第33話・恋夜

 窓辺に座り、夜風に吹かれていると様々なことが脳裏に甦る。

 私は王都への旅路にある。ユーグさまとリカルドと宿の夕餉を頂いて、いまは自室にひとり、もの思っている。生まれ育った王都、二度と帰る事はないと思って旅立ったあの場所は、もうあと二日ほどの位置にある。


 何も知らないままに父と暮らして幸せだった頃のこと。恋などしても仕方ないのかも知れないと思いつつも、ユーグさまに憧れていた少女の頃のこと。そして、ユーグさまに命を救われながらもその事だけでなくユーグさますら忘れ、ジュリアンの婚約者となって自分は恵まれた娘なのだと思い込んでいた頃のこと。親友だったイザベラ。明るかった彼女の笑顔。

 そう言えば、私に代わってジュリアンと婚約したと勝ち誇っていた彼女だけれど、過去には僅かに恋愛めいたことがあった。誰だかわからない貴公子から、誕生日に豪華な花束が贈られてくるのだと言っていた。宰相のひとり娘である彼女には勿論、多くの貴族の子息から誕生日に贈り物があったのだけれど、その花束はなにか違うのだ、とイザベラは言っていた。驚くほどにその日その時の気持ちに添った花なのだと、頬を染めていたのだ。彼女は花束の贈り主に恋をしていたように思う。でも、結局相手は誰なのかもわからないままで、そのうち彼女はその話を一切しなくなった。――ほんとうに、贈り主は誰かわからないまま、イザベラは初恋を忘れたのだろうか? もしかして、密かに会って何かあったのでは? 今となってはわかる術もない。今やかつての親友は、憎い敵なのだ。

 親友と言えば、ユーグさまとリカルドは本当に仲が良い。シルヴァンの頃とは違って笑顔を取り戻したユーグさまは、リカルドとよく話し、他愛のない昔話に興じて、笑ったり冗談を言ったりする。あの、氷の彫像のようだったシルヴァンが、冗談を言うなんて、と最初私もリカルドも少しばかり戸惑ったけれど、すぐに、ユーグさまは元々明るい少年だったのだ、と思い出す。

 いまの厳しい状況を考えれば、ユーグさまは多少無理をして明るく振る舞っているのかも知れないけれど、それでもユーグさまが笑っているだけで私の気持ちはとても柔らかで温かいものになる。


 家族が実の家族ではなく、育ての母に憎まれながら育ったリカルドにとって、ユーグさまとの友情が救いだったのだ、とリカルドは話してくれた。養父の伯爵は、ローレン侯爵から送られる多額の養育費でリカルドに教育を施し贅沢もさせたけれど、共に食事を摂ることすらなかったという。その代わり、空いた時間は自由にしても何の文句を言われる事もなかった。だからリカルドはユーグさまの傍に入り浸り、薄々事情を察していたらしいユーグさまのご両親も、リカルドを息子同然に可愛がっていたらしい。

 そして、リカルドはレジーヌの父親に地下室に監禁され死にそうになっていたユーグさまを救った。ふたりの絆が強いのは当然だと思う。

 ローレン侯爵には、亡くなったフェリクスしか正式な子どもはいなかった筈。フェリクスの母であるローレン侯妃も故人であり、ローレン侯爵がその気になれば、庶子であるリカルドを嫡子として迎え入れる事は可能だろうと思う。通常、貴族の庶子は日陰者として生きるけれど、他に生きている子どもがいなければ話は別だ。ましてやリカルドは分家の伯爵家の子息として育っているので、ローレン侯爵が後継ぎとして養子にするのはさほど不自然でもない。リカルド自身も以前から宮廷に出入りしていてそこそこ人脈もある筈だ。

 でも、そういう事を言っても、リカルドは苦笑して、


「僕があの人の正式な息子に、なんてないよ。僕はただの駒さ」


 と言うだけなのだった。

 リカルドの産みの母に関しては何もわからない。聞けないし……『穢れた生まれ』という言葉を否定しなかったところを見ると、娼婦などではないにせよ、身分は低いのだろう。でも、リカルドの母親を大事に思っていなければ、ローレン侯爵はその息子を分家に預けて大切に養育させる訳はない。リカルドの青灰色の瞳は、珍しいという程ではないけれど、ありふれてもいない。そして、ローレン侯爵もその瞳を持っていた。他に、その色の瞳を持った親しい――親しかった人、といえば、イザベラだ。父親の宰相は違ったけれど、早くに亡くなったイザベラの母親がその瞳だったのだろう。だから、リカルドの目を見ていると、時折落ち着かない気持ちになるのだ。イザベラへの恨みを思い出し、『親友はいつか裏切るのだ』という悪魔の囁きが聞こえる……命を捨ててでも助けてくれようとしたリカルドが、裏切る訳はないのに。

 子どもの頃に出会ってすぐから、私は、リカルドとユーグさまは、イザベラと私みたいだ、とその瞳の色も相まって感じていた。でも、リカルドと再会した後もずっと、それを忘れていたのだった……。


