第8話
気味の悪い芋虫だって構わない。見た目に耐えられなければ、壁越しにだって話はできる。王には申し訳ないけど、それでも一人ぼっちでいるよりはずっとましだ。呪いが解けないのならそれでいい。私は彼といよう。傍にいて彼の心を慰めよう。
いつしか私は全力で駆けていた。長い間走っていなかったのでお腹が痛んだけれど、それでも走り続けた。やがて木々の間に小屋の姿が見えてきた。ありがたいことに壁の穴はまだ塞がってはいない。ためらいもなく駆け込むと、王の部屋の扉をどんどんと叩いた。
「王様、戻ってきました。ごめんなさい。あなたを置いていってしまってごめんなさい」
返事はなかった。部屋の中からは何も聞こえない。王は壁の穴から外へとさまよい出してしまったのかもしれない。私はぞっとして後ろを振り返った。会いたくてたまらない人なのに、その姿には耐えられないなんて。呪いの残酷さに激しい怒りが込み上げた。
私は負けない。必ずこの汚らわしい呪いから、王を取り戻してみせる。
王の部屋の扉を開けた。突然に恐ろしい物が目に飛び込んでくることのないように祈りながら、小さな隙間から頭を差し込む。部屋の中に蛾の姿はない。天井から扉の裏まで隈なく見たけれど、やはり何も見当たらなかった。
思い切って部屋の中に足を踏み入れると、私は浴室の扉を開けた。そこにも王はいない。出て行ってしまったのだろうか。それとも……私の部屋に?
浴室を出ようとして、浴槽の水が濁っているのに気付き、私は息を呑んだ。どろりとした不透明な肉色の液体で満たされているのだ。これは……
「王様?」
私は思わず声に出して呟いた。液体の表面に触れると、生温かく薄い粥のようなとろみがある。私はこの正体が王であると直感した。
「王様、どうしてしまったのですか?」
思い切って両腕を差し入れてみた。生きている。液体に触れている箇所から暗い思念がじんわりと伝わってきた。王は絶望しているのだ。絶望のあまり溶けてしまったのだ。
「王様、お願いです。戻って来てください」
更に腕を深く差し入れて、何度も王に呼びかけた。だが彼に答える気はないようだ。もう人としての意識など失くしているのかもしれない。私は悲しくなってぽろぽろと涙を流した。私が彼を見捨てたせいだ。どうしてあの時、言われるままに出て行ったりしたんだろう。
もう一度彼に会いたかった。まだ望みはあるのだと教えてあげたかった。例えどんな姿になっても私は傍にいるのだと知ってほしかった。
何がなんでも彼を呼び戻すのだ。私は服を脱いで浴槽に浸かった。身体をゆっくりと沈め、彼に呼びかけるが伝わってくるのは真っ黒な絶望ばかり。
私は息を深く吸うと一気に頭の先まで潜った。
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「王様、返事をしてください」
温かい液体の中で王に向かって話しかけた。水中では声が出せないので繰り返し心の中で呼びかける。息が苦しくなり浮かび上がろうとしたとき、どこからともなく王の声が聞こえた。
「ヒイラギ……ヒイラギなのか?」
「王様、どうしてしまったのですか? 諦めてはだめです」
王の心はまだ残っていた。安堵のあまり泣きそうになりながら私は尋ねた。
「もうこの世が嫌になったのだ」
「醜い姿でも構わないではないですか。死んでしまっては呪いに負けたことになります」
王は陰鬱な声で笑った。
「私の姿などどうでもよい。だがそなたを失った痛みにはもう耐えられぬ」
「私を……ですか?」
「そなたにまで忌み嫌われるのであれば、生きていても仕方がない。私はあのおぞましい蟲の身体を水に沈めたのだ。だが呪いは私を水へと変えてしまった。私を逃がすつもりなど毛頭ないのだ」
王の絶望が深まっていく。
「愛しい愛しいヒイラギよ。私を哀れと思うなら、この変わり果てた身体を地面に撒いてはくれぬか。流れて地中にしみ入ってしまえば、少しは安らぎも戻るかもしれぬ」
呪いは王を連れ去ろうとしている。私は涙を流して訴えた。
