【ひとかけの☆ Scene】
小箱エイト
第1話「たこ焼きボイス」
「たこ焼き」と聞けば、胸に響く声がある。
特に冬の混み合ったバスの中で、親子連れを見かけると切ない気持ちになる。
数年前のこと。当時勤めていた会社で、同じ方面へバスで帰る同僚がいた。私たちは少し遠回りをして駅前のバス停まで歩き、始発から座って帰るのを常にしていた。けれど、その日は乗客が多くて叶わなかった。並んで吊り皮に掴まりながら、曇った窓を見るとはなしに眺め、会社での出来事などを、ぽつりぽつりと話していた。
「お母さん! たこ焼きたべたい!」
元気な子供の声が弾けた。
『また、あの子だよ』
同僚が顔を向けた先には、前から二番目、一人用の座席にいる女の子の後ろ姿が見えた。ツーテールの髪に赤いリボン、白いファーの襟がついた淡いピンクのコート、斜め掛け鞄の黄色いベルト。そしてハスキーな声。
たびたび見かけるその女の子は、最前列の二人掛けにいる母親と弟に向かって、顔を近づけている。けれど母親はぴたりとも動かず、女の子を無視している。そして母親の隣に座っている弟の方は、呑気に鼻歌を歌っている。
車内にはほんのりと芳ばしい匂いが漂っている。つられてこちらも顔が緩みそうになるが、母親の様子に緊張を感じていた。
その女の子の事は、以前から奇行を目にしていたので憶えている。
ある夕方の混みあった車内で、女の子は脇に立つ男子高校生に話しかけた。
「わたし、五年生なの」
高校生はじっと女の子を見て言った。
「ふうん。でもそれ、幼稚園の鞄でしょ?」
その高校生の問いかけから延々とおしゃべりが続いた。
女の子は口が達者で、平気に
「お母さんはどこ?」などと聞いてみても、かまわず続ける。
子供とはいえ遠慮を知らない話し声に、こちらもしだいに怒りが募ってくる。何より、母親がその子をほったらかしにして、弟をだっこしたまま座り続けていることが理解し難かった。
別の日でも、バス停のベンチに座っている老人の膝の上にいきなり座ったり、時刻表を眺める主婦の袖を引っ張って、その場で踊って見せたりと、誰かを見つけては自己アピールをしていた。
「お母さん! たこ焼きたべたい!」
またはじまった。
「たこ焼きたべたい、たこ焼きたべたい、たこ焼きたべたい、たこ焼きたべたい」
「たこ焼きたべたいなあ。たっこ焼っきた~べたい。たっこ焼きぃ~、たべた~い。タ・コ・ヤ・キ、たべたぁ~い、なっ」
ほんのりとソースの匂いが漏れる。
「うるさいわよね。あたしが母親だったら、ひとつ口に放り込んでやるわ」
同僚が顔をしかめて小声で言う。
母親は時々隣の弟をちらっと見る程度で、女の子には動じなかった。やがて、女の子はたこ焼きを連呼することも、シートを蹴ることも止めた。
緩いブレーキ、加速して唸るエンジン、アナウンス、誰かが押した【次降ります】のベル、後方シートから洩れる学生のおしゃべり。
バスはいつもの、よくある音を乗せたまま走る。私たちも、「今日は水曜日だから卵が安いよ」などと、たわいのない話をはじめる。
バスが信号待ちで止まった時だった。
「お母さん。わたしのこと、すき?」
バスの中が静まり返った。
ハスキーというより
「もちろん! すきだよぉ~ん」
弟のハイトーンの声が、伸びやかに響いた。
私と同僚は顔を見合わせ、肩で大きく息をした。しばらくその余韻に揺れながら、女の子の様子を窺ったけれど、背もたれからちょこんと頭の先が見えるだけだった。母親は相変わらず振り向きもしていない。そしてバスは走り出す。
やがてバスが停まると、女の子は立ちあがり、運転手にバイバイをして先に出た。母親は眠っている様子の弟を抱きかかえて降りはじめる。タラップを一段ずつ、ブーツの底が重そうに響く。肩にかけていた荷物は、ぱんぱんに膨らんでいた。三人が降りた後、車内が少しだけ寒く感じた。
次のバス亭で同僚が降り、私は空いた席に腰をかけると曇った窓を指でぬぐい、彼女に手を振った。車内は次第にがらんとなっていき、私が降りる時には、あの親子三人が座っていた場所は空席になっていた。 もう、ソースの匂いはしなかった。
痛烈に響いた女の子の声、そして母親の代わりに返事をした弟。
心のかけ合いには、いろんなカタチがあるのだろう。
まあるいたこ焼きを頭に浮かべて、私はバスを降りた。
それっきり、あの親子の姿は見ていない。
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