第34話・翌朝

 まだ外は薄暗いけれど、もう夜明けは近い筈だ。

 身体中の力をなくしてしまうと思うほどに全てを吸い尽されて、代わりにユーグさまの全てで満たされた気持ちがした、ひとときのあと、私たちは抱き合って一つの寝台で眠り、そうしてふと目覚めた。

 愛しい愛しいひとは、まだ目を閉じて微睡んでいる。他者に対して警戒を怠らないひとが、私の前で無防備に寝姿を晒している。私がそっと頬に触れても目を覚まさない。


「アリアンナ……」


 と寝言を零しただけた。

 私はユーグさまのものになった。初めてのことに戸惑いはもちろんあったけれど、婚約者のいた身として一応の知識は持っていたし、何よりユーグさまを信じ切ってきたので、言われるままに何もかもを受け入れる事が出来た。身体にはこれまで知らなかった感覚が芽生え、肉体的な痛みもありはしたものの、何の後悔もなくただただ幸福感に満たされている。とっくに死ぬ筈だった私が生きながらえたのは、この夜の為だったような気さえする陶酔が私を捉え、こんなに満たされてしまっては、後で辛い事があるのではないかと恐ろしくなったくらいだ。私だけの事ならば、今の気持ちをただ離さずにいれば何だって耐えられる気がするけれど、私が苦しめばユーグさまをも苦しめてしまうだろう。


 でももちろん、後の事なんていまはわからない。

 私は、火照った身体とぼうっとした気持ちを平常に戻したくて、上掛けを羽織って寝台を出て、窓辺に寄った。外の風に吹かれてゆっくり考えたいと思ったのだ。


(……え?)


 宿の裏庭を一望できる窓から見えたのは、こんな時間に裏庭を足早に横切る人影だ。人目を憚るような素振りでこの建物に向かっている。まさか、刺客? と身が強張ったけれど、ただ裏庭に人がいるというだけでは声を上げる程の事ではない。この宿には他にも客はいるし、娼館に潜りこんで朝帰り、なんてだけの事かも知れない。

 ただ、なんとなく、これは自分とユーグさまに関わりのない事ではない、という気がした。

 雲が動き、朝に呑まれる前の月明かりが、人影を一瞬照らし出した。


(リカルド?)


 焦茶の髪を持った男が、視界を外れて消えていった。

 見えたのはほんの一瞬で、しかと顔を見たとはとても言い難い。けれど、暫くの間とはいえ同じ館で生活したリカルドを見間違えるとは思えなかった。いったい、どういう理由があって、リカルドは夜中に人目を避けて宿を出入りするというのだろう? 私が知らされていないだけで、リカルドはなにかユーグさまに頼まれごとでもしているのだろうか? それならば別にいいのだけれど、ユーグさまも知らないことだとしたら? ユーグさまに伝えておいた方がいいだろうか?

 いや、でも、リカルドはユーグさまの部下ではなく友人だ。この旅にだって、別に付き合う必要はなかった。私を匿った罪に問われているけれども、王都に出向いて決着をつける私たちとは離れて一人で外国へ逃れる道もあった。そうしなかったのは、彼とユーグさまの間の友情の為だと私は信じている。だったら……彼が夜中に一人で何をしようと、口出しする権利も気にする必要もない筈だ。


「アリアンナ?」


 背後からユーグさまの声がした。振り返ると、寝台に上に起き上がって、私を見つめていた。


「温かな夢の中にいたら、急にぬくもりが途絶えた」


 とユーグさまは言った。


「ごめんなさい、ユーグさま。すこし、風にあたって目を覚まそうと思ったの」


 私が寝台に戻るとユーグさまは私をぎゅっと抱きしめた。


「出来れば覚めさせたくないけど、そういう訳にもいかないからな」

「そうよ、ユーグさま。きちんと整えておかないと、私、恥ずかしいわ」

「無事に帰る事が出来れば、立派な式を挙げて、俺の妃だとみんなに知らせるよ。何も恥ずかしい事なんかないさ」

「そんな幸せなことがあるかしら。私は、生きてあなたの傍にいられさえすればいいのに」

「傍にいればずうっとこうしていたくなる。その為には皆に俺たちの事を認めさせたいからな」


 そう言ってユーグさまはふっと遠い目をする。


「俺が『シルヴァン』になってから、多くの者は俺から去ったが、リカルドや館の者、バロー先生……それに、あんなことになってはしまったが、レジーヌも……俺を見放さずに世話を焼いてくれた少数の人々がいたおかげで、今俺は生きている。もしもそれがなかったら、きっととうの昔に俺は生きたいとも思わずに飲食すら面倒になってひとり朽ち果てていたに違いない。そうなっていたら、きみと再会する事もきみを救う事も叶わなかった。たとえ王都で死ぬ運命だとしても、いま、生きてきみをこの腕に抱いている事が心からありがたい……。だから、俺は幸福な姿を見せて皆に、皆のおかげだ、ありがとう、と言いたいんだ」

