第6話
夜明け前に目を覚まして、王の寝台で眠っていたことに気付いた。浴槽に王を残していくことが心配で、昨夜は自分の部屋に戻らなかったのだ。蝋燭を灯し、すばやく服を着替える。決心は変わらなかった。彼がどのようなおぞましい姿に変わろうとも、私は彼に抱かれる。彼の地獄のような日々を今日で終わらせるのだ。
私の気配に王が目を覚ましたのか、浴室から水音が聞こえた。私は立ち上がると浴槽を覗き込んで彼に挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう」
王は浴槽の中でぐるりと回ると、横倒しになって私を見つめた。
「どうかされましたか」
「ヒイラギよ。そなたの気持ちは嬉しいが、無理をせずともよいのだぞ。ここでの暮らしに私は満足しておるのだ」
彼は私に気を使っているのだ。毎日繰り返し醜い姿に変わり、外を出歩くことさえ叶わない。そんな生活をこれからも続けていきたいはずがない。
「王様、どうか止めないでください。私はあなたをこの苦しみから解き放つと決めたのです」
「ヒイラギよ。聞きなさい」
でも私は彼の言葉を無視した。浴槽の縁に両手をつくと、身を乗り出して彼の唇に口付ける。王は冷たくてぬるりとして熟れた瓜のような匂いがした。
再びぐるりと回ると王は私を見つめた。
「そなたの心はよく分かった。だが、この呪いは一筋縄では解けぬ。どうか無理はしないでほしい」
その時、天窓から光が差し込んだ。朝日が昇ったのだ。私は水の中に右手を差し入れ、王の短い左腕を握り締めた。ぶるぶると身体を痙攣させたかと思うと、彼の輪郭が変化し始めた。みるみるうちにエラがふさがり、首も胴体も溶け合って一つの大きな塊へと姿を変える。私の握りしめていた腕も身体に吸収されてしまった。彼に痛みを感じさせないためには、絶えず身体のどこかに触れていなくてはならない。今までとは異なる変化に戸惑いながらも、私は白い塊に両の手のひらを押し当てた。
やがて塊はパンの生地のように膨らみだし、大量の水と共に浴槽からあふれ出した。床の上で波打ちながら長く細く伸びていく。しばらくすると、ちょうど私の右手を押し当てている辺りに丸い文様が浮き上がってきた。文様は徐々に濃さを増し、最後には黒い縁取りのある黄色と赤の鮮やかな同心円となった。ぶよぶよとした身体に沿って同じような文様がいくつも並んで浮き出ている。彼が何に変わろうとしているのか気付き、私は悲鳴をあげた。
王は巨大な芋虫に変わりつつあったのだ。
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私は虫が苦手だった。姿を目にするだけで病的なほどの強い恐怖に襲われたのだ。中でも苦手なのが幼虫の類、そして大きな腹を持った蛾だった。蛾の羽の目玉模様を見ると気味の悪さに体がすくんだ。お陰で庭仕事は大の苦手で、家の裏の薬草畑にも虫が寄り付かないよう、幾重にもまじないをめぐらせていたほどだったのだ。
私は王の部屋から走り出た。両手で口を塞いで悲鳴を押さえつける。彼の変身はまだ終わっていない。私の手が離れて苦しんでいるのは分かっていたが、どうしてもあれに触れることなんてできない。自分の部屋に飛び込むと私は床に座り込んだ。
今まで一度たりとも虫の姿に変わったことなどなかったのに。『呪いは一筋縄ではいかない』 そう彼は言った。私の弱点が虫であると呪いは知っていたのだ。彼の絶望をより大きなものにするために、今となって彼をおぞましい虫の姿に変えたのだ。
震えが止まらず、私は自分の身体を抱きしめて部屋の中を歩き回った。目を閉じれば、膨れ上がった幼虫の腹が脳裏に蘇る。胃液が込み上げ、私は手洗いで何度も吐いた。
昼過ぎになってようやく心が落ち着いてきた。王の気持ちを思いやる余裕が出来ると、今度は激しい罪悪感に襲われた。私に裏切られて、彼は今、どんな思いをしているのだろう。
私は勇気を奮い起こして彼の部屋の扉を叩いた。
「王様、すみませんでした」
私は謝った。
「どうしても虫が怖いんです。昔からどうしても駄目なんです」
「気にせずともよい。誰にでも怖いものはある」
王の穏やかな声が聞こえた。芋虫の姿なのに人の声は出せるようだ。最終的にどのような姿になったのか思い浮かべようとして、私はまた恐怖に襲われた。
「明日の朝は……」
泣き声になった私に、彼は優しく声をかけた。
「来なくてもよい。痛みなら耐えられる。そなたが来るまで長い間耐えてきたのだからな」
「ごめんなさい」
「辛い思いをさせたな。許せよ」
王は私が失敗するのを知っていたのだ。悔しくて悲しくて私は泣きながら部屋に戻った。
