美しき残酷

妻高 あきひと

美しき残酷 

 江戸は年明けから雪の中。 

年末から雪続きで武家も商家もどこもみな新年恒例のあいさつ回りは日延べだ。

昨年末から降り始めた雪は断続的に激しく降り、今朝も朝から牡丹雪が舞っている。


 お城からほど近くに掘割りに沿って商家が建ち並ぶ通りがある。

普段なら人通りが多いのだが、積もった雪が根雪となって凍り、危なくて歩く人の姿もない。


その通りの中ほどに何でも買い、何でも売っている古道具屋がある。

武具や書画骨董から着物、果ては使い古しの褌でも洗って店先に出している。

頭を傾げ、悩むような物でも並べていればいつかは誰かが買うらしいから世間とは広いものだ。


どうでも売れなきゃ自分で使うか、さもなくば骨董市で競りに出せばこれも誰かがひと山いくらで買う。

物が貴重で大事な時代、壊れたら直し、錆びたら研いで新しくする。

捨てるものは無く、ゴミはゴミであってもゴミではないのだ。


 古道具屋の主の名は仁兵衛という。

大雪続きでここも開店休業の有様だ。

表は戸板一枚ほど開けて暖簾を下げているが、寒い風が入ってくるだけだ。

昨日も入ってきたのは小雪だけだった。


仁兵衛は今日も早くから居間の堀りごたつに入って三毛猫を抱いている。

猫が暖かい。

遠くから風に乗って獅子舞の囃子が聞こえてくる。

「どこから来たのか、獅子舞もこの雪続きでは商売にはなるまい。明日は晴れるのか、まだ降るのか、さすがの公方様もお天道様のだけはどうしょうもあるまいて」


仁兵衛は立ち上がり障子を開けて外の様子を見た。

縁側の向こうは庭になっており、そのすぐ向こうは細い道をはさんで掘割りになっている。

元は小さな川だったが、その後開削して両岸とも石を積んで掘割りになり、庭の近くには小さな舟着き場に下りる石段がある。


掘割りは深さもあり舟の行き交いが多い。

舟着き場もいつもは夜明け前から混み合うが、さすがにこの雪では誰もいない。

雪はまさに、しんしんと降り続いている。

なのに仁兵衛が空を見ると奇妙に明るい。

「不思議な明るさじゃ、なんぞあるんかのォ」


障子を閉めると風とともに牡丹雪がいくつかホワッとついて入ってきた。

「この調子では夕方までには膝上の辺りまで積もりそうじゃな、今日はこたつ三昧か、まあこういう正月もたまにはええか」

横の火鉢ではヤカンが音を立て、炭が真っ赤になって頑張っている。


江戸は寒いところだ。

特に年始の今は寒さの盛りだ。

掘りごたつだけでは足らず、火鉢も置かなきゃ命にかかわる。

いや冗談ではなく、ホンマにそれほど寒い。

雨戸を閉めれば多少は暖かくはなるが、暗く陰気になって時刻の感覚が狂うのが気に食わないと仁兵衛は思っている。


「おい酒はまだか」

仁兵衛は台所にいる女房のお登勢に声をかけた。

「ちょっと待っておくれよ、すぐもってくから」

女房のお登勢は雑煮の汁にあれこれ野菜や山菜などを刻んでは入れている。


雑煮は便利だ。

あれこれ具を入れ足せば飽きるまで食べられるし、余りものの始末も出来る。

夫婦二人で、誰も訪ねてこないとなれば、見栄も張らずに何でも食える。

正月料理の残りもあるし、酒の肴にも困らない。

気分を変えたきゃ店には皿も徳利も猪口も掛け軸も何でもそろっている。


 じきにお登勢が盆に徳利と猪口、蒲鉾と漬物を乗せて居間に入ってきた。

「はいお待たせぇ」

「お前も飲むなら猪口をもってこいよ」

「あたしゃ今忙しいからあとにするわ」

「そうかい、じゃ一人で飲んでら」


