第2話「6%の恵み」
ひたすら歩いていた。
もっと遠くへ、今より遠くへ。
突然職場を抜け出した私は、海へ向かっていた。まるで呼ばれるように、躊躇うことなく身体は進む。誰にも告げず、何も持たず、平日の午後の陽気漂う、のんびりとした街並みを滑車のように過ぎてゆく。信号で足止めを食らって、背中に冷たいものがひりっと走る。一瞬でも留まっていたくなかった。職場からほぼ500メートルの岸壁まで、身を庇うようにして、靴の先を見つめながら歩き続けた。
緩い上りの果てに道は終わり、敷き詰められたコンクリートが広がる埠頭に着いた。凪の海、水平線と薄い水色の空、点のように見える船。遠目に半島のシルエットが霞んでいる。一気に視界が解放されて、まだ身体は慣れない。
湾の向かい側には古い倉庫が立ち並び、その屋根の向こうにはセメント工場の巨大なポンプが見える。自分の背後には、道路を隔てて、海運会社と堅牢な冷蔵倉庫が聳えている。
景観として美しい場所ではない。殺伐とした工業地域のはしくれに過ぎない。けれど、何となく来てしまう場所である。
防護ネットで囲われた一角に、置き去りにされた丸太があった。腰をおろして深呼吸をする。釣りびとが数人、犬の散歩をするひと、自転車で過るひと、ふらっと立ち寄ったふうの乗用車、餌を期待して下りたったカモメたち。
晴天の下、日向ぼっこは久しぶりだった。日光に当たらないと骨粗しょう症になると聞いたことがある。去年の検診で、自分の骨密度は同年齢の94%だったから、これで少しは挽回できるかもしれない。
やがてタンカーが入港してきた。係船柱(ボラード)に、輪をつくった太いロープがはまり、波から大きな水しぶきをあげながらピンと張られた。船から叫ぶひと、岸壁から応えるひと。どこに控えていたのか、タンクローリー車が向かってきて一気に騒々しくなる。
『霧島丸 北九州』。その船からは巨大なチューブが二本放り出され、タンクローリー車から伸びた管と連結される。ここは本州の北の湾。石油を届けるために、どのくらいの時間をかけてやってきたのだろう。
やがて、次々と給油を受けるための車が集まってくる。男たちの談笑が聞こえる。場所を変えた釣りびとのかわりに、幼い子供が船に向かって駆け出してくる。すぐに母親が追いついて抱きかかえる。幼子は声をあげながら、手をしきりに伸ばして船をつかもうとしている。なだめながら戻る母親と目が合って、お互い苦笑して軽く会釈をする。そうして、目の前で繰り返される給油の光景を眺めていた。
風が湿っぽくなった。どのくらい時間が経ったのだろう。もしもこのだだっ広い港内に誰もいなかったら、自分はこんなに長く座っていられなかったかもしれない。いつの間にか、風景よりも人々の姿を追っていた。
ここにいるひとたちにも生活がある。働くひとも、和むひとも、自分のようにただ辿り着いてしまったものも、みな生きている。抱えている。
突然、涙が止まらなくなった。指で、掌で、顔を拭う。ここしばらく感情が動かなかった。泣いている自分が懐かしく思えて、胸が熱くなる。
鉄の塊を海に浮かべようとした考えに比べると、自分の悩みなんて小さなものかもしれない。この景色を前にしたら、立ち位置や言い分なんて、石ころみたいなもの。ちょっと目線を変えたら、ちょっと動いてみたら、もっと風通しが良くなるかもしれないのに、渦中にいると、いつの間にか燻ってしまう。
丸太の背後には、鉄製の平均台のような資材が並べられている。『立入禁止』と書かれたプレートの、ヘルメットを被った現場監督のイラストが、職場の上司に見えてきた。また涙が滲みそうになる。あの喧騒のなかに自分を送り込むことが、やっぱり辛い。けれど、心に受ける傷も克服も、独りでは成し得ない。わかっている。そろそろ戻らなくてはならない。
ひとりになりたかったけれど、誰の目にも触れないところへ行きたかったけれど、今はひとを感じるところに来れてよかった。やっぱり、海が呼んでくれたのかもしれない。
満タンになったタンクローリー車が、勢いよく走り去っていく。目的の場所へ向かって、重たいだろうに、その後ろ姿はどこか弾んでいるようで、何となく、ひとを思わせた。
自分も立ち上がり、歩きだした。
腕を振って、大またで歩く。空気を起こして、胸を張って太陽の光を受ける。ささくれだった心もきっと、6%補充できた、ような気がした。
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