「ユーグさま……」


 あの『シルヴァン』とこんなふうに語り合い、抱き締め合っているなんて、今さらながらに夢みたいだ……。

 身支度を整えなければ、なんて言いながらもつい、私たちは朝の陽が本格的に射して来るまでお互いを求めあっていた。


―――


「おはよう、ユーグ、アリアンナ」


 朝のダイニングでリカルドと顔を合わせ、やっぱり私は気恥ずかしかった。

 他の宿泊客とは隔てられた賓客用のダイニングで、私とユーグさまとリカルドだけの朝食だ。

 何もおかしななりはしていない筈なのだけれど、昨夜までの私となにか違って見えないかしら? やましい訳ではないのに、そんな風に思って思わず少しだけ頬が火照る気がする。


「どうかしたのかい?」


 私の心を知ってか知らずか、リカルドはいつもより視線を逸らしてしまう私に軽く笑いかけた。


「ど、どうもしやしないわ。なにか、私、変かしら?」


 きっと私の声は少し上ずっていた。


「変なんて事はないさ。ただ、なんていうか……一段と今朝は艶やかというか、おとなびたというか……とにかく、なんだかいつにも増して綺麗だなと。なあユーグ、そうは思わないかい?」

「さあ? 俺のアリアンナはいつだって美しいからな」


 当たり前の事のようにユーグさまは言う。なんて事を、と私は恥ずかしくて俯いてしまう。リカルドはなにか察しているのかそうでないのか、ユーグさまは空とぼけているのか素なのか、まるで判りかねた。


「リ、リカルド。あなただって……」


 頭に血が上ってしまった私は、言うつもりのなかった事を言ってしまう。


「え? 僕がなに?」


 私の様子を面白げに見返しながらリカルドは尋ねた。


「あなただって、夜中にこっそり出かけていたのではなくって? きっと、女性のところね?」


 言ってしまってすぐに、なんてばかな事を口走ってしまったのか、と思う。別にリカルドは、私が男性とどうのと言った訳でもないのに、言い返すにしてもあまりに過剰反応というものだった。


「え、なに……? 照れ隠しにしては直球だねえ。僕は別に、きみが男性と夜を過ごしたなんて言ってないのに、言い返しが、僕が女性のもとへ通っていたって?」


 思った通り、リカルドは私の言葉に更なる揶揄いの種を見つけた様子だった。けれど……『夜中にこっそり出かけていた』という言葉に一瞬表情が強張った気がしたのは、これも私の気のせいなのだろうか?


「二人とも、つまらない応酬をするんじゃないよ。スープが冷めてしまうだろう」


 のんびりした仲裁が入って、おかげでこれ以上みっともない真似をせずに済んで、私たちは朝食に向かった。ユーグさまは機嫌よく話し、リカルドはいつも通りに朗らかな様子で、食事の味をろくに感じない程のぼせているのは私だけなようなのが腹立たしかったが仕方ない。私はユーグさまの方を見るだけで、昨夜のあれこれが脳内に甦ってしまってどうしようもなく愛おしくもあり恥ずかしくもあり、そわそわしてしょうがないのに、男の人はさっさと切り替えられるものなのね。まあ、この一行の主であるユーグさまが、人前で浮かれてのぼせた姿を見せる訳がないのは、勿論よく理解しているけれども……。

 と、思っていたら。


「どうしたんだ、アリアンナ。少し頬が赤いけれど、もしかして昨夜風邪をひいたんじゃないのか。そうだったら大変だ。今日の出発は一日遅らせて、寝ていた方がいいんじゃないか?」


