3区

 受け取ったバトンは、もう使い物にならないレベルだった。

 明治大学のマツダ3に先行を許された、神奈川大学のノート。3区ドライバーである長沢選手は、その相手に付いていくことすら叶わなかった。

「タイヤだけじゃない、ブレーキも全然効きが悪い! こんな状態になるまでクルマを酷使して……!」

 彼の怒りの矛先に居るのは、当然2区ドライバーの津久井選手だ。いくら学生生活最後のスティントだからと言っても、ここまで自己中心的なドライビングをされては後続が困る。現に彼は凄く困っていた。

 戸塚中継所を過ぎた先は、下りのテクニカルセクションだ。2区のラストスパートで上った高度の分だけ、3区の序盤で一気に下る。つまり、タイヤとブレーキに厳しいのだ。

 こうも曲がりくねった道だとタイヤのグリップが必要だし、ブレーキングでも踏ん張らねばならない。にもかかわらず、今のノートにはその両方が失われていた。

 リタイア寸前の心許ない走行で、次々と後続車にパスされてゆく。東京国際大学のCT200hに、國學院大學のリーフ。この調子だと3区を終える頃には、10番手以下にまで落ちているかもしれない。

『自分に出来ることをする』。スタート前のチームミーティングで、監督の口から出た言葉だ。

 このまともに走れない長沢選手には、出来ることなどほんの1つでも残されているのだろうか?


 下位グループでの順位変動は、かなりの激戦が繰り広げられていた。

 1区では城西大学のジュリエッタが日本の湿気にやられて電気系トラブルで早々にリタイア、順天堂大学のエクリプスクロスが重量とウェイトハンデを理由にアンダーステアでウォールに当たりクラッシュ。そして続く2区で国士舘大学のスイフトスポーツと専修大学のマーチを抑えたのは、意外にも関東学生連合チームのコペンだった。

 軽自動車規格で圧倒的に馬力が足りないと思われたコペンだが、180PSレギュレーションに合わせて名機JB-DETエンジンに換装。やや足りないが160PSにまでチューンアップし、軽量車体を武器にしてオーバーテイクを連発していた。

 関東学生連合チーム3区担当は、上智大学の中野選手。得意は下りのテクニカルセクション、つまり3区序盤であるこのポイントだ。

「後半の134では絶対に遅いんだ……ここで可能な限り追い抜いて、可能な限りのマージンを築かないと!」

 彼は現在16番手を走行中で、その前を走るのは拓殖大学のインプレッサ。特徴はやはりそのコーナリング性能で、こちらの方が軽いといえども、正攻法ではかなり手こずるだろう。変化球を用意しなければ。

 吹上交差点付近の中速コーナーを、850キログラムの車重で流れ落ちてゆく。コーナリングで重要なのは遠心力を抑えることであり、その為には出来るだけ丁寧にステアリングを操作する必要がある。急なハンドリングは厳禁だ、例え後ろからプレッシャーを与えられていても。

 軽自動車が後方から猛追してくるという絵面は、それだけでドライバーにかなりの恐怖心を植え付けられる。しかもこちらは関東学生連合チーム、リザルトとしては残らないのだ。上位フィニッシュをする必然性が無いので、中野選手の行動は誰もの理解の範疇を大きく外れる。

 横浜圏央道戸塚インター建設予定地の先、右コーナーでインプレッサが挙動を大きく乱した。このプレッシャーに負けた瞬間を見逃さず、小さい車体をインに捻じ込めばあっさりとオーバーテイク。心理戦を仕掛けて楽に勝てれば、こちらとしてもタイヤの消耗が最小限で済む。

 後は後続とのリードを広げるだけだ。原宿交差点の手前で下り勾配が一旦終わるように見えるが、実はその先にもまだ下る場所がある。県道23号・環状4号をアンダーパスする立体交差。しかも下った先に待ち構えているのは左の高速コーナーで、コペンの限界を突破した160PSが遺憾なく発揮できる場所だ。

 どのクルマに遮られることも無く、中野選手がアンダーの暗闇を駆け抜け切り裂く。ここでインプレッサが一瞬バックミラーから見えなくなり、けれども地上へ這い上がる勾配で差が縮まる。国道134号以降も安全なマージンを築き上げるには、あともう一押しが必要だった。

 国道1号が東海道から藤沢バイパスへとその名を変える手前、県道30号との分岐で右レーンを選択。江ノ島方面へと歩みを進め、一旦国道1号から離れるポイントだ。たった1レーンのみでバトルも出来ないような区間を抜けても、そこは片側1車線で狭い県道30号。つまり、小柄なコペンの独壇場だ。

