第7章 魂の咆哮

 山口県徳山湾に浮かぶ大津島。

 その最南端に回天の組立工場と訓練所があった。


 回天の生みの親である西森の指揮の下、全国より志願した海兵学校出身者である一〇〇名超の若者が繰り返し集められ、厳しい訓練が昼夜問わず行われていた。


「これが、回天――」


 初めて訓練に参加した者は、ゴクリと唾を呑み込み言葉を失う。


 一度ハッチを閉めれば真っ暗闇の密室。目視出来ない敵艦目掛け、コンパスと時計だけを頼りに体当たりを実行するこの作戦は想像以上に至難の業であり、実戦に至るまでの訓練で数多くの死者を出した最悪の特攻兵器となる。


 今日も厳しい訓練を終えて、数多くの若者が兵宿舎に戻ってきた。


「なぁ、起きてるか?」

 予科練を終え本作戦に志願した若い青年が、灯の消えた大部屋で布団に潜り天井を眺め呟いた。


 朝早くから訓練でヘトヘトになるほど疲れている筈なのに、精神が高揚して寝れないのだ。


「これから死ぬってわかってる訓練をしてると、おかしな気分になるな」


 その問い掛けに、誰となく暗闇に向かって答える。

「あぁ、まともな精神状態ではいられないよ」


「何て事はないさ。仲間より先に逝くのか後に逝くのか、大差ないことだよ」


「この部屋の奴等も随分と減ったな。先に逝った奴が戦果を挙げた知らせを聞くが、実のところ成功すらしていないって話も――」


「おいっ、変なこと言うのは止めろよ。滅多な事は言うんじゃない! 上官に聞かれでもしたら……」


 いつしか暗闇の声の主は増え、部屋全員のものになっていた。

 そう、ここにいる誰ひとり寝付けないのだ。


「闇夜に紛れて特攻するにも、潜望鏡からは真っ暗で何も見えない。間違って敵艦底に潜望鏡が当たって折れたら、そこから浸水して溺死だ。そうなったら、まるで犬死にじゃないか」


「犬死になんかするもんかっ!」


「俺たちがやってやるんだ! 必ず成功させないと」


「家族や国の為に俺たちが死んで、生きた証を残せるなら本望じゃないか」


「「「そうだ!」」」

 一斉に声が上がる。


 すると誰かが小さな声で『海行かば』を歌い始めると、その小さな声に数人が続くように歌い出し、その歌声はいつしか合唱のようにその暗い部屋に大きく鳴り響いた。


 『海行かば』それは、第二の国家と言われる軍歌であった。


「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ――」


 その歌の半ば、誰となく嗚咽と共に洩らした。

「か、母さん……」


 その何気ない一声が、暗闇の部屋に静寂せいじゃくを呼び、その静寂しじまの後にあと幾つ算える事が出来るだろう朝が、次第に訪れようとしていた。



 ――翌朝、数名の若者の出撃が告げられる。

 あの部屋にいた若者の名前も含まれていた。


 その特攻出撃者名簿の中に、発案者であり本訓練の指揮に当たっていた西森本人の名前があった。


「先に逝った者の為、これから死に逝く者の為、そして生き残って日本を守る者の為、この回天の発案者である私自らが散らずして何が帝國軍人であるか」


 西森の必死の嘆願が、ようやく上層部に通った形となった。


 出撃命令が下った者には、最期の帰省が許される。しかし、家族であっても回天の任務については、一切の口外を禁じられた。


 西森には故郷である高知に、ひとりで暮らす年老いた母親がいた。しかし帰省が許された数日の間、母親には決して会いに行こうとはせず、遺書だけをその日のうちに書き綴った。


『母上様 今日に至る迄、厚き御愛情に何一つ孝行も出来ず御心配ばかりかけ申し訳ございません。何も母上に遺せる形見は御座いませんが、武人の名誉之に過ぐるは無し。御国の御為、太平洋の防波壁となり見事死んで参ります。どうか、この私の為に喜んで下さい』