 ユーグさまはそう言って立ち上がり、何を言う間もなく、私のおでこに自分のおでこをくっつけた。


「熱は、ないみたいだな」

「ゆ、ユーグさま、恥ずかしいわ。熱なんかないし、リカルドが見てるわ」


 リカルドはにやにやしてこっちを見ているけれど、ユーグさまはおかまいなしだった。


「別にいいじゃないか。可愛い、愛しいきみの心配をする事のなにが恥ずかしい? それに、きみだってこの間、俺にこうしたじゃないか」

「あ、あれはあの時はまだ色々あなたの身体が心配だったから……」

「俺は、きみが俺にしてくれた事は、何だってそのまま返したいんだよ」


 そう言って私の頭に回した手で、私の髪を優しくかきあげる。


「それは、私だって……」

「はいはい、御馳走さま! じゃあ邪魔者は退散するよ。でもユーグ、出発の時間を忘れないようにな」


 リカルドは笑いながらそう言って立ち上がった。


「あの、えっと、リカルド」

「結婚祝いは、無事に館に帰ってからに。今はただ、おめでとう、アリアンナ」

「あの……!」


 私たちを二人きりにさせようという気遣いを、私は敢えて遮ってリカルドを引き留めた。彼は不思議そうな顔で振り返った。


「リカルド! あなたには本当に……本当に感謝しているわ。あなたが力を貸してくれていなかったら、今日の幸せはなかったわ。ありがとう……」

「礼なんか」


 とリカルドは苦笑した。


「本当に、大した事もしてないし、僕は自分のやりたいようにやっただけだよ。でも、そんな風に言ってくれて、こちらこそありがたいよ」


 それだけ言って、彼は部屋を出て行った。


「アリアンナ、どうしてあんな事を言ったんだい?」


 不意にユーグさまがそう言ったので、私は最初、お礼を言った事かと思い、


「えっ、どうして、って……だって、本当に感謝の気持ちがこみ上げたんですもの。いけなかったですか?」


 と戸惑ってしまった。でも、ユーグさまは首を振って、


「ああ、いや、そうじゃなくて、きみはさっき、リカルドが、女性に会いに行った、なんて言ったじゃないか。あれは、ただの照れ隠しの出まかせ?」

「あ……私ったら、本当にはしたない事を」


 宮廷ではずっと第一の貴婦人としてあるべく、完璧な作法が身についていたのに、田舎暮らしの間にいつの間にか、淑女としてあるまじき物言いを聞き覚えてしまっていた事に、指摘されて気づき、私は縮こまる。そんなに多くの人と接していた訳ではないけれど、呪術師のアランなんか、時々うんと品のない冗談をいうし……。


「ああ、いや、そんな意味じゃないよ。別にきみがはしたないなんて思ってない。ここは宮廷ではないのだし。ただ、きみがそんな事をただ思いつくなんて、と少し不思議に思っただけだ」

「そのこと……」


 確かに、夜明け前に窓からリカルドらしき姿を見ていなければ、咄嗟にあんな言葉は私の口から出なかっただろう。それで、私は見た事をユーグさまに話した。


「そうか、なるほど……」


 とユーグさまは驚く様子もない。


「心当たりがおありなの、ユーグさま?」

「うん。この街の外れに、修道院があるんだ」

「えっ。修道院?!」


 私の方が驚いてしまう。以前にリカルドは、結婚する気がないと言っていたけれど、それはまさか、修道女が彼の恋の相手だからなのだろうか、と思ったのだ。 


「ああ、違うよ、アリアンナ。そういう話じゃなくて、その修道院には、リカルドの……ええと、身内がいる筈だからね」

「身内? ローレン侯爵の? それとも伯爵の?」

「侯爵の方だよ。侯爵の姉君で、お若い頃から虚弱で、結婚せずに、信仰の為に二十代から修道院に入られたと聞いている」

「そうなんですか。リカルドの伯母君なんですね。まあ、それなのに私ったら、おかしな風に言ってしまって本当に恥ずかしいわ……後で謝らなくては」

「いや、もうこの話は蒸し返さない方がいい」

「えっ?」

「ごめん、アリアンナ。これ以上はいまは言わない方がいいと思う。俺も全部聞いた訳じゃないし、あいつの個人的な問題だから。きみにも知らせたいと思えば、あいつは話すだろう」

「まあ……。わかりました」


 なんだかはっきりしない話だけれど、ユーグさまがその方がいい、と言うなら私の方からこれ以上聞きたいと思う事はない。

 本当は、おかしな話だとはわかっていたけれど。親戚の婦人にただ会う為に、しかも修道院にいる女性に会う為に、夜中にこっそりと出かけるなんて不自然だというくらいは。

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