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眠れぬままに、空が白みだした。もうすぐ王の変身が始まる。助けに行きたくても、あの巨大な芋虫に近づく勇気など出なかった。
私は王が叫び声をあげるのを目を閉じて待ち受けた。だが、天窓から朝の光が差し込んでも隣の部屋からは物音一つ聞こえてこない。
――どうしたのだろう
明るくなるのを待って、私は彼の部屋の扉を叩いた。だが返事はない。
芋虫でさえなければ怖くはない。もう変身は終わっているはずだ。違う姿になっていることを期待して私は扉の隙間からそろそろと中を覗いた。彼の姿は見あたらない。
「王様?」
私は恐る恐る部屋に足を踏み入れた。彼はどこへ行ってしまったのだろう。浴室を覗いてみたけれど、そこにもいない。
出口など天窓しかないのにと上を見上げたら、天井の暗い隅に薄茶色のものが張り付いているのに気付いた。壁と色が似ているのですぐに気付かなかったのだ。人間の背丈ほどもある卵型の物体だ。
それが大きな繭だと気付いたとき私の体はすくみ、その場から動けなくなった。恐怖に飲み込まれそうになりながらも目を閉じて呼吸を整える。震える足を叱り付けて部屋から出ると、私は扉を閉め、効果があるのかも分からない封印の呪文を唱えた。
部屋に戻ると毛布をかぶった。気持ちが悪い。あの芋虫は……王は、繭になってしまったのだ。いくら呪いだからといえあまりにも酷いではないか。あの繭の中からいつ何が出てくるのか、私には想像もつかなかった。
翌朝も隣の部屋からは何も聞こえなかった。私にはもう王の部屋を覗く気力も勇気もなかった。あの中から彼が出てくるのを、ただじっと待つしかないのだ。
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悪夢に満ちた浅い眠りを繰り返し、翌日、また夜明け前に目を覚ました。
誰かが私を呼んでいる。
「ヒイラギよ」
声は部屋の中から聞こえてくるようだった。
「王様ですか?」
「そうだ」
「出てこられたのですね。ご無事ですか?」
「ああ、無事だ」
彼の声には抑揚がない。
「どこにいるのですか?」
「ここだ」
声は更に私に近づいたようだ。同じ方向からぶるぶると何かが震える音も聞こえる。かすかに顔に風を感じ、私は真っ暗な室内を見回した。どこから風が入って来るのだろう。
「ヒイラギよ」
王が再び私の名を呼んだ。
「はい」
「もういやなのだ」
「王様?」
「いやだ、いやだ」
「どうなさったのですか?」
立ち上がろうと私が身を起こしたとき、天窓からうっすらと朝の最初の光が差し込んだ。暗がりにぼんやりと輪郭を浮かび上がらせたのは……巨大な蛾だった。
四枚の茶色い羽はすべて異様な形にねじれている。膨れ上がった腹には芋虫だった時と同じ目玉の文様が並び、ひくひくと一列に並んだ穴から息をしていた。蛾の頭部についているのは、人間の顔によく似たものだった。だが目は赤く、虫の目玉のようにいくつもの小さな粒が寄り集まってできている。
見たくなどないのに一瞬でこれだけのものが目に飛び込んできた。私は金切り声を上げた。
「もういやなのだ。私を救ってくれ」
人間そっくりの口が、悲鳴を上げ続ける私に語りかける。
「約束したではないか。私を救え。スクエ スクエ スクエ スクエ」
蛾がひねこびた羽を震わせるたび、銅色に光る麟粉が辺りを舞った。ぶんぶん言っていたのはこの羽だったのだ。私は首を振りながら後ろに下がった。後ろには壁しかない。蛾が一歩前に出る。
「どうした、ヒイラギ。私を愛しているのだろう」
「嫌です。よらないでください」
「愛していると言ったぞ。呪いを解くと言ったぞ」
蛾は青白く膨れ上がった腹部を私に向けて折り曲げた。胴体の先端からは鈎針のようなものが突き出している。それが何なのか私には分かった。蛾のオスはあの器官でメスと繋がるのだ。
王は私と愛を交わそうとしている。あのおぞましい姿で。
「嫌です。嫌です。お許しください」
私は泣いて懇願した。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。逃げ場をなくした私は、寝台と壁の間に小さくなり頭と身体に毛布を巻きつけた。恐怖と絶望で動くこともできず、巨大な虫の長い足に絡め取られるのを目を閉じて待った。
だがその時は来なかった。いつしか蛾の羽の震える音も聞こえなくなっていた。沈黙に耐えられなくなり毛布の下から外を覗けば、そこには蛾の姿はなかった。
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