お登勢はさっさと台所へ戻った。

かまどの火には薪を絶やさず、板の間の囲炉裏では炭が赤く燃え、上がり框には小さいが火鉢も置いてある。

水が冷たいのが難儀だが、台所といえども隙間はふさいであり、暖房は万全で意外と暖かい。


囲炉裏の五徳も鉤も火箸も火鉢もみな商売用のものを流用している。

飽きたらまた店に戻して別のものと取り換える。

適当に使用感も出てくるので、それを楽しむ客も多い。

日常の物がしばしば銭に変わる、古道具屋のいいところだ。


 仁兵衛は手酌でちびちびと飲みながらつぶやいている。

「一人酒か、新吉ももういねえし切ないなぁ。去年まではこんな日には新吉と二人で酒を飲んでたもんだが、今年からはオレ一人だ。あいつが亡くなってもう十月、年も越してしまった。


時が経つのは早いもんだ。新吉よ、浄土で仏さんに囲まれてるか、天女はべっぴんさんか、花も咲いて琵琶や笛の音が聞こえて来るのか。美しき浄土か、ええなあ。

でも浄土て本当にあるんかい、あるわきゃねえだろうアホらしい。うちの坊さんもやたら浄土、浄土と説教では言うが、そのくせ本人は行きたがらねえからな。行こうにも無いってこと知ってやがって。もっとも檀家の連中もみな承知だけどな」


 新吉は舟に人や荷を積んで掘割りを行き来していた船頭で、仁兵衛とは十五年を越える付き合いだった。

だが、その掘割りが新吉の最後の場になった。


去年の春先のこと、舟に乗ろうとしていた客の侍と口論になった。

相手は若いが落ち着いた侍で新吉が酒を飲んでいるのを知っており、怒ることもなく新吉の言うことを静かに聞いていたという。

新吉は舟を漕ぎ出しながら侍に何か言おうとしたはずみに足を踏み外して川に落ちた。


船頭だから泳ぎは得意だったが、春先の雪どけ水混じりで凍るように冷たく、おまけに酒が入っていたので溺れそうになった。

侍はもがく新吉を助けようとして舟べりによったものの、乗り合わせていた客三人も手助けしょうとして片側に寄ったのがまずかった。

舟が傾いてそのままひっくり返ったのだ。


大騒ぎになり、新吉はすぐに姿が見えなくなった。

仁兵衛の家の庭の真ん前でのことだ。

これはいかんと町内の連中も駆けつけ探したが見つからず、夕刻になって二町ばかり下がった橋の脚に引っかかっているのが見つかった。

すでに息は無かった。

新吉には母親と弟がいた。

弟は丁稚奉公で家を出ていたが、一人ぼっちになった母親は気が狂ったように泣いていた。


ただケンカ相手の侍が人が出来ていたのが救いだった。

本人も水に落ちてびしゃ濡れになり大迷惑だったのに、新吉の葬儀には奉公人がやってきて並み以上の銭を香典としてお袋に渡し、わが主人の名代でござるゆえと言い、線香を上げ、母親に丁寧にお悔やみを言って帰っていった。


その後も今も侍からは何の苦情もない。

若いが大した侍よ、とあちらこちらで話しのネタになった。

奉行所は同乗していた他の客からも仔細を尋ねたが、酒を飲んでいた新吉のほうから侍にからんだことも分かり、新吉の手落ちであるとなった。


掘割りに落ちたお客からも新吉の母親には何の要求もなかった。

水に落ちたお客に番所で頭を下げ続けて謝る母親の姿を皆が見ていたせいかもしれないし、自分たちが舟をひっくり返したようなものだから何も言えなかったのかもしれない。

人生に災難はつきものだ。

騒ぎは静かに収まった。


「いい男だったがな、仕方ねえな。最後に棺桶を弟や親戚、船頭仲間といっしょにかついで墓地に運んでやったのがせめてもの供養だった。もう一度でいいから会いてえな、新吉よォ」