―――


「アリアンナ。まだ起きているかい?」


 小さく扉が叩かれ、控えめな大きさの声が聞こえた。


「! 起きてます、ユーグさま。どうなさいました?」


 私は慌てて扉に駆け寄って開けた。

 私の部屋の右隣にユーグさま、その向こうにリカルドが部屋をとっている。階下ではラトゥーリエ家の騎士が数人、寝ずの番をしている筈だ。ここに至るまでの旅は騎士団に護られて順調だったが、いつ何が襲って来るかは来ないかは誰にもわからない。

 一度は捕縛令まで出したというのに、ラトゥーリエ公爵が『国王陛下に礼を尽くしてお目にかかる為に』整えた一行に対して、ジュリアン王は何故か咎めて来る事はなかった。主だった宿場町には王家の兵士が駐留していたものの、どこに行っても拍子抜けする程に何も起こらなかった。とはいえ、用心を怠ってはならない。

 密かに連絡を交わしているローレン侯爵によると、最近の王はむしろ機嫌がよく、


「久々に従兄どのに会えるのだ。歓迎せねばな」


 などと言っているらしい。けれど勿論、本心である訳はない。王の嗜虐的嗜好を鑑みれば、何かおぞましい罠が用意されている事だって充分にあり得る。

 でも、何が待ち受けているにせよ、私たちは前へ進むしかない。


「こんな時間にごめん。入っても?」

「もちろん……」


 そうは言ったものの、私もユーグさまも、夜着に上掛けを羽織った姿で、少し恥ずかしい。

 ユーグさまは少し視線を落としながら奥まで入って来て、さっきまで私がひとりで座っていた窓辺の小卓の傍の椅子にかけた。こんな時間にどうして、何かわるい知らせが? と私は不安になってしまう。


「あの……なにかあったのですか?」

「ああ、いや、そういう訳じゃないよ。びっくりさせて済まない」


 恐る恐る発した私の問いかけに、あっさりとユーグさまは否定した。ほっとしながらも、じゃあ何の用で? とまた疑問符が頭を飛び交う。

 月の光の下で、ユーグさまの整った貌にかかる艶やかな黒髪を見ていると、ふと、かつてオドマンから私を救い、具合を悪くした時のシルヴァンの事を思い出した。あのとき私は、眠っているかれへの愛を初めて自覚し、唇を重ねたのだった。なんだか何年も前のような気さえしてしまう。シルヴァンはユーグさまのなかに溶けて、いまは一層いとおしい。


「どうしたの、アリアンナ。俺の顔になにかついてる?」


 思わず見惚れていたので、ユーグさまはそれに気づいて不思議そうな表情になる。


「いえ、なんでもありません。ただ……」

「ただ?」

「この旅ももうすぐ終わるんだ、と思って……」


 旅路の間、私はユーグさまと二人で馬車に乗って、一緒に過ごしてたくさんの話をした。楽しい話をして笑い、辛かった話をして涙を共有した。ユーグさまは日に日に表情を豊かにした。

 でも、その旅はもうすぐ終わる。その先、王都に待つ運命はなんだろう。帰りの旅は、あるのだろうか……。


「アリアンナ。俺は、きみと旅をしてきたこの十日のあいだ、本当に幸せな気がした。この幸せを手放したくない」

「ユーグさま、私も……」

「手放すつもりはない。俺はなんとしてもきみを連れて胸を張って帰るつもりだ。ただ、そうは言っても現実は気持ちだけではどうにもならないこともある。ローレン侯爵が味方についてくれたことで、絶望的ではないとは思っているが」

「ええ」

「アリアンナ」


 ユーグさまは不意に立ち上がると、私を抱きすくめた。どきどきしながら私は身を委ねてユーグさまの胸に顔を埋める。ユーグさまの体温を頬に感じると、もう何を考えたらいいのかわからなくなってきた。いつまでもこうしていたい、とただそればかりで。

 でもユーグさまは背に回した手をそっと離して、私の頬に添えて上を向かせた。すぐ傍にユーグさまの顔がある。感情に揺れる瞳がある。


「きみが欲しい」


 囁き。私の心臓は更に激しく打ち始めた。ユーグさまはそのまま私の唇を奪った。


(ああ……)


 それは、今までで一番激しいキスだった。離れたかと思うとすぐにまた重なって。脚が震えて崩折れそうだった。でもユーグさまはしっかりと私の腰を抱いていた。


「凍っていたころには思いもしなかったのに……いまは、からだの血が熱い。きみを、俺のものにしたくて」

「ユーグさま」


 わななきながら私は細く言葉を返した。


「わたしは……わたしのこころはずっと、あなたのものよ。いまも、これから先も、ずっと」

「うん……俺もだよ」

「あなたが望むなら、わたしのすべてはあなたのものに、なるわ」

「ありがとう。俺のすべても、きみのものだ」

「ええ」


『俺のものになるなら助けてやろう』


 あの雪山での再会が甦る。私は勘違いをして怒って。

 さいしょからずっと、私はユーグさまのものだったのに、随分遠回りをしたものだ。

 私はユーグさまの背に回した腕に力を込めてしがみついた。なにもこわくはない。


 窓の外から月だけがみてる中で、私たちのすべてが、お互いのものになった。

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