第12章 昭和天皇崩御①

「ん? なんだ、寝てしまったのか? 確か……私は、森に来て小屋に入ろうと……」


 目を擦りながら立ち上がると周囲を見渡す。


 煌びやかな電飾が街を彩り、活気に溢れた大勢の人たちで街道は埋め尽くされていた。街中に耳をつんざく程の大音量で音楽が流れ、誰もが急ぎ足で行き交う。

 日本語だけでなく英語で書かれた看板が立ち並び、先ほどまで流れていた曲の歌詞も英語だと気付く。


「しかし、聴いた事もない音楽だ。それにここは?」


 男はしばらく状況が掴めず、ボーッと辺りを見渡し佇んでいると、楽しそうに談笑する若者が数名こちらに向かって来た。どうやら、持ち物や格好からするに民間人のようだ。


 しかしどうした事か、すれ違いざま故意に肩をぶつけられ、押しのけるように突き飛ばされる。

「おい、邪魔だよ。おっさん、どけっ!」


 帝國軍人たるもの体術の心得はある。咄嗟に身体を反転させ若者の襟元を掴んで締め上げた。

 少し怯んだような若者は、しかめっ面で数歩ほどジリジリと後退る。


「な、なんだよ……おっさん。汚ねぇ格好だな……格闘技でもやってんのか? それとも五人相手にやろうってのか?」


「へっ! ただの浮浪者じゃねーの? マサル止めとけ触んなっ!」


 そう言って若者たちは、逃げるように小走りに去っていった。その後ろ姿を眺め、男は異変に気付く。

「あれ? そう言えば寒いな」


 辺りの人たちは暖かそうな衣類を身につけているが、自分は軍服のシャツ一枚。上着すら身につけていない事に、今更気付くとブルっと身震いする。咄嗟に両腕で自分自身を抱き締めると、手の平で上腕を擦って寒さを凌いだ。


