第5話
ある朝、私は家具が倒れる音で目を覚ました。天窓からは夜明けの光が差し込んでいる。寝過ごした事に気が付いて慌てて飛び起きた。
罪悪感にさいなまれながら王の部屋へ駆け込みむと、床の上にはひしゃげた竜のような生き物が大声で吼えながらのた打ち回っていた。巨体につぶされそうで近づくこともできない。なんとか跳ね回る尻尾の先を捕まえると、彼はふらふらと床にへたり込んだ。
「アリガトウ」
痛みから解放され、目に安堵の色を浮かべて彼はつぶやいた。彼の言葉には心からの感謝がこめられている。
「ごめんなさい」
昨夜はつい遅くまで本を読みふけってしまったのだ。自分の不注意で彼を苦しませてしまったのが悔しくて私の目から涙があふれた。
「ヒイラギヨ、ナクデナイ」
王の鉤爪の生えた腕が伸びてきたかと思うと、私は彼の胸に抱き寄せられていた。
「ジブンヲ セメルコトハナイ。ワタシハ ダイジョウブダ」
王の声が耳元で聞こえる。彼の身体を覆っている血の色をした体毛が柔らかく私を包んだ。私が身を固くしたのに気付き、彼は慌てて私から離れた。
「スマヌ。コワガラセテシマッタカ」
「いえ、平気です」
けれども私の心臓は早鐘を打っている。どうしたのだろう。王に近づき過ぎて呪いに当てられてしまったのかもしれない。魔女は普通の人間よりもまじないの影響を受けやすいのだから。
私は改めて王の新しい姿を眺めた。今朝の彼はいつにも増して醜い。彼がいつも身にまとっている大きな布を拾い上げ、身体を覆い隠した。今日はどこを褒めてあげればいいだろう。
「今日の王様は毛並みがよろしいですね。ふわふわして気持ちがいいです」
私はそう言って王の長い首に手を伸ばし、おぞましい色の毛皮をそっと撫でた。彼の体がびくりと震える。いつもなら気の利いた答えが戻ってくるのに、彼は黙ってやぶにらみの目で私を見ているだけだ。私は慌てて手を引っ込めた。胸の動悸がまたひどくなっている。彼はやがて私から目をそらし、一言「アリガトウ」とだけ言った。
それからも彼は落ち着かない様子で、気付けば私の方を見ているのだった。ぎくしゃくとした雰囲気に耐えかねて、昼食を済ませると、私は寝不足を理由に自分の部屋に戻った。
彼は私の失敗に腹を立てているわけではない。でも彼の様子がおかしいのは明らかに私のせいだ。自分が何をしでかしたのかさっぱり分からず、その日一日を悲しい気持ちで過ごした。
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翌朝はまだ暗いうちに王の部屋を訪れた。昨日の失敗を繰り返したくはない。小さな蝋燭を掲げて彼の部屋に入ると、王はまだ寝息を立てている。私は寝台の横に腰を下ろし、彼の腕にそっと手を添えると夜明けを待った。
やがて天窓から光が差し込み、王の体が激しくよじれた。変身が始まったのだ。彼は目を覚まし、私に気づくとゆがんだ口元に笑みを浮かべた。今朝はいつもの気さくな王に戻っていてくれればいいのだけど。毛皮に覆われた腕がだんだんと短くなっていく。後ろ足もすっかり短くなり、胴体へと吸収されていった。何度見ても痛々しい光景だ。私は目を閉じて変身が終わるのを待った。
その時、王が呻いた。
「タ……スケ……テ……」
尋常ではない声に私は目を開いた。痛みは感じていないはずなのに、明らかに彼は苦しんでいる。彼のまぶたは円形に広がり、膨らんだ眼球がむき出しになっていく。あごの両脇はぱっくりと肉が裂け、赤く深い切れ込みが入っていた。
これは魚のエラだ。彼は魚に似た何かに変わろうとしていた。つまり今の彼は水がないと呼吸ができないのだ。急いで傍にあった水差しで彼のエラに水を注ぐと、彼が息をついた。私は彼の重い身体を押したり引いたりして、大きな浴槽の前まで運んだ。どうにかして彼をこの中に入れなければならない。
すがるように私を見つめる彼に私は言った。