猫がごろんと寝返りをうって大欠伸をした。

「お前はええな、なんか心配事はないんかい、ええおいお銀よ」

お銀とは猫の名前だ。

オスの猫だが、子猫のときに仁兵衛が堀端で拾ってきた。

店でお登勢に見せたとき、帳場にあった銀の地金に小便をかけたのが名の由来だ。


 雪はあい変わらず降り続いている。

仁兵衛の店の前の通りは普通は人通りが多いのだが、さすがに今も人が歩く様子はなく、人の声も聞こえない。

雪はまだやまない。


            里帰り


 仁兵衛が酒を飲んでいるころ、庭の向こうの掘割りの水面に人の頭がふわっと浮いてきた。

黒い髪はほどけて流れに沿ってゆらゆらと揺れているが、顔は水の中に沈んだまま氷のように冷たい掘割りの中を潜って泳いでいるようにも見える。

尋常な眺めではない。


頭は浮いたり沈んだりを繰り返しながら意志があるように流れに逆らって舟着場に向かった。

しばらくそのまま舟着き場の脚に引っかかっていたが、手と顔がゆっくりと浮きあがってきた。


男は両手を足場に置いて足をかけ、「うう」とうなると一気に足場に上がってきた。

足は素足だ。

全身びしゃ濡れで水が滴り落ちている。

見れば顔も身体も真っ白、額にはびしょぬれになった三角巾が垂れて右目を覆い、左目は濁って黒目は霞んだように見える、死人の目だ。


この世の者ではない。

怨霊か。

板の上にそのまま立つと迷うことなく仁兵衛の家を見て笑った。

その口の中は歯が無く真っ赤だ。


身体を大きく震わせて背伸びをすると、鉛色の顔をくしゃしゃにしながら大きなくしゃみをした。

「は、は、ハ、ハク、グワックション!」

ただの水なのか、鼻水なのか、分からないものが鼻の辺りから流れている。


くしゃみは居間にいる仁兵衛にも聞こえた。

「この雪の中を舟が通っているのか」

仁兵衛は起き上がって障子を開けて縁側に出た。

雪はちらちら降り続いている。


庭越しに外を見るが、通り過ぎたのか掘割りに舟の姿はない。

向こう岸にも通りがあるが、誰もいない。

「それにしても大きなくしゃみじゃったの」

仁兵衛は縁側の下から下駄を出して庭に出て辺りを見回した。

誰もいない。


舟着き場は庭より人の背丈ほど低いので仁兵衛には男が見えない。

仁兵衛は

「おおォさむッ」

と言いながら部屋に戻って掘りごたつに入り直した。


 男はびしょ濡れのまま、ゆっくりと石段を上がって細道に出ると、仁兵衛の家の庭に入る木戸に向かった。

木戸には路地を通っていかねばならない。

路地の隣は米屋で境界を兼ねた低い竹垣があり、木戸に向いて米屋の勝手口がある。


男は路地の雪に素足の跡をつけながらひとり言を言っている。

「仁兵衛のやつ今頃は酒でも飲んでおるに違いない。この姿を見たら驚くじゃろうの、いや気絶するかもしれんの、せいぜい驚かしてやるとしょう」


男が路地を進んでいると、人の気配を感じたのか、米屋の勝手口が開いて主人の母親が外に出てきた。

もう九十を越えており、偏屈で近所でも迷惑がられている婆だ。

「アンタ、この雪の中を古道具屋に用事か・・・表から入ればよかろうに。何じゃそりゃ死に装束ではないか。おまけに濡れておるではないか。お前、気でもふれておるのか、どこから来た、家はどこじゃ、怪しい奴め」


