楽園の蛇
かめろんぱん
聖書に例えたお洒落なセリフを使ってみたかっただけ
真夜中、雑居ビルの地下にあるバー、寂れた街からはいつも通りに客足が少ない。時代遅れのジャズが掛かった店内には、男女が1組残っていた。
品よくスレンダーな黒のドレスを着た女に、スーツ姿の男が詰め寄る。
「君はまるでイブを騙した蛇だ」
怒りと軽蔑の込められた詰りに対して、女は鈴の音のように軽やかな声を響かせた。
「まあ、酷い、騙してなんかないわ。
蛇も私も、真実を伝えたいだけよ」
楽園で神に最も賢く作られた蛇は、知恵の実を食べると知恵が手に入ると神にとって不都合な真実を伝えた。
男は一瞬うろたえたが、すぐに調子を取り戻すと吐き捨てるように言った。
「どう言い繕ったところで、神罰が下るさ。
君はもうじきに地を這うことになる」
イブを唆したとされた蛇は神罰で手足をもがれ、地を這うことになった。
「ふふっ」
女は笑いが堪えられない様子で、吹き出した。
「なにがおかしい」
男は隠せない怒りを抑えて平静を装った。
「だって、地を這うのでしょう?言い得て妙ね。私はここまで来るために、血を吐いてきたんだもの。笑っちゃうわ」
女は慈愛に満ちた表情で狡猾に微笑んで、それから男に囁いた。
「私、賢いのよ、当然全て分かっていたわ、その気になれば神はなんだってお見通しよ」
「...くっそ」
男は顔を歪めて、カウンターに握りしめた拳ををぶつけた。男に未来はなかった。絶対的な支配者たる神に逆らった人間の末路なんて、考えなくても分かりきっていた。
女は空になったグラスを弄んで、乱反射する光を退屈そうに眺めながら気怠げに尋ねる。
「聞くまでもないけど、楽園を追放された気分はどう?」
男は掠れた声を絞り出すように言った。
「っ...最悪だ」
男の世界は儚かった。かつて、彼女が消えて生まれた世界の綻びは、目の前の女によって取り返しのつかないほど広げられ、ついには信じていたもの全てを根底から腐食するに至った。彼女が失踪した"真実を知りたがった"ばかりに。
「罪を犯した者同士、仲良くしましょう」
「彼女は、全て知っていたのか...?」
「知らなければ今頃楽園にいるでしょうね」
「......なぜ...なぜ彼女は殺された」
「彼女はイブより賢かったわ、真実をあなたに伝えず、無知なふりをして楽園に留まることにしたの」
イブはアダムと知恵の実を食べると、裸体が恥ずかしいということを知った。そして植物で服を作り、それを着た。神は、2人が服を着ていたことから知恵の実を食べたことを知り怒る。
「......っ」
「分かってると思うけど、時間がないの。早くして」
「ああ」
男は女から血の入ったグラスを受け取ると一気に飲み干した。男は痛みと吐き気に耐えるように目を強く瞑り、カウンターにもたれ掛かる。霞んでいく意識の中で、男は彼女のことを考えていた。
誕生日、結婚記念日、労働感謝の日、お祈りの日、始まりの日、終わりの日。
彼女は特別な日になると決まってアップルパイを作ってくれた。
今日のアップルパイの味はどう?
バターたっぷりでおいしいよ。フィリングもレモンが効いててしつこくない。カスタードクリームとうまくあってる。皮はサクサク、りんごはシャキッと、クリームがとろっとしてて完璧だよ。
もう、大袈裟だな。そんなに長く言わなくていいよ。実はこのりんごね、ちょっと特別なんだよ。今日は特別な日だから。僕が困惑した顔をすると彼女は決まってウインクする。
なんの日だ?あの日はなんでもない日だったのに、彼女がアップルパイを作ったから、すこし不思議だったんだ。
男は簡素な部屋で目を覚ました。部屋には簡易的な折り畳みベットと、大きめのスーツケース、壁掛けの時計があるぐらいだった。男の視界の端では違法物品を知らせるアラートが点滅していた。
「気分はどう?」
女はベットに腰掛けて、つまらなそうに定型文を口にした。
男は体に残ると倦怠感と吐き気を確かめると、自嘲するよういった。
「最悪だ」
女は面白がるように、美しい口を歪ませる。
「その割には楽しそうだったわよ。愛しの彼女の夢でも見てたのかしら」
男は図星を突かれて忌々しげに女を睨んだ。
女は男の反応に飽きたようで、スーツケースを取り寄せ上に座ると、しばらく髪の毛を弄っていたが、いつまでも顔色の悪い男を見て、淡々と告げた。
「ひとついいことを教えてあげる。貴方は死んだと思ってるようだけど、彼女は生きてるわ」
「...は?」
男は呆気に取られて固まった。
男の餌を求める魚のような表情に機嫌を良くした女は艶やかな唇の端を吊り上げて言った。
「私、言わなかった?彼女は賢いのよ」
女はいつものようにウインクした。
楽園の蛇 かめろんぱん @kameronpan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます