第2話 裏蔵

 長野県松本市は意外に広い。

 国宝である松本城から西側一帯は穂高岳を筆頭とした、北アルプスの山々、乳白色で名湯と名高い白骨温泉、また山本茂実が著した『あ々野麦峠』の長野県側の野麦峠。

 それらを超えた範囲を松本市としてカバーしており、東側は美ヶ原の一部に迫るまでを市の領域としている。


 松本市の中心は栄えていて、網目のように生活の隙間に敷かれた文明が 人々の営みを支えているが、少し離れて山に近づくと、今でもその様相は、八百万の者達が住まう世界の景観に様変わりする。

 夜の山、新月ともなれば自分の手さえも見えない暗闇に包まれた。


 松本市に入山辺と言う地域がある。ここら辺の石垣はブロックを積んだ物では無く、本当に石を積んだ石垣だ。家々の庭先にも蔵がある家が多い。

 父親が神主である一郷……むつみ 一郷いちごの睦家にも蔵があった。

 神社に隣接して建つ その家の敷地の中には蔵が幾つかあり、一郷は二人がキスを交わしていた蔵を『裏蔵』と呼んだ。


 数ヶ月前、香と一郷はともに不思議に遭遇する。一郷は巻き込まれた形だが、家業の影響で不思議な事に詳しかった一郷を、香は頼った。

 一郷は初め、関わり合いたくない態度を取っていたが、気になると放っておけない性格なのか、香の身の上に起きた奇妙な出来事について、なんだかんだ調べてくれる。

 似たような現象を綴った伝記が、家の裏蔵にある。


【だから、今度の週末ウチの裏蔵に一緒に見に行かない?】


 二人が裏蔵に居た理由は、そんなメッセージが三日くらい前に一郷から 香に届いたからだった。

 香が一郷の家に来るのは、これが初めてでは無い。二人で一緒に奇妙な経験をしたのは、秋ぐらいの事だった。今はちゃんとくっついているが、香の体から、香の影が離れてしまったのだ。その事で相談をする時に何度か一郷の家を訪れ、相談をしている内に、香は一郷の事を好きになってしまっていた。

 二人ともはっきりと気持ちを伝えあった訳ではないが、雰囲気では何となく、お互い気持ちを分かっているような感じではある。一線を越えられない、……もう一歩を踏み出せないのは、初めての事に対峙する時の慎重さと、もしも勘違いだったら、……そんな怯えがあったからだ。


 一線を越えるのは意外とあっけなかった。薄暗い蔵の中で、『ガタリ』と物の落ちる音に驚いた香が、一郷に縋って抱きしめられる。影が体から離れた時も一郷に抱きしめられたが、あの時とは心の余裕が違った。

 縋って間近で一郷と目が合い、香は目を閉じた……


(一郷はどんなつもりで、キスしたんだろう?)


 母屋の縁側に座って、したばかりのキスに一抹の不安を抱きながら、香がお空を眺めていると、蔵から出で来た一郷に背後から声をかけられた。


「香」


 びくっ、となりつつ、ゆっくりと振り向く。


「好きだ。つき合ってください」


 拙いけれど素朴な恋が、信州のお空の下に生まれた瞬間だった。

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