婆が小走りで男に近づいてきた。

竹垣越しに二人が相対し、目を合わせた。

婆の顔がくしゃくしゃになり、曲がった腰が直立した。

そして震え始めた。


婆は何か言おうとしているが、何も言えない。

男は笑いながら真っ赤な口を一杯に開けた。

「お、お、おまえは、し、し、しん~~ ば、化け・・」と言うや、ウッ~とうなりながら背を向け勝手口に走り込んだと同時にドサッと音がした。

勝手口の奥の土間に横になった婆の足が見える。


「ケッくそ婆め、気絶して倒れたようじゃ。生きてるときからイヤな婆だったが、土間で倒れたならケガもしちゃおるまい、ざまあみろだ。ほっておこう、下手に人目につくと騒動になるで」

男は何事もなかったように木戸を開けて仁兵衛の家の庭に入った。


「久しいの仁兵衛よ、あの世から参ったぞ。このまま縁側から声をかけてやろう」

台所のほうから異様に猫が鳴いているのが聞こえてくる。

「さすがにお銀は勘づいたか、オレにもなついておったが、喜ぶかの、いやまずは驚くじゃろうな」


庭を横切り居間の縁側に近づいていく。

お登勢の声が聞こえてきた。

「アンタ、お銀の様子がおかしいけど、誰かいるんじゃないの」

仁兵衛が答える。

「さっきも見たけどよ、誰もいねえけどな、念のため見てみるわ」


「おお、仁兵衛のやつ出てくるな。縁側の真ん中に立っていてやろう」

仁兵衛が縁側に近づいてくる気配がする。

ザっと障子が開いて仁兵衛が出てきた。

目の前に死に装束で青白い顔をした男が立ち、赤い口を開けて笑いながら立っている。


仁兵衛も一瞬固まった。

じっと無言で男を見下ろしている。

一つ二つ三つ、沈黙が続いた。

仁兵衛は男から顔を離さず、そのまま座りこんで言った。

「新吉か、久しぶりじゃ・・・   」

と言うや目を回しながら、そのまま縁側に仰向けに転んで気を失った。


「やれやれ仁兵衛も気絶しよったか、しょうがねえな」

男はいや新吉はびしょ濡れのまま縁側から居間に上がり、仁兵衛の両腕をつかんで部屋の中に引きずりこんだ。

「おお、堀ごたつか、懐かしいの、酒も蒲鉾もあるじゃねえか」


新吉はびしゃ濡れのまま掘りごたつに入った。

だが酒には手を出さない。

すると居間の異変を感じたのか、台所からお登勢の声がした。

「アンタ、誰かいたかい」

仁兵衛は横へ転がっている。


「ちょっと、何とか言ってよ」

お登勢が台所からあわててやって来て襖をばっと開けた。

目の前に仁兵衛が転がり、掘りごたつにはびしゃ濡れの死に装束を着て濁った目でお登勢を見ている新吉がいる。


「元気にしてたかい、お登勢さん」

新吉は笑いながら口を開けた。

お登勢は「ううう」と声を上げると棒立ちになり「あ、あんた・・」とつぶやくと、これも目が回り始めた。

新吉はすぐに立ってお登勢の後ろに回って背中を支えると同時にお登勢は気絶して後ろに倒れた。


「お登勢さん太ってるしな、ここで倒れちゃ後ろは板だからな、あぶないところだった」

新吉はそのままお登勢も引きずって仁兵衛の横に並べ、掘りごたつにかけてある布団を取って二人にかけた。


お銀は毛を逆立てたが、すぐに新吉と分かったようだ。

尻尾を振りながら足元に寄って、しきりに臭いを嗅ぎ、新吉の顔をあおぎ見ている。

「わしと分かったか、死人の臭いがするか、ほれ蒲鉾食わんか、ああよしよし」


 隣の米屋が騒がしくなり、大声で叫ぶ家人の声が聞こえてくる。

「医者じゃ、医者を呼べ、いやこのまま戸板に乗せて連れていこう」

「お迎えが来たのか」

「いや、息はあります」


「婆が倒れておったもんで死んだと思ったのか、わしのことは婆が話したところで誰も本気にはしまい。酒も飲みてえが、そういうわけにもいかぬしの」

仁兵衛の家の居間に生者と死者と猫が奇妙な時間を共有している。


               生者と死者


 仁兵衛もお登勢も顔色が青い。