「でも私は戻ってきたのです。もう逃げ出したりしません。だから諦めないで下さい」
私の周りで液体がゆらりと動いた。
「ヒイラギよ。そなたの言葉、信じてもよいのか」
「ええ、王様。あなたを愛しています。二度とあなたから離れはしません」
再び水の動きを感じたかと思うと、私は浴槽の底に仰向けの姿勢で押し付けられていた。上を向いた口からは空気が泡となって逃げ出していったが、不思議に怖いとは思わない。温かい液体が口と鼻から流れ込み、気道を塞いだ。空気を求めて大きく息を吸い込んだとき、私は液体の中でも息ができることに気付いた。
いまや王はいたるところから私の身体に入り込もうとしていた。まぶたと眼球の隙間、耳の穴や毛穴からもじわりじわりとしみ込んでくる。腿の間から温かい物が流れ込むのを感じて私は身をよじった。
王に包まれて私は胎児のように浮かんでいた。私の全身が彼で満たされている。肺を胃を子宮を満たし血流に乗って体中をめぐっている。このまま私も溶けてしまおう。溶けて混じり合って彼と一つになろう。
王は私を愛しいと言ってくれた。そのことが何よりも嬉しくて私はくすくす笑った。どこかで王の笑い声も聞こえる。彼の喜びと愛情が身体の内と外から伝わってくる。
私の意識は王の意識と溶け合い、いつしか私は自分が誰なのか、どこにいるのかも分からなくなっていた。
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気付いたら私は溶けてはおらず、寝台の上で天窓を見上げていた。起き上がろうとして体が動かないのに気付く。私の体は二本の腕にがっちりと抱きしめられていた。首を曲げるとそこには男の顔が微笑んでいる。
初めて見る王の顔は奇異に思えた。
「どうしたのだ? あまり男前でなくて失望させたか?」
不安げな彼の表情に私は笑い出した。
「化け物に慣れてしまったので、王様の顔がへんてこに見えるのです」
「夫とするにはへんてこ過ぎるだろうか?」
真面目な口調は崩さないが王の目は笑っている。
「虫でさえなければ、どれほどへんてこでも構いません」
それを聞くと王は私を自分の胸に抱き寄せた。今の私には彼の気持ちが手に取るように分かる。身体の中にはまだ彼の一部が残っているのだから。
「まだ婚礼は済んでおらぬが、花嫁を抱いてもよいだろうか?」
照れたように尋ねる王に、私は小さくうなずくと、目を閉じて彼の口付けを受けた。
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朝食を済ませると、私たちは小さな荷を背負って小屋を出た。昨日と同じ場所でカーランは待っていた。
「兄上」
王に向かってそれだけ言うと彼は深く頭を下げた。うつむいた顔からこぼれる涙の粒が足元の草を濡らす。
「世話をかけたな」
王は弟に歩み寄り、彼の身体を両腕で包み込むようにして抱きしめた。
「お心は変わらないのですね」
「ああ、後のことは頼む」
うなずく王に、カーランは寂しそうに微笑んだ。彼は涙を拭うと私に向き直り、再び頭を下げた。
「兄を救ってくださってありがとうございます。あなたへの報酬ですが……」
「褒美には王様をいただきたく存じます」
私の言葉にカーランも王も声を立てて笑った。
「欲しいものを差し上げるお約束でしたから、仕方ありません。ただし、時々はお借りしますよ。私にとっても大切な兄なのですからね」
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私達は私の生まれ育った村へ戻る。あばずれ魔女が婿を連れて戻ったと、ちょっとした騒ぎになるだろう。 ちょうどいい、これからは婿殿に庭の手入れをしてもらおう。今までは虫がこわい魔女だなんて、村の人たちには恥ずかしくて言えなかったのだから。
-おわり-
ヒイラギと夜の君 モギイ @fluffymoggie
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