 どういう事か、季節は冬のようだ。


「おかしいな、夏だった筈なんだが……一体どうなってるんだ。ここは何処だ? それにしても凄い人の数、それにコレは?」


 今まで見た事が無い程に騒々しい雑踏。おびただしい数の自動車、そして空を飛ぶ大型の飛行機。

 動く階段に、動く歩道、至る所に映画のスクリーン。その画面の中では楽しそうに笑う人々が彩り鮮やかに映し出され、まるで「おとぎの国」の世界に迷い込んだ様だった。


 しばらく辺りを歩き回ったが、次々現れる見た事もない驚きの光景に愕然とする。それは次第に恐怖へと変わり、その場にへなへなと力なく座り込んでしまった。

 すると何処からか、香ばしいソースと肉を焼いたなんとも美味しそうな匂いが漂ってくる。


「ギュルルルルルル……」


「そういえば、しばらくまともな食事を採ってないな。しかし、なんだこの匂いは? 食ったことない美味そうな匂いがするな」


 匂いの元を辿ってやってくると食堂のようだった。大勢の客が美味しそうに食事をしている。

「美味そうだな……ゴクリ」

 見ているだけで自然と生唾が溢れて、またお腹がグルルと音を立てて鳴る。


 腰ベルトに通したボロボロの革製のポーチを開いて中身を確認してみたが、出てきたのは溜息だけ。


「あぁ、もう金もないし、軍票も何の役にも立たないか」


 恨めしそうに店内を覗いていると、ヒソヒソこちらを見て店内の客が話しているのに気が付く。

「なにアレ? 浮浪者じゃない?」

「やだ、こっち見てるわよ」


 店内の客人は皆、綺麗な身なりをしており、明らかに男の格好とはが違うようだ。自分が好奇の目に晒されている事に気付きなんだか恥ずかしくなる。

 居てもたってもいられなくなり、男がその場を立ち去ろうとすると、誰かが話しかけてきた。


「あら、こんなところにいたのね? ところでお腹が空いてるの?」


 振り返ると、そこにいたのは子供だった。

 まだ年端もいかない、少女と少年が並んで男をジッと見つめていた。


「なんだ、子供じゃないか」

 思わずそう漏らすと、男は少女たちの目線まで腰を屈め優しい口調で話しかける。


「あぁ、お嬢ちゃん……恥ずかしながら、何も食べて無くてね」


 そう言ってお腹を押さえて、照れ臭そうに頭を掻く。見ず知らずの子供相手に精一杯おどけて見せたが、ふたりの表情は一切変わらず男を凝視したままだった。

 得も言えぬ掴みどころのない空気に困惑したのか、男は質問を変えることにした。


「ねぇ? それより教えてくれないか? ここは一体何処なんだい?」


 その言葉に少年は驚いたように目をパチクリさせると、まるで息を合わせたように少女と顔を見合わせた。

 それからほんの少しだけ間を置くと、ゆっくりと男の方を向き口を開く。


「日本だよ」


「…………日本?」

 少年の想定外な返答に、思わず怪訝な顔で訊き返した。


 自分の知る日本とはまるで様子の違う、その日本という答えの意味をあれこれ考えてみたがどれも釈然とせず、男は不安になり改めて辺りをゆっくりと見渡した。

 やはりそこには、見たこともない景色が広がっていた。


「ここが、日本?」


「えぇ、間違いないわ。貴方が未来に遺したいと望み……そして貴方が見たいと望んだ、四十四年後……一九八九年の日本よ」


「って…………ふぁっ? な、なんだって? 何を言ってるんだ君たちは……一九八九年って……じゃあ、私は――」


「じゃあ、私は……ですって?」

 クスクスっと口を手で隠し少女が嗤う。

「おかしな人ね、忘れてしまったみたいよ? 教えてあげなさい、知樹」


「えぇ、姉さま……困ったなぁ? 君は自分の事も忘れてしまったのかい?」

 そう言って、不思議そうに男の顔を覗き込む少年。


「いや……そういう意味で言っているんじゃ……ない」

 男が言い終えないうちに、少年の右手がスっと男の目の前に差し出される。


「ねぇ? 横井哲也水雷長……さんっ」

 背筋が凍る感覚を覚え、同時に二、三歩後退りする。

(私の事を知っている……誰なんだ?)


「まぁ、いいわ。あなたお腹が空いているのでしょ? 入りましょ」

 そう言って少女と少年は食堂へと入って行く。

 今はそれについて行くしか道はないと、黙って子供たちの後を追うことにした。


 カランとドアの鐘が鳴る。


「い、いらっしゃい……ませ……」


 まだ小学生にか見えない何処かの金持ちの令嬢とご子息。その後に連れられた小汚い軍服を着た浮浪者。双方とんでもなく場違いな珍客の来店に、店内は騒然とした。


 ふたりはそんな事には全く気にする素振りもなく、奥のテーブルの椅子に腰掛けると、少女はスっと横井にメニューを差し出した。

「さぁ、何でもお食べなさい」


 相変わらず少女と少年の表情は変わらない。

 結局どこの誰かはわからないが口調から察するに、どうやら敵意がある訳では無さそうだ。

 何かふたりに思惑があったにせよ、この空腹には勝てそうにない。


 今まで見た事も食べた事もない料理を、一心不乱に食い付く。余程お腹が空いていたのだろう。

 恥ずかしながら、支払いの事など気にしている余裕は無かった。

 どうせ持ち金も底をついて無いのだから、ここは遠慮なく甘えることにした。


 聞きたい事は山ほどある。しかし今は空腹を満たす方が先決だ。横井はそう思った。

 ふたりは一切料理には手をつけず、そんな横井の姿を物珍しそうにじっと観察していた。


 少年は姿勢良く椅子に腰掛け、横井の食べるペースが少し落ち着いたタイミングで話を切り出した。


「さて、横井哲也。君は忘れてるかも知れないけど、僕たちは初めましてではないんだ」


 

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