第2話

 何者かが扉を叩く音で目を覚ました。いつの間にか寝台の上で眠り込んでいたのだ。天窓からはぼんやりとした月明かりが差し込んでいるだけで、部屋の中は薄暗い。扉を叩いたのはあの病人だろうか。


「はい、なんでしょうか」


 身分の高い相手だと言われたのを思い出し、出来るだけ礼儀正しく返事を返した。


「ショクジノ ジカンダ。デテキテ タベナサイ」


 車輪が軋むような高くてか細い声に命じられて、私は慌てた。髭の男に身なりを整えろと言われたのを思い出したのだ。


 蝋燭に火を灯し、急いでドレスに着替えた。着付けなどしたことはなかったが、ドレスはぴったりと身体に合った。髪をすばやく整えると私は扉を開けた。


 暗闇の中、蝋燭の明かりに照らされた小さなテーブルが浮かび上がった。食卓には食事が用意されている。今朝入ったときには広間には何もなかったはずなのに、テーブルごと送り届けてしまうとはたいした魔法使いもいるものだ。


「スワリナサイ」


 暗闇の中から声をかけられ、私は飛び上がった。広間の中は暗く、声の主がどこにいるのかも分からない。急いで席に着くと声の主が尋ねた。


「ソナタ、ナマエハ?」


「キリ=タルヴァと言います」


「『チイサナ シ』トハ オカシナ ナマエダナ」


 私の住む地方に伝わる古い言葉でキリ=タルヴァは『小さな死』を意味する。相手が名前の意味に気付くとは思わなかったので、私は驚いた。


「ダガ ホントウノ ナデハ ナイダロウ」


 少しためらってから私は答えた。


「それは魔女の通り名です。本当の名前はヒイラギと言うんです」


 『身分の高い方』と差し向かいで話したことなど一度もない。私に礼儀作法を教えてくれる者などいなかったので、顔も見えない相手に向かってどのように口を利いていいものやらさっぱりわからなかった。


「ソウカ。ソチラノ ホウガ イイ ナマエダ」


  そう言うと闇の中から食器の触れ合う音が聞こえてきた。人の名前を聞いておきながら、自己紹介をするつもりはないようだ。私は皿の上の食べ物に目をやった。蝋燭の光だけではよく分からなかったが、鶏肉とゆでた野菜のようだ。味は悪くない。お腹がすいていた私はいつしか夢中で口に詰め込んでいた。


 気づくと部屋の反対側から音がしなくなっていた。 はっとして顔を上げると声が言った。


「クチニ アッタヨウデ ナニヨリダ」


 恥ずかしさに顔が熱くなった。蝋燭の光では私の顔色まで分からないのがせめてもの救いだ。せっかくあちらから話しかけてきたのだから、この機会を逃さずに質問することにする。礼儀作法を気にしていては何も話せないのだからと私は開き直った。


「あの、あなたはどこが悪いのですか?」


「ナニモカモダ」


「それでは分かりません」


「カマワヌ。ドウセ ソナタニハ ナオセナイ」


「でも看病しろといわれたのです」


「ソナタハ トモニ ショクジヲ シテクレルダケデ ヨイノダ」


「今日はもう暗いですから、明日の朝、診させてもらってもいいですか? 私にも何かできるかもしれません」


「イヤ、ナニガアッテモ ケッシテ ワタシノヘヤヲ アケテハナラナイヨ」


「でも……」


 ずるずると椅子がひかれる音がして、相手が席を立つ気配がした。


「ソレデハ マタ アスノバン」


 そう言うとその人物は正体不明のまま自分の部屋へと戻ってしまった。



         ******************************



 次の朝、奇妙な物音に起こされた。


 自分がどこにいるのか思い出すのにしばらくかかり、その音が隣の部屋から聞こえてくるのだと気づくのにさらにしばらくかかった。


 笛の音のような音は少しずつ低くなり、いつしか人の呻き声に変わった。時折、重いものが何かにぶつかるような音が響いてくる。


 あの人物が苦しんで暴れているのだ。そう気づいて私は立ち上がった。部屋の扉を開けると、そこには広間の闇が広がっている。髭男に閉じ込められたときの恐怖が蘇り足がすくんだけれど、開け放した自室の戸口から漏れる光を頼りに隣の部屋へと向かった。


 その頃には声は悲鳴へと変わっていた。痛みに耐えられず叫んでいるのだ。急いで扉の取っ手をまわしたが、中から鍵がかけられているのかどうしても開かない。私は両手で扉を叩いた。


 叩き続けるうちに徐々に悲鳴はおさまり、やがて喘ぐような男性の声が聞こえた。


「部屋に入ろうとしてはならないと言ったはずだぞ」


 昨日聞いた声とは全く違う。同一人物なのだろうか?


「でも、苦しいのではないのですか?」


「もう大丈夫だ。夕食までは話しかけないでくれ」


 そういうと声は黙り込んでしまった。中で何が起こっていたのか見当もつかず、私はまた悶々として夕食までの時を過ごした。



         ******************************



 その晩も私と彼は暗い広間で共に食事をした。


「今朝は何があったんですか?」


 食事を終えて、私は彼に話しかけた。


「発作だ」


「声が変わりましたね」


「ああ、声が出せるようになってよかった」


 よく通る深い声をしている。相手は老齢だと思い込んでいたのだが、案外若いようだ。


「のどの病気なんですか?」


「何もかもだ」


 昨夜と同じ答え。病気の事を話すつもりはないようだ。


「そなたはどこの娘だ?」


「黒熊森の村の者です」


 どうせ知らないだろうと思いながら私は答えた。王国東部の山間の小さな村だ。幼い頃に両親を失くした私はそこで一人で暮らしていた。


「あのような山里からわざわざ出てきてくれたのか。ご苦労であったな。ケイリフは元気にしておるか?」


「はい、私の知る限り病気一つしたことはありません」


 村どころか村長の名前さえ知っていることに驚きながらも私は答えた。


「誰かがいてくれると食事も進む。遠いところからよくぞ参ってくれた」


 喜んでくれているようだ。髭男に半ば騙されたように閉じ込められ、むしゃくしゃしていた気持ちも少しだけ明るくなった。


 幾度か彼の名を聞きだそうとしたが、彼は笑って答えようとはしなかった。時間をもて余している私は彼の正体を想像しては時間をつぶした。かなり身分の高い人間であるのは疑いの余地がない。貴族の跡取り息子だろうか。病気の事がばれると継承争いに不利になる。だから病気が治るまで幽閉されているのだ。もしかすると相当の美男子なのかもしれない。


 こんな小屋に男女が二人きりだ。そのうち私に心惹かれて公爵夫人に迎えてくれる、なんて事も起こるかもしれない。そこまで考えて流石に自分でも馬鹿馬鹿しくなった。魔女を妻にしたがる男などどこにもいはしないのだから。


 私は夜にしか会えない彼を、皮肉もこめて『夜の君』と名付けた。



         ******************************



 翌朝も彼の呻き声で起こされた。声はだんだんと大きくなり、最後には甲高い叫び声で終わった。私は彼の言いつけを守り、部屋の扉を開けようとはしなかった。


 その晩、夕食の席で彼は一言も話さなかった。私は彼から言葉を引き出そうといろいろ話しかけ、もしかしたら話すことができないのではないかと思いついた。


「声が出ないのですか?」


 私が尋ねると、彼はテーブルをこつこつと叩いた。 声が出たり出なくなったり、どんな病気なんだろう。

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