第3話「コペンの彼」

『携帯番号が変わりました。怪しいものではありません。僕はKです』

 留守電のメッセージから飛び込んできた声に、思わず顔が緩んだ。照明の落ちた駐車場で、足早に車に乗り込むと、怪しくない見知らぬ番号へ折り返す。


 


 同窓会以来、五年ぶりの声だ。

 彼は高校一年の同級生。横並びに四人、仲良しというか、何となく気心の合う者同士が隣り合わせて、そのうちのひとりがK君だった。

 彼は決して怒らない。マイペースだけど基本的に調和を守る。運動神経はいい。成績は、おそらく横並び四人組、としてのバランスを保ってくれたのだろう、下から数えたほうが早い。

 家が兼業農家ということで、当時から田畑の手伝いの話をしていた。そのせいか、彼は天日を浴びて育ったような明るさと素直さを持っている。


 同窓会の当番幹事にあたり、私たち十七回生は一年前から準備に忙しかった。卒業以来ご無沙汰の人にも、いろんなルートをたどって連絡をとった。彼もそんなご無沙汰のひとりだったけれど、打ち合わせに集まった時の、大らかな風貌と振舞いは、時間の隔たりを少しも感じさせなかった。

 そして私は、当時臨時収入を得た彼が、妻に反対されながらも購入したという「コペン」に乗せてもらったことがある。


 土曜日の夕方、想像以上にコンパクトな黄色のボディーから、顔をはみ出すようにして笑顔のK君が現れた。オープンカーに乗るのが初めての私は、動き出す風景も音も、身体に刺さってくるようで落ち着かなかった。

「ジェットコースターみたい!」

 シートベルトをしていても、座席に両手をついてしがみついていた。声は自然と高くなる。

「風圧、すごいよね!」

 反対に被ったキャップを抑えながら、K君が笑う。


 公務員の傍ら、田畑を守りながらの実家暮らし。職場恋愛で結婚した妻は、愛らしく賢く、かつ働き者で、農作業の合間に町内の所用にも携わっている。茶道の師範免許を持っており、お茶会の開催をきっかけに婦人部からの評判も上々らしい。そして、授かった二人の男の子も健やかに成長中とのこと。

 彼の生活ぶりは、いたって順風満帆だ。

 あのK君がねぇ。役場の窓口に座っているのを想像して冷やかしているうちに、コペンは山道を登っていく。


 初秋の夕方の空は、終日覆った雲が後ろめたそうに、隙間を作って陽を漏らしている。風を真っ向から受けとめているので、私の髪はアポロマークさながらの状態だった。K君もキャップを気にして、頻繁に頭に手をあてる。

 少し続いた緩い下りから、今度は上りにさしかかろうとする時、彼はこちらをちらっと窺って言い放った。

「ちょっと、飛ばすから!」

 こくん、と反射的に頷いた瞬間、


「せーのっ、ゼロ!」

 K君がシフトを変え、アクセルをめいっぱい踏みこんで叫んだ。

 いったいどうしたんだろう、突出した彼の一面に戸惑った。

 唸るエンジン音と振動に身を任せながら、K君が見据えている先を見る。

 まだ紅葉になりきれない木立を両脇に、一本の道のラインが伸びている。それはぐんぐん迫ってきて、いつしか私たちの方から向かっていくような感覚になる。やがて視界に空の領域が広がってくると、開け放したような草原に着いた。

 エンジンが止むと、ぼうっとした頭に、遠くの鳥の声が過ってきた。


 パーカーのポケットから缶コーヒーを出して私にすすめると、K君はシートに身を沈めて目を閉じた。私はまず、固められたようなアポロの髪を、引っ張りながら戻していく。

「懐かしいね、ここ。遠足思い出す」

「……うん。集合写真がさ、斜めってた」

「考えてみたら丘だもんね。それともカメラマンがけそうになったとか」

「隣の担任だったからね、わざとそうしたかも」

「シカナイ先生だっけ。懐かしー。同窓会来たら聞いてみてよ」

「無理無理、憶えてないって」

 あの日は、お気に入りのTシャツを着ていったのに、太って写っていた自分にがっかりした記憶がある。片思いしていた男子にどう思われているのか、などと世界はまだまだ小さかったけれど、懸命だったことは確かだ。斜めになっていたことも後から気づくようなフラットな心。

 そういえば、K君もクラスの美人女子に熱烈に思いを寄せていた。永遠に彼女を見守るのだ、なんて、振られた後も彼の視線はひたむきだった。

 そして横並び四人組は、学年が変わると解消され、やがて卒業に至った。


 エンジンを掛けると、ゆっくりと来た道を下りてゆく。

 さっきまでの平たい思いに少しずつ現実がかぶさってゆく。感傷に浸ってしまいそうで、飲みほしたはずの缶コーヒーに口をつける。

「ゼロ。付き合ってくれて、どうも」

 ううん、小さく首を振ったきり、私は上手く言葉を返せないでいると、週末にひとり、夕暮れの山道をコペンで飛ばすのが、いまの自分にとって一番必要な時間なのだ、と照れくさそうに鼻先をこすった。



 


「まだコペンに乗ってる?」

「とっくに売っちゃったよ~、奥さんの堪忍袋が切れちゃって。その代わり、軽トラ買ったよ。通勤はもっぱらそれ。ワゴンは奥さんが仕切ってるし」

「役所通勤に軽トラ、ねえ」

「他にもいるよ、この辺りは普通だって」

「へえ。便利そうだね」

「軽トラはさ、我が家では必需品でもあるからね」

「電話番号の登録、直しとくね」

「うん。で、そっちは元気なの? まだ独りぃいひひっ?」

「おう。堂々たる独りだぞ」

「なんか風が吹いてる」

「おう。もっともっと仰いでやるぞ。からきし冷風だかんな」


 仕事のことや家庭のことなど、ひととおりの近況報告が終わる頃、彼がぽつりと言った。

「高校の頃に、戻りたい」

「……そう、だね。私も社会に出る前に戻ってみたい、かなあ」

「楽しかった。一番キラキラしてた。今だからそう思うのかな」

「うん。でも、基本は変わんないよ。同窓会だって、一瞬見た目変わったと思っても、話してるうちに昔の顔に戻ってたし」

「うん、そうだな」

「K君が持ってるものは減ったりしない。昔より、ちょっと抱えるものが増えてるだけだよ、たぶん」

「君だって変わってないよ。みんな、そうなんだよなあ、きっと。あー、また集まりたいなあ。今度は十七回生だけでさ」

 電話を切った後も、彼の『戻りたい』がしばらく頭から離れなかった。


 彼の『ゼロになる瞬間』は、軽トラでは満たされないかもしれない。けれど、コペンに乗らなくても、彼は彼。きっと、また新しいスイッチを見つけるだろう。

 あのときの、ゼロから疾走する感覚を私は忘れない。

 それは、K君だから作り出せた瞬間なのだから。



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