在を、信じて疑わないのだ。

 そしてその守護神の存在は、やがてまったく違う形でヒロミを救うことになる。



                           《この物語 続きます》






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