◇37.我らが黒の賢者に栄光あれ。
戻った直後、俺は「あれ」と首をかしげた。
てっきり自宅の薬屋に転移するかと思っていたが、そこはまったく別の場所だったからだ。
見覚えがある。今いるのは、リッケスの街のミランダの事務所、その一階の待合室だ。
「婿殿。こっちへ」
メルフィナが階段を上がり、何故か俺たちを上へ連れて行こうとする。
この場所に転移させたのは術札の使用者である彼女なのだが……意図がわからず、俺はリリアと顔を見合わせてしまう。
「理由は後で説明する。……というか、来てもらえればわかる。お二人とも、まことに申し訳ないのだが……もう少しだけ付き合ってもらえないか」
すまなさそうにメルフィナが言うので、わからないながらも俺たちは彼女の後についていった。
(別に変な意図もないだろうけど……。でも、何でここに……?)
そして、二階の最南端の部屋に入ると、メルフィナはさらにその先のバルコニーへ向かうように言う。
外はもう深夜で真っ暗のはずだった。だが、何故か窓の向こうからは明るい光が漏れていて、バルコニーに続く窓を開けると、それらの光がどばっと俺たちの全身に押し寄せてきた。
──それは、光だけではなく。
何十人もの人の気配といっしょに。
「え……?」
その階下には皆がいた。
エイラ。イアン。ミランダ。ミランダの配下の男たち。メルフィナの部下であるダークエルフの二人。彼らをはじめとしたリッケスの街の皆が。
誰もがきちんと整列して、上階の俺とリリアを見上げている。
襟を正して衣服を整え、まるでこれからセレモニーでも行うかのように。
周囲の灯りが煌々と輝き、この場所だけがさながら昼間の輝きだった。
メルフィナが前に出て、下の皆へと声をかけた。
「静粛に! 我らが『黒の賢者』のご帰還である!」
……は?
続いてメルフィナは、階下のミランダへ手振りで合図を送る。
ミランダはそれを受けて最前列へと歩いてゆくと、こちらにも聞こえる大きな声で、そこにいる全員に、まるで報告するかのように話し始めた。
「……今回の戦いにおいて、街の防衛にあたった者のうち、三十七名が戦闘で何らかの傷を負いました。そのうちの十二名が重傷。頭部を負傷し一時意識を失った者は二名。なお、現在は二名とも回復し、命に別状はないとのことです」
報告の最中、辺りはしんと静まり返っていた。
エイラたちも含め全員が背筋を伸ばし、ただ黙ってミランダの言葉を聞いている。
「もっとも、それらの負傷者が出たのは主に午前中のこと。薬師カイト・フェデラル氏が救援に到着してからは、皆が影布と氏の闇魔法を活用し、負傷者は一桁台にまで抑えられました。そして、何よりも特筆すべきは、死者がゼロであるという事実。……街は魔獣に破壊され、今後の復興には時間がかかるでしょう。それでも我々は……一人の仲間を失うこともなく、平和な明日を迎えられるのです! 黒の賢者、カイト氏のおかげで!」
ミランダが手を挙げ、彼女の側近の分隊長が号令をかける。
「全体! 捧げェ──
同時にその場の全員が、一斉に敬礼の動作を取った。
銃を持つ者は銃を掲げ、剣を持つ者は剣を掲げる。何も持たない者は挙手の敬礼で。
一糸乱れぬその動作は、すべてこちらへと向けられて。
そこにいる皆が、歓喜に満ちた表情で、階上の俺を見上げていた。
そして、メルフィナが高らかに声を上げる。
「我らが黒の賢者に──栄光あれ!」
「「「おおおおおおおおおおぉっ!!」」」
地鳴りのような歓声が沸き起こった。
イアンが手を振り、エイラが笑っていた。ミランダがこちらにウィンクして、男たちは全員が拳を掲げる。
そこでようやく俺は理解する。
──そうか、みんなこのために待っていてくれたんだ。
すでに日付も変わってしまったというのに、眠りもせず、ずっとこの場所で火を焚いて。
「……カイトさん。みんなに手を振って……応えてあげて下さい」
リリアもこの集まりの意図を悟ったらしく、俺の隣に近づいて言った。
わかってる。けど、ああ、ちょっとダメかもしれないと思った。
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、その手は目頭を押さえるために使わないといけなさそうだった。
「っ、メルフィナ、『黒の賢者』ってさあ……」
「構わないだろう? 婿殿。それは人間を救った黒髪の魔術師の二つ名なのだから。同族のダークエルフではないが……私は、婿殿にも似合いの名だと思っている」
少しだけ悪戯っぽい笑みを見せて、彼女は答えた。
かつて人々から慕われた、偉大なる魔術師の二つ名。メルフィナはそれを俺へと贈ってくれたのだ。
ああ、くそ。ヤバいな。追い打ちで余計に泣いてしまいそうだった。
そう、俺が欲しかったのは──望んだものはそれなのだ。
誰かが俺を見てくれる。
誰かがこちらに笑顔を向けてくれる。
誰かが俺を信頼してくれる。
グラフィアスにいた頃には得られなかった感情。
アンリエッタのお嬢さん、あんたならきっと理解できるはずだ。
その感情以外は何も要らない。
俺は望むものを、こうしてすでに手に入れているのだから。
ふと、あたたかい感触が俺の左手を包んだ。
気付けばリリアが俺の手を握っていてくれた。
これもそうだ。大切な人とのつながり。地位や金品より何万倍も価値のある、尊いもの。
俺は顔をぬぐって右手を高く掲げた。
皆の視線がそこに集中し、歓声はさらに大きくなった。
涙をこぼさないように、顔を少しだけ上に向けると、空の向こうが白んでいるのが見えた。
それは、長い一日がようやく終わり──希望に満ちた次の朝がやって来た証だった。
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