仁兵衛は新吉の顔をひたすら眺めている。

お登勢は濡れた畳や縁側を雑巾で拭きながら横目で新吉を見ている。

二人が落ちつくまでに一刻ばかりかかった。

そりゃそうだ、相手はすでにこの世の者ではないのだから。


仁兵衛が言った。

「あの世から、こっちへ帰ってくれるのか、信じられん。しかしそのお前が現にここにいる。戻れるのじゃろうな、いや驚いた。気絶もするわい」

お登勢も言う。

「浄土にいたんでしょうが、あんなにいいところはなかろうに。苦労もなく平和で静かで花に埋もれて笛の音が聞こえ仏様も天女もいるんでしょ。私なら絶対に戻らないけどね」

新吉は黙っている。


「で、お前なんでこっちに戻ったのか」

仁兵衛が問うとお登勢もうなづいた。

二人が一番に知りたいのはそこだ。

すると新吉は泣き出した。


二人は顔を見合わせたが、死人が泣いても、どうしていいのか分からない。

「仏が泣いてどうする。とにかくなんで戻ってきたのか、戻れたのか、それを教えてくれんか。オレとお前の仲だ、何でもするから教えてくれ。お袋に会いたいんか」


新吉は首を振って言った。

「わしのお袋じゃ、一番気になっておったでここに来る前にそれとなく訪ねて様子を見てきた。あの侍からもろうた銭と舟を売った銭で、贅沢をしなければお袋は寿命までは生きていけるじゃろう」


「ああ、それは知っておる、時々じゃがわしも訪ねておるからの」

「すまんの、死んでからも世話になっての」

「そんなことはどうでもええ」

「じゃがお袋はオレがいるのも気づかず、仏壇でこうひとり言を言っておった」

「なんて言うておった」


「新吉のやつめ、大した銭も稼げず酒ばかりくろうて、ほんまに役立たずじゃった。死んだときにお侍からもろうた銭の有難かったこと、ホンマに死んでくれてよかったわ。こうして線香を上げてやるだけでも母に感謝せい。このバカ息子」

「と言うての、言うての、言いながらわしの位牌のてっぺんを経文を丸めて何度もしばきよった」


新吉はまた泣き出した。

「あんたらに、わしの気持ちは分かるまい」

仁兵衛は背を伸ばしながら言った。

「息子がかわいくない母がおると思うか、位牌をしばいたのは憎うてしばいたのではないぞ。なぜ親より先に逝った、なぜわしを残して逝った、酒なんか飲むからじゃ、というお袋さんの無念の思いよ。お前はお袋さんの希望じゃった。お袋さんがどれほど悲しんでいたかわしもお登勢もよう知っておる。

お前はお前なりにお袋さんにはつくしてきたし、それはお袋さんもちゃんと分かっている。位牌をたたいたのはお前の酒好きを止められなかった自分への口惜しさでもある。お袋さんをどうこう言っちゃいけねえよ、それは分かってんだろ、お前も」

新吉は何も言わずにうなづいた。


「お袋さんには姿は見せなかったのか」

「うん、それはしないというお釈迦様との約束でな、破るとその罰はお袋に向かうでの。死んでも約束は破れんのじゃ」

「アンタもう死んでんじゃないの」

お登勢が言うと

「そうじゃったな、わしゃ死人じゃった」

と新吉は小さくつぶやいた。


「向こうでは、お釈迦様にも会えるのか」

「ああ、どちらかと言うと善人より悪人のほうが会えやすいらしい」

「ううん、なんとなく分かるな、それ」

「お前さん、どういうことよ」

仁兵衛は笑っている。


 仁兵衛が改めて尋ねた。

「で話しは戻るが、お前なんで戻ったんか」


新吉は額の三角巾を外して火鉢の縁に置き、生乾きの死に装束の襟をなおすと話し始めた。


            美しき残酷


 新吉は話し始めた。

「わしゃ確かに浄土に逝った、いや逝かせてもろうた。それは仏様にもお袋にも仁兵衛にもお吉さんにもみんなにも感謝しておる。じゃがの、じゃがの」

「じゃが何じゃ」

「わしも浄土に逝った最初は涙が止まらんほど嬉しかった。美しい、本当に美しいところよ、あそこはの」

   

