ヒイラギと夜の君

モギイ

第1話

 また夜が来る。


 遥か頭上の格子のはまった天窓から、光を失いつつある空を見上げた。この小さなレンガの部屋にはこれしか窓がない。燭台に火を灯し、木綿の部屋着から真っ白な絹のドレスに着替えると、私は椅子に座って待った。


 やがて部屋の外から奇妙な音が近づいて来た。濡れた雑巾を床に打ちつけているような、びちゃっ びちゃっ という音。私の部屋の前で止まると、音の主は分厚い木の扉を叩いた。


「すぐに行きます」


 そう返事をすると、音の主が立ち去るのを待って扉を開けた。扉の外には廊下はなく、私が『広間』と呼ぶ大きな部屋に直接繋がっている。広間に窓はない。私の部屋の扉を閉めてしまえば昼間でも一寸先も見えない闇に閉ざされる。


 部屋のすぐ外には小さなテーブルが置かれている。毎回テーブルの上に並ぶのは湯気の立つ食べ物の乗った皿とワインのゴブレット、そして蝋燭が一本だけ立てられた銀の燭台。


 夕食の席につくと広間の反対側から声がした。蝋燭の光は弱く、かろうじて私の食卓を照らすだけ。暗い部屋の中、声の主がどこにいるのかさえ分からなかった。


「ソレデハ タベヨウカ」


 甲高い笛の音のような声がレンガの壁に反響する。でも今日はまだ聞き取りやすいほうだ。


「はい」


 私は答え、今夜も『夜の君』との食事を始めた。



         ******************************



 それは五日前の事、二人の男に連れられて私はこの小屋へとやってきた。目隠しのまま山の中を歩かされたので、自分がどこにいるのかも分からない。春もまだ早く、辺りは新緑の香りに満ちていると言うのに、目的地に近づくにつれ得体の知れない不安が込み上げる。私は逃げ帰りたい衝動を抑えて歩き続けた。


 目隠しの布をはずされると、目の前に質素な小屋が建っていた。素焼きのレンガを積んで作られた平屋の建物は、人家というよりは納屋や家畜小屋の類に見える。だが、近づいてみて壁のどこにも窓が見当たらないことに気づいた。


「この中に病人がいるのだ」


 小柄ながらもがっしりした体格の髭の男が言った。年齢は四十前後というところ、頬に刀傷のような跡があり私を見る目は鋭い。軍人なのだろうか。私を雇っておきながらも信頼していない様子がありありと伺える。


「どのような病気なのですか?」


 もしかしたら人にうつる病なのかもしれない。憂鬱な気持ちで私は小屋を見つめた。それでなければ、このような場所に閉じ込めてしまうはずがない。


「もっとくわしく話してはいただけませんか?」 


「それはできないのだ」


 髭の男が無表情で告げる。私は髭男の後ろの若い男を見たが、彼は後ろめたそうに目をそらしてしまった。髭男と違い、彼は人の良さそうな顔立ちをしている。二人とも質素な身なりだが、話し方や身振りを見れば平民ではないのは明らかだ。


 やっかいなことを引き受けてしまったようだ。建物に近づくにつれ背筋がびりびりと震える。辺りには強い呪文がクモの巣のように張り巡らされていた。病人のための癒しの魔法ではないのは私にでも分かる。これは中にいるものを封じ込める結界ではないかと気付き、ますます不安が膨れ上がる。普通の病人を診るぐらいで、あれだけの報酬を受け取れると思った自分が甘かったのだ。


「何度も言いますが、私の魔法はたいしたことないんです。病人の痛みや苦しみを紛らわせてやれるぐらいです。重い病を治す事はできません」


「それでもかまわん」


 はき捨てるように髭男が言った。


 建物に視線を戻して驚いた。いつの間にか目の前の壁に、ぽっかりと真っ黒な戸口が開いていたのだ。その場所だけ、レンガが消えてなくなっている。田舎の村では一生お目にかかれない高度な技だ。


 男達にうながされ、私は暗い小屋の中へと足を踏み入れると、そこは大きな広間だった。厩にすれば、大きな馬を十頭飼えるだけの余裕はある。調度の類はなく、床にも壁にも外壁と同じ材質のレンガが使われている。窓は見当たらず、正面の広い壁の両端には木の扉が一つずつはめ込まれていた。


 髭男は左側の扉を指差した。


「お前の部屋だ。今日からはここに寝泊りしてもらう」


 扉を開けて私たちは中に入った。この部屋も茶色いレンガで出来ていたが、生活に必要な家具や小物は備えてあるようだ。ありがたいことに天井には小さいながらも天窓が穿ってある。私は部屋の奥にもう一つ扉があるのに気付いた。