 中野選手が上唇を舐める。しばらくはストレートで我慢の走りを強いられるのだが、待望しているのは次の遊行寺坂だった。ここは下り勾配な上に進入側が緩い右カーブで、底を突いた藤沢橋でも低速のコーナーが待ち構えている。

 茶色いエネオスの前を対向車線まで駆使しながら、アウトインアウトで豪快に駆ける。藤沢橋のS字は彼の大好物で、後ろのインプレッサも完全に付いて来られていない。加えて町田街道との交差点からしばらくは上り勾配に変化するものの、藤沢小学校のハイポイントさえ通過すればまた下りのセクションが顔を見せるのだ。

 小田急江ノ島線と交差する頃には、もうインプレッサの姿が見えなくなっていた。そして代わりにコペンのヘッドライトが、鈍重なCX-30とミニクーパーを明るく照らした。中央大学と創価大学、この2台を平塚中継所までに抜く。中野選手の長いスティントは、もう少しだけ波乱がありそうだった。


 県道30号・旧東海道・戸塚茅ケ崎線。引地川を渡る富士見橋で、明治大学マツダ3はとうとうトップのルーテシアに追い付いた。

「早稲田大学、ようやっとお前さんの相手がお出ましだぜ!」

「藤沢でバトルか、意外と一人旅はさせてくれなかったな……!」

 明治大学の烏山選手と、早稲田大学の竹橋選手。2名の強力なスピードスターが、湘南T-SITE前の左高速コーナーで遂に相見えた。

 戸塚茅ケ崎線は片側1車線ではあるが、自転車走行レーンとして路側帯が広く取られている。やや大柄な2台だがここならばどこでも仕掛けられるし、このことを裏返せばどこであっても気が抜けない戦いとなりうる。まずは湘南T-SITE先のストレートを等間隔で爆走し、街路樹の立ち並ぶ区間へと入る。次の右コーナーでは路側帯も消えて一時的に狭くなるが、突破した後に状況はまた一変。湘南工科大学付近から、片側2車線へとレーンが増えた。

「さぁ明大、一体どう出る!? あんまり長く付き合う気は毛頭無いぞ!」

 ルーテシアが相手の出方を伺っていると、烏山選手のマツダ3は右側レーンへとスイッチした。まだ追い越しをかけるような速度差には至っていない。仕掛けるのはここじゃない、これはどこかへ向けての伏線だ。茅ケ崎の134号合流ポイントか?

 それまでは精々キャッツアイが埋め込まれた程度だったセンターラインだが、白浜養護学校入口交差点からは立派な中央分離帯に成り上がる。対向車線へはもう渡れない、片側のたった2車線を大柄な2台で埋めてしまう。大型のハッチバックが最高速を叩き出しながらバトルをしていると、1レーンを走っているだけでも閉塞感に襲われた。ましてやオーバーテイクなど出来るはずもない。マツダ3はここで絶対に来ない。

 烏山選手が狙っているのはやはり浜須賀交差点、国道134号との茅ケ崎合流ポイントだろう。ここはほぼ直角に曲がって134に進入するので、ハードブレーキング勝負が毎年繰り広げられる名所だ。相手が右レーンに陣取っているということは、その茅ケ崎合流でイン側を制したいという考えなのだろう。

「誰しもが普通はそう考える……けどな明大、残念だがイン側じゃ制圧権は確保できないぜ! 立ち上がりを制する者が、134を制するんだよ!」

「それは分かり切ってるさ早大! お前こそ、読みが湘南の海辺よりも浅いんじゃねーのか!?」

 緩い左カーブのアプローチを往きながら、片側3車線へと拡幅される茅ケ崎合流へ差し掛かる。しかし左レーンは江ノ島方面専用なので、ラインの自由度は全く広がっていない。今走っている自分のレーンで、ベストなコーナリングを決めるだけだ。

 F型柱の青看板を越えたところで、両者ともにブレーキランプを発光させる。カタログスペック上では駆動方式がAWDのマツダ3よりも、FFであるルーテシアの方が軽く有利。しかし180PSレギュレーションの影響で、ルーテシアはより多くのウェイトハンデを積んでいた。だから車体の性能は殆ど互角で、純粋にドライバーのブレーキングテクニックのぶつかり合いとなる。少なくとも、早稲田大学の竹橋選手はそう考えていた。

 そう、彼の読みはまさしく湘南の海辺よりも浅いのだ。

「何でだ……4駆相手に、ブレーキングで負けた!?」

 茅ケ崎合流を曲がり切り134ハイパーストレートへ突入した時には、明治大学のマツダ3が暫定首位へと躍り出ていた。

 竹橋選手は気付いていないが、烏山選手には確信があった。Gベクタリングコントロールだ。エンジンの駆動トルクをコーナーごとに制御・変化させることでタイヤの接地性(トラクション)を最適化させる、マツダ謹製の電子制御技術。これが茅ケ崎合流の低速コーナーで上手く作用し、ブレーキング時の不利を帳消しにしたのだ。