「しかしの仁兵衛よ、お登勢さんもじゃが、考えてみてくれ。あまりに美しいものばかりが満ちた世を」

二人は首を傾げた。

「美しい世がいかんのか」

「美しくないものがあってこそ美しいものが嬉しいのよ」


「浄土に逝ったときは嬉しかった。仏様は手が届くところにおられ、辺りの空には天女が浮いて飛び交い、笛を吹いている者もいる。空は青く、どこまでも澄み、流れる雲は姿を変えながら白く輝き、遠くには須弥山のすそ野が霞んで見えた。


雪も雨も地震も津波も火事も病もケンカも戦も無い。借金も身売りも博打も廓も心中も無い。

もめ事も騙すことも騙されることも怪我も病も悪口も陰口も金の苦労も無い。

見渡す限りの野には大小様々な花が咲き乱れ、鳥がさえずる。

あそこにあるのは仏と天女と永遠の美しさ、そして善男善女じゃ」


「それがいかんのか」

「これはの、良い悪いとかの問題ではない。あのような場所におればの、いいのは最初だけじゃ、二人とも分かるか、わしの言葉の意味が」

仁兵衛はなんとなく理解できていそうだが、お登勢はそうでもないらしい。

新吉が続ける。


「わしも最初に浄土に逝って見たときは有難くて嬉しくて大泣きした。でもなそれも最初のせいぜい二三日じゃ。その後は何も起きない、何も変わらない、全く同じ景色が永遠に続くんじゃ。

四日目には飽き、十日もするとわしゃ気が狂いそうになった。

あそこにいる者はその変わらない景色を永遠に見せられるのじゃ。善男善女もみな何をするでもなく、ず~っとそこに座り、そこに立っている。苦労も悩みも無いから何もすることが無い。