「あれはなんですか?」


「用を足すところだ。体もあそこで洗える。この部屋の中のものは自由に使ってもよい」


「食事は?」


「一日三食届けられるから心配はいらぬ。病人は朝と昼は部屋で食べることになっている。だが夕食には同席するのだぞ。身分の高いお方だからな。せいぜい身なりには気をつけてくれ」


 髭男の見下した口調にうんざりしながら、私はうなずいた。男達の様子や報酬の額から貴人の看病をさせられるのだろうと予想はしていたのだ。


「その方に紹介してはもらえませんか。隣の部屋にいるのでしょう?」


「病人は部屋に人を入れたがらない。決して自分から部屋へ入ろうとしてはならんぞ。今夜会うまで待つのだな」


 男達は私の部屋から出ると真っ直ぐに表に通じる穴へと向かった。髭男はここから立ち去りたくて仕方がないようだ。


「あの、それならどうやって看病しろというんですか」


 私が髭男の後ろについて表に出ようとしたとき、彼が振り返った。


「すまないが、それは自分で考えてくれ」


 とたんに辺りは闇に閉ざされた。壁の穴は閉じられたのだ。私の前にあるのは分厚いレンガの壁で、暗闇の中ではそれさえ見ることはできなかった。



         ******************************



 ーー閉じ込められた。


 暗闇の中、私は呆然と立ち尽くした。見えない足先からじわじわと恐怖が這い上がってくる。叫びだしたくなるのをこらえ、自分の部屋の扉の位置を思い出そうとした。壁をつたってそろそろと歩き、やっとのことで扉の取っ手を探り当てる。扉を押し開け、私は部屋に転がり込んだ。小さな天窓から差し込むわずかな光も夏の日差しのように力強く感じられ、私はほっと息をついた。


 低いベッドの上に腰を下ろし、動悸が治まるのを待つ。まずは落ち着いてこれからのことを考えなくては。ここから逃げ出すのは難しそうだ。たった一つの出入り口ははるか頭上の天窓だが、格子がはまっている上に、空でも飛べない限り手も届かない。たいした説明もなしに置き去りにされた事には腹が立つけれど、諦めて男たちの指示に従うしかないようだった。


 これから暮らす部屋を見ておこうと、まずは手洗いを覗いてみた。奥の床に傾斜がつけてあり一番低いところには穴が開いている。身体を洗ったり用を足したりすれば、水が穴の中に流れ込む仕組みのようだ。壁際には四つの脚で支えられた大きな浴槽が置かれており、中からは湯気が立ち上っていた。


 下で火を焚いているわけでもないのにどうやってお湯を温めておくのか見当もつかなかったが、温かいお湯で体を洗えるのはありがたいことだ。そういえば、床も壁もレンガなのに温かい。


 浴室から出ると、部屋の調度を調べてみた。本棚には美しく装丁された本が並び、その隣のテーブルには軽食らしきものが並べられていた。部屋に入ったときにはなかったはずだ。浴室にいたわずかな隙に誰かが届けに来たとは思えないから、魔法の力で送られてきたのに違いない。物を移動させることの出来る魔法使いなど、国内には数えるほどしかいないはずだ。一流の術使いがこの小屋にかかわっているようだ。


 衣装戸棚の扉を開けて私は思わず声を上げた。数着の部屋着とともに美しいドレスがぶら下がっていたのだ。貴族の姫君がまとうような清楚で上品なドレス。一介の村娘には一生縁のないものだ。夕食の席でこれを着ろということか。触れようとして自分の手が汚れていることに気付いた。山道を歩いてきたので髪も体も埃だらけだ。


 まずは旅の汚れを落とすことにした。浴槽の湯の中で丁寧に身体を洗い、気に入った部屋着を選んで身に着けるとまるで自分がどこかの姫君になったような気がした。私は鏡を覗き込んだ。真っ黒な髪に焦げ茶色の瞳の娘が鏡の中から見返している。馬子にも衣装とはよく言ったものだ。この姿で村に戻れば男たちが放っては置かないだろう。私が魔女でなければの話だが。


 石鹸の香りに包まれ、生き返った気分でベッドに腰を下ろしたとき、壁の向こうから奇妙な音が聞こえて来た。隣の部屋の住人の事などすっかり忘れていた私は飛び上がった。


 何かが床をはいずるような音だ。壁に耳を押し当ててみたが、もう何も聞こえなかった。病人は私が来たことを知っているはずなのに、なぜ会いに来ないのだろう。治療してほしいのなら食事の時まで待つことなんてないのに。


 病人の名前どころか性別さえも聞いていない。ましてやどのような病に冒され、どうしてこのような魔法に満ちた部屋に閉じ込められているのか――こんなところに自分の意思でいるとは思えない――身分の高い人だという以外、くわしいことは何も分からないのだ。


 今夜会うまで……髭男の言葉を思い出し、私は諦めて待つことにした。

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