第7話

 蛾が出て行った後も、毛布をかぶったまま泣き続けた。泣いて泣いて、ここ数日の疲れからいつしか眠り込んでしまった。夕方近くになり、目を覚ました私はゆっくりと立ちあがった。あたり一面に蛾の鱗粉が散らばっている。自分の髪にもついているのに気付き、浴室へ行って身体を洗い流した。



         ******************************



 夕食の時間になってもぼんやりと寝台に腰掛けていた。王が虫となって以来、何も食べる気が起きず、机の上に現れる食事にもほとんど手をつけていない。彼はどうして部屋から出て行ったのだろう。正気に戻ってくれたのならいいが、確かめに行く勇気はなかった。


 そのとき扉の外から物音が聞こえ、私は飛び上がった。


「ヒイラギよ」


 王が私に話しかける。急いで扉のところへ行き、災厄除けのまじないをかけなおした。王に対して効き目があるのかどうかは分からない。扉を開ける呪文なら知っているのに、肝心の開かなくする方法は知らなかったのだ。


 私の気配を感じて、彼は話し始めた。


「恐れずに私の言うことを聞いて欲しい。今朝の私は人の心を失っていたのだ。まさにこの姿にふさわしい化け物に成り下がっておった。どうか許してはくれまいか」


 穏やかで温かみのあるいつもの王の声だった。彼は心を取り戻したのだ。安堵のあまり私はその場に座り込んだ。返事をしようとしたのに喉の奥がひっついたようになって声が出ない。


「今日までご苦労であった。そなたはもう行きなさい。私はここで犯した罪を償おう」


「つみ……ですか?」


 ようやく私は乾いた声をしぼり出した。


「ああそうだ。私は罰を受けておるのだ」


「でも村人を殺したのはあなたではありません。あなたは十分苦しみました。もう罪は償ったのではないのですか?」


「ここにきた頃の話だ。この苦しみから逃れようと、私は国中の名の通った魔法使いや呪い師を呼び集めた。だが誰もが老婆の告げた方法しかないと口を揃えたのだ。だから私は女を探してこさせた。私のようなものでも愛してくれる者が見つかるかもしれぬ、そう期待したのだ。ある若い娘が私と暮らすことを承諾してくれた。貧しい家の娘で病気の親のために金が入用だったのだ」


 王の声には苦痛がこもっている。


 「けなげな娘だった。私の姿に怯えながらも、私とここで暮らしてくれたのだ。今のそなたのようにな。娘は私に忠実に仕えてはくれたが、好意を抱いてくれることはなかった。 私には待てなかった。どうしてもこの境遇から逃れたかったのだ。そしてある夜、私は嫌がる娘に伽を命じた。愛がなくては呪いは解けぬ。娼婦で試して分かっておったはずなのに、私には一縷の希望を捨てることができなかった」


 王は娘を犯したのだ。ゆがんだ蛾が私と交わろうとしたように、娘がもっとも恐れるモノの姿で。私にはその確信があった。この呪いはあまりに狡猾だ。私たちには最初から勝ち目などなかったのだ。


「娘は口がきけなくなり、ここから連れ出されていった。私はまた一人になった。もう誰にも会わずに罪をつぐなうつもりであったのに、カーランはどうしても諦めきれぬようだった。癒しの技を持つ娘を見つけたと聞いたとき、私は人恋しさのあまりそなたと暮らすことを承諾してしまったのだ。もう誰にも苦しみを与えたくはなかった。だから会うのも一日に一度、夕食の時だけと固く心に決めておったのだ」


 王は弱々しい声で笑った。


「そなたと過ごす時間はあまりに楽しく、それが再び呪いに付け入る隙を与えてしまったのだ。朝になれば私はまた正気を失うかも知れぬ。そなたは今夜のうちにここを去りなさい」


 羽の震える音が遠ざかっていく。やがて隣の部屋の扉が閉まる音が広間に響いた。自分が部屋に戻ったのが私に分かるように、わざと大きな音を立ててくれたのだと私は思った。



         ******************************



 私が広間に出ると、例の壁の穴がぽっかりと口を開けていた。赤みがかった春の夕日が普段は光の当ることのない広間を照らしている。王の部屋の扉は閉じられたままだ。私は何も言わずにそのまま小屋を出た。


 小屋の魔力が感じられなくなるまで歩くと、私は呪文を唱え、村の方角を探し当てた。日が暮れるまで歩き続けて森を抜けたところに男が立っていた。髭の男と共に私を小屋へと連れて行ったあの若い男だ。髭男の将軍もいるのかと周りを見回したが、今日は彼一人のようだ。


「兄が世話になりました」


 彼は私の姿を見ると慇懃に頭を下げた。つまり、彼が王の弟のカーランだったのだ。私もお辞儀を返した。


「お役には立てませんでした」


「いいえ、兄はあなたにとても感謝していました」


 王からの連絡を受けて、私を待ち受けていたようだ。彼に何が起こったのかも知っているのだろうか。


「これから王様はどうなるのですか?」


「ほかの方を探すつもりでした。でも兄はもう誰もよこすなと……」


 尻尾を巻いて逃げ出す私に教える義理などないのに、彼は嫌な顔もせず答えてくれた。


「そうですか」


「約束の報酬をお渡ししましょう。道中の邪魔になるようでしたら、後から届けさせます」


 報酬は金貨三十枚のはずだった。だが差し出された袋はずっしりと重そうだ。私ともあろう者が褒美のことなどすっかり忘れてしまっていた。村に戻ってもたいした蓄えはない。何も貰わずに戻れば次の冬を越せるかも分からない。だが私は王を苦しめただけなのだ。報酬を受け取るのは間違っている気がした。


「それは受け取れません」


 カーランは微笑んだ。私の答えを予期していたようだ。


「それでは私が兄から叱られてしまいます。何でも構いません。あなたにも欲しい物や入用な物があるのではないですか?」


 ――私の欲しい物。


 子供の頃、私は家族が欲しくて仕方なかった。魔女のばあさんは私を女中代わりに使うだけ。朝から晩まで働かされて、ばあさんが死んだときには涙も出なかった。それからはずっと一人。流れの魔法使い達も一月もしないうちに去って行った。


 王と二人きりの静かな日々。誰かと過ごすことの喜びを知った日々。あれが私の求めていたものではなかったか。呪いが私たちに牙を剥くまでは、私はとても満ち足りた気持ちでいられたのだ。後悔の念が湧き上がる。私はこの世で一番大切なものを残してきてしまったのだ。


「戻ります」


 今度はカーランの顔にも驚きが浮かんだ。私に向かって何か言ったようだったが、私はすでに小屋へ向かって走り出していた。

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