欲さえ無いから男女の交わりもない。


仏はむろん、天女もいつも同じ顔で歳も取らずに百年一日のごとく同じことを繰り返しておる。あの笛も歌も声も聞き飽きた。

善男善女はそれでもそこにおる、あれはそれしか手が無いのじゃ。


確かに機織りや書き物などできるものはあるが、それはそのまま現世の行いと同じで

浄土では妨げになるだけじゃ。

浄土には何もかもあるのに、ちっとも嬉しくも楽しくもない。

何もせず何も考えず何も起きない。

泣きたいほど美しいのに、悲しいほど酷(むご)いのが浄土じゃ。

まさに美しき残酷よ、浄土はの。

浄土に逝かせてもらってそれに気づいた。


 そして最近、気づいた。

浄土に比べて地獄には何でもあるし、どのような人間もいる。

人殺しも親殺しも子供殺しも拷問も磔も斬首も強盗も強姦も騙しもある。

罵倒も中傷も心中もケンカも戦も病も疫病もある。

臭くて哀れで汚れて穢れで惨くて悲しくて涙さえ枯れそうで目を背けたくなる者もいる。

がそれこそが人の世の本当の姿じゃ、また人とはそういうものじゃろう。


悪意も裏切りも誹謗も中傷もあれば善意も誠も称賛もある。

生きていれば辛いこともあるが、それゆえに楽しいことがある。

今日は人を騙して罵られても、明日は人を救って賞賛されるかもしれん。

喜怒哀楽あるのが人の世じゃが、浄土にはそれがない」


仁兵衛が言う。

「お前、死んで学者のようになったの」

「学者か、ううんそうか、あそこに十月いて、わしゃ悟った。

わしゃ、浄土には向かん、わしの逝くところは地獄じゃ。

本当は生きてここへ帰りたいが、さすがにそれは叶わぬ。


ならばとわしゃお釈迦様に願ったのじゃ、地獄へ落としてくれと。

お釈迦様もすぐには許してくれなんだが、しばらく前にやっと許しが出た。

今日ここに来たのはそのためなんじゃ。ここでお袋と仁兵衛とお登勢さんに会うて地獄へ落ちて行くことに決めたんじゃ。


弟の様子も見に行くことにしておったが、お釈迦様のお計らいか、お袋の前から消えて外に出ると、遠くから弟が奉公先から藪入りで帰ってきよるのが見えた。ちょっと会わんうちに大人びておったがの。


見ると背中に大きな荷を背負い、風呂敷包みを抱えておった。包みはお袋への土産じゃ。

懐に手を当てながら歩いているのは一所懸命に貯めた銭じゃ。お袋に渡すつもりじゃ、あいつはわしより出来がいいでの」


仁兵衛は黙って聞いている。

お登勢は涙ぐんでいるようだ。

お登勢が尋ねた。

「浄土は美しすぎて地獄は汚いのかい、真ん中がいいわよね、どこにあるんだろうね」


「ここじゃよ。仁兵衛とお登勢さんが生きているここじゃよ」

と新吉は右手を上げ、人差し指で天井を差してぐるぐる回しながら言った。

「ふ~ん ここかァ ここねェ」

お登勢がぐるっと顔を回すと仁兵衛と目が合った。

二人は笑っている。


「で、浄土に帰って地獄へ落ちるのか」

「いや、もう浄土には戻れねえ。ここから行くことになっている」

「どうやって行くの」

「酒」

「酒?」

「うん、猪口をひと口なめれば身体に痛みが走る。痛みはオレが入れるほど地獄の扉が開いた証だ。もうひと口飲めば地獄へ真っ逆さまだ。

仁兵衛とお登勢さん、生きてるときは世話になった。お礼の言葉もねえ、お袋と弟のこともたまにでいいから気にかけてやってくれ。オレは何も恩返しができねえけど」

「ああ分かってるさ」


「二人とも長生きしてくれ」

新吉は猪口の酒をひと口なめた。

一瞬の間をおいて苦痛なのか顔をしかめ、何かを必死で我慢している。

そして仁兵衛とお登勢に軽く頭を下げ、赤い口を見せながら笑うと、震える手で猪口を持ち一気に喉に流し込んだ。


一瞬総ての時間が止まったようになると、フッと新吉の姿が消えた。

後には乾ききっていない濡れた畳のシミが残っていた。

「ああ、落ちていったんだ」

「そうだな、地獄へな。地獄か、人は悪人ほど人に近いと言うからな、地獄も捨てたもんじゃないってことか」


お登勢が仁兵衛に向いて火鉢を指差した。

火鉢の上には生乾きになった三角巾が残されていた。

「アンタどうするこれ」

「捨てるのも忍びないしな、お袋さんに渡しても絶対に信用しないだろうし、洗って店に出しておくか。褌でも売れるご時世だ。安くしておけば葬儀屋が買うかもしれねえしな」


障子から光が差し込み始めた。

二人が縁側に出ると空が明るくなり、上のほうでは青空が丸く拡がり始めている。

「いい按配に雪がやんで青空が出てきた。おい、昼飯でも食いがてら散歩するか」

「うん、すぐ支度する」


 暖簾をかたづけ、店の前には断り書きを貼り、二人は下駄を履き笠をかぶって傘を持つと戸締りをして出かけた。

二人の背中を冬の光りが暖めていた。


留守番のお銀は縁側で日頃は見もしない空を見上げている。

そして居間の三角巾はいつの間にか消えていた。


 (注)当短編には仏教に関連した文言が出てまいりますが、作者個人の勝手な見方

で書いております。お読みいただいて不愉快に感じられた方がおられれば、お詫び申し上げます。


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