第19話 俺が状況を好転させたいと思うわけ

 染石がぼそりと尋ねて来る。まぁ恐らく、これが俺を呼びだした理由だよな。


「染石の耳にも入ってるはずだろ。俺の噂」

「知らないわよそんなの。どうせ根も葉もない事だし、いちいち覚えて無いわね」


 どうやら染石は噂そのものを無い物として捉えているようだ。だから自分には何も関係が無いと、そう言いたいのだろう。だが、人一人が無かったものにしたところで周りは決してそうはさせてくれない。厄介者を抱えていればいずれ厄介者を抱えている者にまでその影響は及び始める。


「だったら教えてやるよ」


 だからこそまずは染石が無関係でいられる理由を潰す。


「噂によればどうやら俺は柊木葵のストーカーらしい。ある朝教室の黒板にはでっかい赤文字で告発されたんだってな。柊木自身もストーカー被害を訴えその対象が俺であるかもしれないと思っている」

「だからそんな知らないって言ってるじゃない」

「でも今知った」

「それは、そうだけど……」


 染石の視線が地面へと落ちる。


「そんな奴が部活に行けばどうなると思う? その部活の評判は地の底だ。先輩は去年卒業、今のところ新入部員も絶望的。ただでさえ地盤の弱い文芸部が問題を抱えるべきじゃない。下手打てば最悪廃部なんて事もありうる」


 あくまで懸念の対象は文芸部だ。部員にしてしまえば部員がそれで良いと言ってしまえばそれで良くなってしまう。染石のような優しい人間が部員なら尚更だ。


「で、でもそんなの根拠の無いただの噂じゃない! 信用する方が、馬鹿なのよ」


 最初こそ勢いよく放たれる声だったが、それは徐々に尻すぼみになっていく。


「ああ確かに根拠は無いな。だが噂が嘘という根拠も無いだろ」

「それは……」

「それに事実じゃないにせよ、残念ながら学校にはその馬鹿が多い。当然だ。高校生なんて成人式すら迎えてない子供だからな。ついでに言うと教師陣にも馬鹿がいたっておかしくはない」


 別段うちの教師には今のところ温水便座の恩恵を享受している事くらいしか不満点は無いが、可能性の一つとしては十分提示できるだろう。小説を書く者は様々な物語に触れているため、不祥事に敏感な教師が保身のために生徒を問答無用で犠牲にしようとする、なんて話も容易に想像できるはずだ。


「まぁそんなわけで俺は部活に行ってないんだ。俺は文芸部が廃部になってほしくは無い。あんな埃っぽい場所でももう一年付き合ってきているからな。愛着も沸くってもんさ」


 言い終えると、辺りが水を打ったように静かになる。

 いつの間にか太陽は雲の影に隠れたのか、踊り場に日光は無く、ただただ灰色で寒々しい空間と化していた。おかげで宙を舞う埃を目視しなくて済む。


 まぁ、随分と遠回りをした気もするが、俺の言わんとしている事はさしもの染石とて理解できただろう。要するに俺は今後しばらく部活へ行くつもりはない。それだけ分かればいい。


「だから悪いがしばらく俺は休む。じゃあそういう事で」


 なんとなく居づらかったのでさっさと背を向け退散しようとすると、制服の裾を掴まれた。

 振り切るわけにもいかず立ち止まる。


「まだ何か話があるのか?」


 染石の方へ顔を向け、尋ねる。


「あたしが……」


 しかし俺の問いなど聞こえてないのか、視線を落とす染石は誰に向けたものでもないような言葉を漏らす。

 再び辺りが静寂に包まれた。唯一伝わってくるのは裾を掴まれている感覚のみ。

 手がなかなか離れないので場から動けないでいると、やがて染石が顔を上げた。


「それだと、あたしが嫌なの……!」


 こちらをしっかり見つめてくる目の端は濡れ、その頬は随分と熱っぽく、必死で何かを堪えているようなそんないじらしさも感じられた。


「お前、何言って」


 尋ねると、染石が堰を切ったように言葉を紡ぐ。


「雀野が文芸部が好きなのは分かったわよ。でも別にあたしは文芸部なんてどうでもいいの! だって小説なんてどこでも読めるし書けるもの。実際、中学の頃は入らないで一人で書いてた。だって恥ずかしいじゃない、自分の文章が読まれるなんて……。それでも、」


 湿ったような声からは染石の羞恥がにじみ出ているような気がした。


「それでも……文芸部に入ったのは、雀野が一年前あたしの文章を褒めてくれたからで……」


 染石が消え入りそうな声で言う。

 言われてみればそんな事もあった気がする。

 高校一年生の頃、初めて染石の文章を読んだとき俺は感じた事をありのまま伝えたのだ。普段人を褒めるなんて真似はあまりしない俺が、というか友達がいないのできないだけだが、あの文章だけは何かを言わずにはいられなかった。それほどまでの力が染石の文には備わっていたのだ。


