第5話
の下地のせいでそう思えてより楽しかった。
そもそも大学入学と同時に京極堂シリーズにハマっていたしそうでなくとも元々妖怪とは人間社会から少しでも外れた人間を形容したものだということも知っていたし、絵本で論文を書く様なものだったのだから橋の下の鬼たちの正体だって本当はなにものかくらい歴史的に知っている。ああいうのは海外でも日本昔話でも共通だ。仕組みが同じ。概念が同じ。百鬼夜行もデモ隊も同じ。
その、これとこれは同じものだと結び付ける行為。
神秘のベールを取り去る行為こそ、私の夢の観方。
これによって夢が壊れると思っている人もいるようだが本当に逆だ。
芯がリアリストなものが本気で夢を現実とする時、現実に実在する現象と事象にこそ結び付けることで夢を現実と出来る。現実の姿はこうであり、それを文化的にこう表したものがそれであるのなら、そこにある違いは実在と非実在という次元の壁ではなく、呼び名の違いとあだ名の違い。認識の差だ。同じ次元の話。
妖怪だけではない。翻訳過程で混同されていた時期もあったが、妖精だっている。
当然妖精という言葉を聞いたことのないひとなんていないのだからまず知識として脳に情報があり、それはイコールでその情報に関連付けられる数々の連想イメージがある。それらのファンタジーな幻想が無意識の消費行動の下地となることもあり、現実に経済も動かす。
そして私のような人間を創り出す。
妖精を最初から信じていなければこうはなっていない。
私には物心ついたときから確信のあったものへの正しさに自負がある。
意識にいるということは無論きれいなことばで子供向けに言えば誰のこころのなかにもいるが、心の中やフィルムの上ではなく現実に探したとしたら。
妖精とは季節の変化を可視化する存在。
いたずらをしたりいいことをしてくれるほうもいるがそれは後から混ざった方だ。
妖精とは昆虫と微生物と風と物理と、あとは社会的な自然信仰の文化の融合したものたち。だから見つけようと思えば簡単に現実に見つけられる。『本物の』妖精について書かれた文献など、私たちの生きる社会のどの本屋にも並んでいる。
文学的な比喩の元になったものが実在すること、文学は文学であり、それを楽しむ下地として、裏付けとして知識を得ていけば、なにも現実と幻想を混同しなくとも理性的にファンタジーを現実世界の日常に楽しむことが出来る。
我らは現代の妖怪だ。
何も嘘偽りの無い表現。
くちばしがあろうとなかろうと、
手足が何本だろうと目がいくつだろうと。
そんなことが問題なのではない。
だれかにそう認識されてそう記録されればそうだということ。
どんな妖怪にも妖精にも悪魔にも神でも。
元は人間であるか自然である以上本当にこれがそうだからだ。
だから最初から、成り方も作り方も知っている。
そして、人間への戻し方も。
その他のものへの換え方まで。
だから想像力さえあればどこまでも自由なんだ。
学によって得られる自由の領域も広がる。
そして、そんな本当の原理までわかっている私がああして簡単にあやかしに身をやつして何度も彼らの色々な場所での色々なパフォーマンスを見に行ったが、雲間から階梯がかかるようなあのステージライトは、本当に確率計算をしたとしたら晴れ男だとかそういうレベルではない面白いとしか言えない桁になる確率の回数だ。にわかに俄を楽しませてもらった身からしても一目瞭然な事実。
私が初めてきものを自力で着て見に行ったあのステージショーでも、一座の頭目の赤い天狐殿の登場と同時に雲が晴れていった。その次の年の夏祭りでも神社で風がうずまくように木の葉がざわめいて奇跡的なことが起きていたが、それに気づいたのはわたしぐらいものだっただろう。
いつもそうだから、もう慣れている。そして、いつもそれを楽しんでいる。
楽しませてもらい続けて来たからこうして愛し愛され、誘われては欲して手に入れて身に着けてこうなってきた。そしてこれはこれからも変わらない。日常の中にありふれる神がかったような奇跡というものは、人間そのもの以上に途切れることのないコンテンツだ。
それを観測できる目と耳が、認識できる脳があれば。
何を見ても、どこでなにをしていても。
毎日がショーなんだ。
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