◇36.アンリエッタは婚約破棄を宣言するんですけど。


 俺の言葉にヨハンは「な、何だとぉ」と、驚きの声をあげた。

 まさか反抗されるとは思っていなかったのだろう、後から怒りの感情が追いついてきたらしく、徐々に眉が吊り上がると、その顔つきが険しくなる。


 一方、リリアはボッと顔を紅潮させ、俺の方を見ると、こちらの胸元に頬を寄せ、指を絡めるようにして手を握ってきた。


 名目だけの夫婦ではあったが、彼女のことを嫌いなわけではなかった。

 というか、好いていた。

 可愛いし、いい子だし。俺にはもったいないくらいだと思う。

 むしろ俺のような男でいいのかという思いで、あと一歩を踏み出せないでいたが、この状況ではもはやそうも言っていられない。


 あとの問題は彼女が俺を受け入れてくれるかだが……握り返してくれるその手の形と温かさからすれば、どうやらそれを心配する必要はなさそうだった。


 俺がリリアの背中に手を置くと、王子はそれを見てにらみ上げてくる。

 が、こちらが地面をドンと踏むと、「ひっ」と素早く身を引いた。


 そこへアンリエッタが割って入ってくる。


「魔術師さま、此度の一件、本当にありがとうございました。先ほども申し上げましたが、いずれ何らかの形でお礼をさせていただきます。ですが、今はまだ……」


「わかってるよ。まずは国内の魔獣をどうにかしないといけないものな。けど、俺たちはこのあたりで帰らせてもらうから。状況が落ち着いたら、また連絡してくれ」


「はい。必ず、ご報告にうかがいます」


「お、おい、待て。僕の話はまだ──」


「ヨハン殿下」


 アンリエッタがくるりと振り返り、王子に向き直る。

 ヨハンはそれを見て青くなり、さらに後ずさった。

 俺の方からは見えないが、それだけでアンリエッタがどんな顔をしているか想像できてしまった。


「……殿下。私は公爵家の娘として、聖女として、将来あなたの妻となって、国を護る役目に就くものだとずっと思っていました」


「あ? あ、ああ……」


「好いた殿方との婚姻など望めず、家やしきたりによって相手が決められるのは仕方がないことだと。それでも、聖女になることは名誉だと思っていましたし、あなたが好意を寄せてくれるのも嫌ではありませんでした。……ですが」


 言って、アンリエッタはズイと一歩踏み出す。


「ですが、あなたの方から態度をひるがえすというのなら……私もこれ以上、付き合う必要はありませんね。ここに至るまでの愚かな行いの数々……せめて、できる範囲ではフォローしようと思っていましたが、どうやら殿下はそれすらご不要の模様」


「い、一体……何を言っているんだ、アンリエッタ。愚かな行いって、僕は」


「わからないならそれで結構です。ただし、今から言うことだけはどうかお聞き下さいませ。……私は、これからも聖女の役割をつとめます。魔力が足りないのなら、責任をもってそれを補填する方法を見つけてみせます。けれど殿下、あなたとの婚約はここで破棄させていただきます。王妃になんてならなくて結構。地位も権力もいりません。あなたなんかと結ばれるのだけは、死んでもまっぴらごめんです!」


「なっ……」


「あら……」


「おぉ……」


 その言葉に、一同がそれぞれの声を漏らした。

 ヨハンはおののき、リリアは喜々とした表情でアンリエッタを見て、騎士たちは感嘆の声をあげる。


「行きましょう、魔術師さま、リリアさん。ダークエルフの女性が待っておられるところまで。せめてそこまでは、お見送りさせて下さい」


 言って、アンリエッタは俺たちを先導する。

 ヨハンは「え、ちょ、ま」と慌てるが、令嬢が「何か?」とにらみつけると、びくんと震えあがり、身を縮こまらせた。


 彼女もやるもんだな、と俺は感心した。

 騎士たちもどうやらヨハンには好感を抱いていないらしく、アンリエッタをとがめもせず、俺たちの後についていく。


「女の方から婚約破棄って、あんまり聞かないよな……」


 俺がつぶやくと、アンリエッタはクスリと笑った。


「私も、聖女として強くあらねばなりませんから」


 彼女は自らに聞かせるようにそう言って、最後に一つ俺へと質問した。


「ところで魔術師さま、お礼を差し上げるにあたって、何かご希望はございますか? 物品以外でも、たとえばこの国での官職……宮廷魔術師に復帰されるなどのご要望があれば、出来る限り取り計らいたいと思いますが」


「いや、それは……。てか、礼は別にいいよ。地位とかもいらないし。この国に戻る気もない。俺が欲しいものは……礼として受け取れるものじゃないから」


「? それはどういう……」


「今度会った時に話すよ。あんたならきっと、わかってくれると思う」


 俺たちはそんな会話をして、メルフィナのところまで歩いて戻り、転移の術札で帰還する。

 転移の途中、俺はアンリエッタの痛快な啖呵を思い出し、あの気概なら王子の権力に負けはしないだろうと──そして、彼女が聖女を続けるのなら、おそらくこの国は大丈夫だろうと──勝手ながらそんなことを思ったのだった。

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