 だからこそ、俺はそれに一歩でも近づきたくて、あわよくば自分の物にしたいなどとも考えながら、部室の扉を叩き続けた。あくまで将来的な印税生活のためにな。


「嬉しかったの。初めて自分の小説を読んでもらって、それを褒めてもらって。しかもその相手があんただったから尚更よ。だって、あたしは雀野が……」


 ふと、染石が言葉を区切る。単に喉が詰まっただけなのか、はたまたその先を言う事を躊躇しているのか。


 分からないが、どこかでその先の言葉を待ち望んでいる自分がいるのを確かに感じてしまった。なんというか、我ながら実に情けないとは思う。


 自らの体たらく嫌気がさしていると、やがて意を決したように染石の顔がこちらへと向く。


「あたしは、雀野の文章が大好きだったから!」


 染石は目をぎゅっと瞑ると、力強くそう告げた。

 その言葉についどこかで力んでいた力が抜けていくのを感じる。


「と、とにかく、雀野いない文芸部なんてありえないの! 却下よ却下! あんたが来ない部室なんて通っても意味が無いの!」


 涙を浮かべ、顔を真っ赤にするその姿は駄々をこねる子供のようにも見える。

 なんというか。あれだな。

 相も変わらずこいつは曲者だ。


 俺の文章なら部室に通わなくたって読めるだろうとか色々と言いたい事はあるが、恐らく染石が言いたかったのはそういう事じゃ無いのだろう。

 要はこれさえ分かればいいのだ。


 お前の事情なんて知ったこっちゃ無いからとにかく部室に来い。


 染石はそれをその優しさゆえに言葉に様々な趣向を凝らして伝えようとしたに過ぎない。実に物書きらしいやりかたと言える。

 その果てに選ばれた言葉が俺の文章が好きというものだったようだが、まぁ物書きにとってこれ以上もないやる気スイッチだな。

 とは言え、最後の最後はもう暴論甚だしい気がするが、それはそれで染石らしいから良しとしよう。


「そうだな」


 肯定の意を口に出すと、染石の顔が僅かに綻ぶ。


「部室にはまた来ようと思う。だがそれは今すぐにじゃない」

「え……」


 不安そうにする染石だが、こっちもこっちの事情がある。お前が感情論を押し付けてきたように俺だって感情論の一つくらい押し付けさせてほしい。


「お前は文芸部の事などどうでもいいようだが、俺はどうでもよくない。今のまま俺が行けばやはり文芸部に悪い評判が付きそうでとても行く気にはなれないな」

「……そ、そう」


 染石が悲し気に目を伏せる。

 少し胸の辺りがチクリとするが、やはり不安なものは不安なのだ。


「だから、部室に行くのは全部ケリをつけてからにしようと思う。全部片付いたら必ず俺はまた部室に行く。だからその時まで待っててくれないか?」


 言うと、しばらく押し黙る染石だったがやがて不貞腐れたように口を開く。


「いつまでよ」

「まぁ、それについては何とも言えないが、俺の見立てによればたぶんそんな遠い話じゃないと思う」


 こればかりは巡り合わせもあるからな。一概にこの時までとは断言できない。

 俺にできそうな事は何か、そんな事を考えつつ返答を待っていると、やがて染石が顔上げる。


「そ」


 染石素っ気なく返すと、くるりと身を翻す。

 連動して二つに結われた黒髪が宙を舞った。


「……だったら、できるだけ早くしてよね」


 少し不満げに背を見せる染石だったが、僅かにこちらへと振り返る。


「新作もうすぐできるんだから」


 僅かに向けられた口元には、笑みが浮かべられているようだった。

 何気ない一言のようだが、俺にとっては非常に重大な一言だ。何せ俺は染石の書く小説を心から求めている。何故ならあれこそが俺を将来的に文豪たらしめる要素になるに決まってるからな! いわば印税生活へ向けての大事なピースだ、パズルは一つでも欠ければ完成しないのだよ!


 俺がたらればにろくでもない事を考えているうちにも、染石は階段を降りていく。とりあえず俺のわがままには付き合ってくれるという事だろう。


 とは言え、俺の返答は決して染石の満足のいくものではなかったはずだ。正直なところ、俺の中で部活と染石を天秤かけた場合、勝つのは染石の方だ。できる事ならあのまま染石の意図を汲んで頷きたくはあった。


 だが悲しいかな。俺みたいな陰の者は、理由が無ければ誰かと一緒に居る事もままならないくらいの小心者なんだ。部活と言う理由が無ければ本末転倒になってしまう。

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