「もう少し我慢してください。すぐに水の中に入れてあげます」
彼の両脇に腕を差し込んで、ぐにゃりとした身体を持ち上げようとした。すでに変化を終え、王はトカゲと魚の合いの子みたいな姿をしている。前足も後ろ足も申し訳程度の大きさしかなく、床の上では自分の身体を持ち上げることすら出来ない。王の身体はあまりに重すぎた。紫がかったウロコは粘液で覆われ、ぬるぬるとすべる。重い物を持ち上げるときに使う呪文を繰り返し唱え、体中べとべとになって、やっと私は彼を浴槽の中に落とし込むことができた。
彼はそのまま浴槽の底に沈んでしまい、長い間顔を出そうとしなかった。
「王様、大丈夫ですか?」
しばらくして彼の頭がぼこりと浮き上がった。目玉は魚のように顔の両側に一つずつついているので、王は横倒しになって片方の目だけで私を見つめている。
「すまぬ、呼吸を整えていたのだ。命を助けて貰い、礼を言うぞ」
ごぼごぼという音と共に魚の口から言葉が出てくる。どうやら不自由なく話せるようだ。彼が死んでしまうのではないかという恐怖から解放され、私はへなへなと床に膝をついた。視界から消えた私に向かって今度は彼が声をかける。
「ヒイラギよ、そなたこそ大丈夫か?」
また同じようなことが起こったら、今度は彼を助けられないかもしれない。そう思うと不安で体の震えが止まらなかった。この呪いはいつかきっと彼を殺してしまう。なんとしても終わらせなくてはならない。
私は立ち上がった。
「教えてください。呪いを解く方法があるのでしょう。あなたが苦しむのを見てはいられません。どうか私にお手伝いをさせてください 」
長い沈黙の後、彼が口を開いた。
「呪いを解く方法はある」
「どうすればいいのですか?」
「おなごと一つになれば呪いは解けるとあの老婆は笑っておった」
つまり……女を抱けということか。確かにこの醜い姿では、どんな女も悲鳴をあげて逃げ出すだろう。ふとあることを思い出して私は尋ねた。
「あの、お后様はどうなさったのですか?」
王は、姿を消す数年前に隣の国から后を迎えたのだ。美しい方だと村でも話題になったのでよく覚えている。お后と聞いて、彼は水を吐いてガブガブと笑った。
「私の姿を一目見るなりさっさと逃げ帰ってしまったわ。元々、愛などない結婚であった。私が化け物になったと噂をしかねぬ女であったから、他言すれば呪いは己の身に降りかかると脅しておいた。どうだ、望みなどないだろう」
「もしや、私がここにいるのはそのためだったのですか?」
王がまた笑った。
「いいや、私はもう諦めておる。だがあやつらは諦め切れぬようじゃな。王の座は譲ると言っておるのに、カーランの奴は受けようとはせぬのだ」
カーランは王の弟君だ。名君と謳われた先王亡き後、王と力を合わせこの国を治めてきた。若いながらも人徳者と聞く。誰もが王の復帰を待っているのだ。私にこの呪いを解くことができれば……。浴槽の隣に椅子を置いて座り、浮き沈みする王の頭を見ながら私は考え込んだ。
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魔女として生計を立てるには、たくさんの魔法を知っていなければならない。持って生まれた能力だけに頼っていては、生きてはいけなかった。だから私は新しい呪文を覚え、少しでも仕事を増やそうと努力してきたのだ。
私を養ってくれたばあさんはたいした魔女ではなかった上に、とっておきの魔法は墓へ持って行ってしまったので、彼女から学んだ呪文はわずかなものだった。私の能力に興味をもった高名な魔法使いが尋ねてくることもあった。だが、村に立ち寄るほとんどの魔法使い達は、雇われるほどの腕はなく、訪れた先で術を施してはその日の食い扶持を稼いでいるような連中だった。私はそんな流れの魔法使い達から魔法を学んだ。彼らは私の家に泊まり、宿泊代として小さな技を教えてくれた。
