第22話・王妃の警告

『アリアンナ……』


 とても聞き覚えのある、けれどももう聞きたくなかった声がした。

 これは、夢だ。私は眠っている、それがわかる。過去の夢ではない。きっとただの夢。それでもこの夢は不快だ。この声は聞きたくない。夢から、醒めたい……。


『待って! 目を開けないで、話を聞いて、おねがい。今しかないの』

『あなたの話など聞きたくないわ……イザベラ』

『一度きりなの。これは夢じゃないのよ。私、こっそり呪術師の力を借りたの。宝石と引き換えに、夢を渡って話が出来る薬を買ったの』


 私を裏切り、牢に繋がれた私を嘲り笑い罵った、かつての親友。私に約束されていた座を奪い取って王妃になった女、イザベラ。……もちろん、今ではそんな座は頼まれたってお断りだけれど。あの残酷なジュリアン王の妻だなんて。

 夢ではない? 呪術? 以前の私だったなら、そんな馬鹿げた事がある訳がない、ただの夢だと決めつけた事だろう。でも、今の私は、高度な呪術が常識では考えられないことを現実にすると知ったばかりだ。眠っているのに、こんな事まで考えに至るなんて妙な気もする。

 ただの夢かそうでないかは、目覚めた時にわかるだろう。でも……。


『仮にそれが本当だとしたら、あなたは私が生きていると王に告げる為にその薬を飲んだのね』


 イザベラの呼びかけに反応してしまった事で、オドマンを死なせて隠した真実――私が雪山から逃れて生きていること――が知られてしまった? でも、夢の中に強引に入り込んで来た者から逃げるなんて出来やしない。呪術のせいで私も死ぬことになる? 私がどこでどうしているか、までイザベラに知られてしまっただろうか? 目覚めたらもう一度あの呪術師を呼んで教えてもらった方がいい。敵に何もかも知られてしまったのなら、証拠のないうちに、今度こそ私はあの山に入ってひとりで死のう――。


『待って、違うわ! 私はこの事を王に告げる気はないわ。その逆……私は警告する為に危険を冒しているの。あなたの居る場所は危険。密告があったのよ! 今すぐ逃げないと、明日にもそこへ王の兵があなたを捕まえに行くかも知れない』

『警告ですって? 私を案じているなんて言うつもりじゃないでしょうね? あなたは私を裏切り、処罰を望んでいたんでしょう! 今更何をふざけた事を。私は、私の血塗れの髪をあなたに贈ったわ。あれじゃ、足りなかったのね? 欲しいのは私の首という事ね』

『アリアンナ、なんて恐ろしい事を。ああ、でも、私のした事を考えれば、そう思われても仕方がないわ。けど、私は悔いているのよ。あの時の私は、どうかしていたわ。許して、なんて言えないけれど……』

『許す訳ないわ。無実の父と私が味わった苦痛を、あなたも味わえばいい!』


 私は興奮してそう言ったけれど、すぐに、いま私が世話になっている人々の事を思い出す。


『許さないけれど……でも、もうどうしようもないわ。私はただ静かに隠れているしかない。あなたの大事な夫君に逆らう力なんてないもの。何を企んでいるのか知らないけれど、目障りだと言うなら私は死ぬから、私以外のひとを罰さないで欲しい。もしも、私たちの過去に、ひとかけらでも意味があるのなら、憎いあなたにそう頼みたい』

『大事な夫君、だなんて。あのひとがどんな人か、知るまでの短い期間しか、そう思えなかったわ』


 イザベラの声は自嘲を含んでいるようだった。夢の中で、だんだんとかつての友の姿が鮮明になってくる。別れてもうすぐ半年。でも、彼女は私が知っていた姿より随分と面窶れしていた。ふっくらとしたバラ色の頬が可愛らしかったのに、まるで寡婦のように萎れている。


『ジュリアンは、本当の姿を見せたのね』

『ええ。優しかったのは、婚約時代だけだった。あのひとは私が悲しむのを喜ぶのよ。昔から仕えて来た大切な侍女も、言いがかりのような理由で処刑された』

『そう。ありそうね、あの男なら』


 苦し気なイザベラの言葉だけど、しかし私にはそれでも彼女に同情する気は全く湧かない。処刑されたという侍女に対しては、イザベラなんかに仕えたばかりに気の毒に、とは思うけれど、私は侍女ではなく父を殺されたのだ。イザベラのせいではないけれど、イザベラの父親のせいではある。