 コーナー立ち上がりで一瞬だけ先行を許してしまうも、それで黙り込む早稲田大学ではない。マツダ3との馬力差を足掛かりに、直後のストレートですぐに抜き返した。

「ここは超高規格の134ハイパーストレートだ、広いからパワーさえあればどこでも抜ける! 明大さんよぉ、相模川までに絶望させてやんよ!」

「そうはいかないぜ早大、地獄の果てまでもへばり付いていくさ!」

 防砂林とゴルフ場の林に挟まれながら、水平線まで届く国道134号を並走する。134ハイパーストレートと銘打たれてはいるが、その実とても緩いRのコーナーが点在している。アクセル全開で走れるからコーナーとして見なされていないのだが、しかしそこは確実に曲がり角だ。Gベクタリングコントロールは的確に4輪を路面へと吸い付かせ、ルーテシアとの馬力差を綺麗に清算してゆく。

 烏帽子岩とサザンビーチ、茅ケ崎の名勝を2道の海風が飛び越してゆく。速度計には目もくれない、ブレーキも踏まないからすっかり冷え切っている。そして待ち受けるのは相模川手前、ノーブレーキで駆け抜ける超高速S字セクション。

 こうも曲率が緩く取られると、イン側もアウト側もさほど影響しない。同条件のルーテシアとマツダ3が、まずは右へとステアリングを倒す。片方のクルマからスキール音が漏れ、タイヤの寿命を一思いに削ぎ落としてゆく。横Gが全区間を通して最も強くかかり、アウト側に位置取る早稲田大学はガードレールに身を擦り付けてしまいそう。アンダーステアを力で捻じ伏せ、限界ギリギリのところで踏みとどまる。

 次は左コーナー、変わって明治大学がアウト側になる。ここを立ち上がれば相模川を越え、一息もつかないうちに平塚中継所だ。もう3区が終わってしまう、決着がつくのはこのコーナー。

 ブレーキを踏まずにアクセルを踏んで、2台が遠心力を全身で受け止める。タイヤの悲鳴が片方から聴こえ、決死のストレートへ向けて猛進する。フロントの駆動輪にそれでも鞭を打ち、屈指の超高速S字を脱出して――。

 トラスコ湘南大橋で、明治大学のマツダ3が抜きん出た。

「コーナーで負けた……違う、ストレートで負けた!」

「それも違うぞ、お前も言っただろ? 立ち上がりを制する者が、134を制するってな!」

 烏山選手がそう吐き捨てると、マツダ3がルーテシアを置き去りにしていった。立ち上がり加速が段違い。これは超高速S字でGベクタリングコントロールが効いたことともう1つ、明治大学のマツダ3がAWDだったことも勝因だ。

 立ち上がり加速を決める大きな要素が、コーナーでの終端速度とトラクションである。うち前者については、早稲田大学のルーテシアがタイヤを鳴かせたことでかなりロスしている。一方でマツダ3はGベクタリングコントロールを投入してスキール音を最小限に抑え、タイヤのグリップを無駄なく使い切っていた。そのためコーナーの脱出速度が落ちなかった。

 そして後者のトラクションは、FFよりもAWDにアドバンテージがある。2輪だけではなく4輪全てを駆動させるAWDは、エンジンのパワーを効率良くタイヤに配分できるのだ。全てのタイヤで負担を肩代わりして、後輪への動力配分を行うことでしっかりと接地させる。

ルーテシアのタイヤが鳴いたのは、前にある駆動輪ではなく後輪だ。だからコーナーでの姿勢がほんの少しだけ乱れて、立ち上がりの際に体勢を立て直すという要らぬ一手間を加える必要があった。

 平塚に入ってから花水川橋手前のバンクが効いたカルーセルを抜け、平塚中継所にマツダ3が飛び込んだ。ここまでレースをリードしていた早稲田大学ルーテシアが陥落し、首位を走るクルマが遂にここで入れ替わった。


<3区リザルト(トップ10)>


1st…マツダ 3 FASTBACK X PROACTIVE(明治大学)

2nd…ルノー ルーテシアR.S. トロフィー(早稲田大学)

3rd…レクサス CT200h F SPORT(東京国際大学)

4th…日産 リーフnismo(國學院大學)

5th…ホンダ ヴェゼル RS(東海大学)

6th…トヨタ C-HR GR SPORT(駒澤大学)

7th…スバル XV Advance(帝京大学)

8th…Honda e Advance(山梨学院大学)

9th…日産 ノートnismo S(神奈川大学)

10th…トヨタ プリウスPHV GR SPORT(法政大学)

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