 それは、西森らしい文面であった。便箋を丁寧に三つに折り畳むと、行われる検閲のため封をせず机上にそれを置き、西森は部屋を後にした。


 回天特攻隊として、同じ日に出撃する事が決まった同期の森山を誘い出し、西森は訓練場から少し離れた所にあるグラウンドへと向かった。

 かつては野球場として使われていたのだろう。しかし、広い敷地も今では整備される事もなく荒れ果ていた。


 暫く歩いたふたりは、古びた木造の用具倉庫の前でピタリと立ち止まる。

 ここに来る迄お互い何も言わずに、ずっと黙っていたふたりが初めて重い口を開いた。


「なんだ森山、お前も田舎へ帰らないのか?」


「あぁ。お袋の顔を見ちまうと、決心が鈍ってしまうんじゃないかと……」


(わからなくもない、俺とて同じだ)

 西森はそう思ったが口には出さず、代わりに「フッ」とキザに笑い飛ばした。


「ギーッ」と音のする建て付けの悪い倉庫の扉を開けると、そこには野球のボールが幾つか無造作に転がっていた。

 使い込まれて縫い目が綻びたままのボールも、今ではもう活躍の場を失い、誰に手入れされる事も無くなっていた。


「野球か、懐かしいな。戦争じゃなければ俺も今頃、タイガースで奪三振の山を築いて大活躍してたんだろうけどな」

 森山は天を仰いで、笑ってみせた。


 その空は、いつか見たあの空のように、どこまでも澄み切っていた。


『母親の顔は、決心が鈍るので見に行けない』

 そんな心優しい森山には、もう一つ断ち切れない未練がある事を西森は知っていた。でなければ最期にこんな場所に連れて来たりしなかっただろう。

 それは西森なりの餞別だったのかも知れない。


「投げてみるか」

 そう言って西森は近くにあったボールを拾い上げ、ポイっと森山に投げた。


 それを右手で受け取った森山は、ボールの綻びた縫い目のひとつひとつを確かめるように凝視したまま暫く動かない。


 戦争が長引き、数多くのチームメイトや他の球団の選手が徴兵に出された。

 自らも回天の搭乗を志願し、もう二度と触れる事がないだろうと諦めていた野球のボールが目の前に。


 いよいよ回天出撃の命令が下り、これが本当に最後なのだと悟る。


 すると、今まで野球に費やした森山の半生が、走馬灯のように脳裏を駆けた。

 森山は荒れ放題のグラウンドの感触を確かめるように、一歩……そして、また一歩と力強く踏み締め小高いマウンドへと向かった。

 投手板を覆う土を足で払い除け、それに対し垂直に足を掛けると大きく息を吸い込み呼吸を整える。


 目を閉じると聞こえる、遠いあの日の耳をつん裂く観客の大歓声。


 ラジオからは手に汗握る、実況のアナウンサーの声が――


「伝統の好カード、巨人対阪神戦、優勝を懸けた最終試合であります。縦縞のユニフォームに身を包んだ森山は、帽子を脱ぎ額の汗を拭います」


「さて得点は、一対〇で阪神がリード。その差は僅か一点、森山の好投にいよいよ大詰め九回の裏を迎えました。長身の強打者、河合を迎え小高いマウンドの上から、キャッチャーのサインを確認する森山であります」


 対するバッターボックスの河合も気合い十分、森山の視線を睨みつけると逸らさない。


「二死満塁フルカウント、次の投球で六球目となります。ヒットが出ればサヨナラ、アウトひとつで阪神タイガースの優勝が決まります」


 球場全体を包む敵味方の歓声が更に大きくなるが、いつからだろう。森山には何も聞こえなくなり最後には、高鳴る自分の心臓の音しか聞こえなくなる。


「ドックン、ドックン――」


 キャッチャーのサインに、森山は静かに首を横に振る。

 いつだって勝負は決まってストレート。全身全霊の直球勝負と決めている。

 コクリと一度だけゆっくり頷くと、ど真ん中に構えたミットだけを見据えた。


 もう走者は目に入らない。森山は大きく振りかぶる。

 ザッと力強く土を蹴り上げる音と共に、左脚を高く上げると渾身の力を込めた右腕を振り下ろした。


「うおぉぉぉーーーーーーーーーーっ!」


 全身全霊を以て、魂の底から絞り上げた森山の咆哮。


 スタンドのライトが眩く照らす、超満員の後楽園球場のマウンド。


 あの日の舞台とは正反対の真っ暗で誰もいない回天の密室に、その雄叫びだけが反響する。

 その魂の咆哮は、激しく舞い上がる水飛沫と爆音に掻き消され、森山と共に跡形も無く太平洋の水底に散った。

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