けれども、ある程度の魔法となると、温かいスープと寝床だけでは代償には足りなかった。見返りとして私は彼らと床を共にした。ほかの方法を私は知らなかった。誰も私にどうすればいいのか教えてはくれなかったのだから。
寒い冬の夜、隣に男のぬくもりを感じるのはいいものだ。いつか私の元に留まってくれる男もいるだろうと夢を見た事もあった。けれど、村での商売が終われば彼らは次の目的地へと去ってしまう。村人が私の噂をしているのは知っていたけれど、私は気にも留めなかった。どうせ村の男達は『小さな死』にはかかわろうとしない。村人が魔女に会うのは魔女の力が必要なときだけだ。
この先、魔女である私を妻として迎えてくれる男など現れはしまい。とうの昔に純潔も失った。王の呪いを解くことが出来るのであれば、私の身体を彼に与えるぐらいなんでもないことだ。
それが私の下した決断だった。
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「先ほどから上の空だな。どうかしたのか?」
私の沈黙を訝った王が声をかけた。
「王様、私でよければ抱いてください」
今度は彼は笑わなかった。急に恥ずかしくなった私はわざとおどけるように言った。
「お魚の姿では一緒にお布団に入れませんね。でも、明日にはこの呪いを終わらせましょう」
王は浴槽の中でぐるりと横転した。背骨がねじれているので真っ直ぐ浮かんでいるのは骨が折れるようだ。
「ヒイラギよ。そなた、本気で申しておるのか?」
「ええ、本気です」
魚の目がぎょろりと私を見る。
「そなたの心遣い、嬉しく思う。だが……」
さっきまでと違う沈んだ声に、私は悟った。
「呪いには続きがあるのですね」
「そうだ。呪いを解くことが出来るのは、私を心より愛してくれる者だけなのだ。将軍は老婆から話を聞き出すとすぐに娼婦を連れてきた。皆、私の姿を見て嫌がったが、一人だけ法外な報酬と引き換えに私と一夜を共にすることを承諾したのだ。結果は見ての通りだ。更に老婆を問い詰めると、婆はげたげたと笑い出しおった。金で女と結ばれたつもりでおるのかと、私を嘲りおったわ。真実の愛がなくては呪いは解けぬ。そしてこのような醜い化け物を愛する女など、どこにもおらぬのだ」
私はうなだれた。それでは呪いを解くのは至難の業だろう。
その反面、私は自分が安堵しているのにも気付いていた。呪いが解ければ彼は元の暮らしへと戻ってしまう。お払い箱になった私も同じ。あの冴えない村でまた孤独に魔女として暮らすことになる。それならばここで王との暮らしを続けていくほうがどれだけよいか。
だが、それでは王が哀れすぎる。毎朝新しい身体になじむのはひどく骨が折れることなのだ。歪んだ蹄や曲がりくねった手足で部屋の中を移動するのにどれほどの苦痛を伴うのか、毎日彼を見ている私にはよく分かった。
なんとか呪いを解いてあげたい。でもこの暮らしを終わらせたくもない。突然の葛藤に私は途方にくれた。けれども、どうして自分が陰気臭い小屋の中で化け物と暮らすことに、これほどの未練を感じるのか、その理由に思い当たったとき、私は彼に向かってこう言った。
「王様、お願いです。どうか私を抱いてください」
王は水面から口だけ突き出すと、辛抱強い口調で私を諭した。
「ヒイラギよ。気持ちはありがたいが、そなたを抱いても無駄なのだ。身体の交わりだけでは呪いは解けはせぬ」
「いいえ、きっとうまく行きます。だって、私は王様が好きですから」
そう、いつの間にか私はこの醜い国王を愛するようになっていたのだ。
王は何も言わず、水面越しに私を見つめた。半開きになった口からぽこぽことあぶくが浮かび上がる。どうやら驚かせてしまったようだ。
私は生まれて初めて好きになった人に向かって、力強く微笑んで見せた。
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