『私が愚かだった。私は騙されていたの。ごめんなさい、アリアンナ』

『許さないと言っているでしょう。そんな事を言う為に高価な薬を使ったの? 時間の無駄だわ』

『ちがう、許されようとは思ってない。そこから逃げて欲しいの。あなたを死なせたくない』

『あなたの言うことなんて信じないわ』

『あなただけでなく、あなたを助けた人も心配なの。秘密を言うわ。私は……』


 秘密? イザベラに秘密があったって、それが私になんの関係があるというの。

 でも、そう思った時、イザベラの言葉は遮られた。


『イザベラ! なにをしている!』

『あっ、陛下』


 ぞっとした。紛れもなくそれは、憎い男、冷酷で残虐な王、かつての婚約者の声……。

 イザベラは泣き叫び、夢は間遠になってゆく。でも最後にイザベラは、


『お願い、逃げて』


 と言い残して、そして私は目を開けた。


―――


 夜明けが近づこうとしているようだった。窓の外はまだ薄暗い。

 シルヴァンのことばかり考えながら眠ったのに、どうしてイザベラとジュリアンの夢なんか見たのだろう。


『何もかも失った私がたったひとつ得たもの、失ったすべてより大事なあなた、私はあなたを愛してる!』


 私の告白にシルヴァンは、一瞬優しい貌になったように思う。

 呪術師が去り、リカルドも席を外してくれた後でかれは言った。


『さっきはありがとう。俺には愛というものはよくわからないが、俺を大事に思ってくれている、ということなのだろう?』

『そうよ。誰よりも大事に思っているわ。だから、あなたがいなくては私は幸せになんてなれない』

『アリアンナ』


 日差しが射しこまないようカーテンのひかれた部屋で、シルヴァンと私は向き合って立っていた。アイスブルーの瞳には確かに感情が宿っていると思うのに、私もシルヴァンもそれを言葉にすることが出来ない。


『俺はずっとおまえの傍にいることは出来ない。だが、おまえには幸せに生きて欲しい』

『無理よ……』

『俺の願いでも?』

『……』


 無理だ、と思った。だけど、かれの願いを拒絶することはできない。一緒にいて、と私の方こそ願いたいのに、言ってもかれを困らせるだけだ。いま、ここにいて私を見て私に語りかけてくれているのに、もうすぐ心臓まで凍っていのちを止めてしまうなんて。そうなったならば、私の願いは、それでも一緒にいて私も共に凍ってしまいたい、という事だけ。

 返事が出来ないでいると、扉が控えめに叩かれた。


『邪魔をして済まない……入ってもいいかな』


 どうぞと言うとリカルドがやや焦ったような顔つきで入って来た。


『もっとゆっくり時間をあげたかったんだけど、館から知らせが入って。レジーヌが来て、ユーグがいないと騒いでいるらしいんだ。早く戻らないと監視の者に気付かれてしまうかも知れない』


 こんな時まで邪魔をするなんて、とレジーヌに怒りを感じたけれどどうしようもない。


『わかったわ。でも、また近いうちに会えるわよね?』

『きっと、もう一度来る』


 シルヴァンは言った。私はかれを抱き締めたかったけれど、暫くふたりでいた事で、心とは裏腹に身体は凍えてうまく動かない。


『アリアンナ。俺も、おまえを愛している、と言いたかった。かつてはそう思っていたのを覚えている。だが、いまはその言葉に合う感情が探せない。しかし、おまえを何よりも大事に思い、おまえが幸せになってくれる事だけを望んでいることは間違いない』

『その言葉で、私はじゅうぶん幸せよ』


 誰かを何よりも大事に思い、その人の幸せだけを望む事、それは、愛ではないのだろうか。でも、シルヴァンの考えている愛は違うのだろうか。

 そうして、きっとまた会う事を約して、シルヴァンは館に帰って行った。


―――


「リカルド?」


 私はきちんと目が覚めると急いで着替えて朝陽が入り始めたダイニングに下りていった。リカルドは早起きなので大抵私より先にダイニングに来ている。

 イザベラの夢は、やはりただの夢なのかそうでないのかはっきりしない。リカルドに話して、昨日の呪術師をもう一度呼んで貰おうと思ったのだ。万が一本当ならば急がなければならない。念の為に一度別の場所に移った方がいいか――でも、それこそがイザベラの罠かも知れない……。

 だけど、ダイニングにはリカルドも使用人も誰もいなかった。そして、玄関の方がなんだか騒がしい。私は廊下へ戻ろうとした。


「アリアンナ!!」


 そこへ、リカルドが駆け寄って来た。


「どうしたの――」

「この館は王の命を受けた兵士に包囲されている。奴ら、きみがここに居ると確信している。誰かが密告したとしか思えない」


『明日にもそこへ王の兵があなたを捕まえに行くかも知れない』

『お願い、逃げて』


 あの警告は本物だった。そして、間に合わなかった――私は膝から崩れ落ちそうになる。


「ああ、ごめんなさい、リカルド! あなたまで罪びとに」

「覚悟の上だよ。護りたいって言っただろ。こっちへ来て」


 リカルドは私の手を引き地下へ下りていく。


「ここのワイン蔵から裏庭に抜けられる。逃げ切るのは難しいかも知れないけど、僕が奴らを足止めしてる間に行って」

「そんな! あなた捕まってしまうわ。せめて私を引き渡せば、死は免れるかも……」

「べつに死ぬことなんか怖くない。きみを護ると誓ったんだから、出来るだけの事はするさ。さあ、行って!」


 リカルドはそう言うと同時に私をワイン蔵に押し込み、何を言う間もなく重い扉を閉めた。外から鍵をかける音がして、それから遠ざかる足音が微かに聞こえた。私は真っ暗で黴臭い空間で、僅かの間扉に縋って啜り泣いた。

 でも、泣いていてもしかたがない。引き返せない以上、進まなくてはリカルドのしてくれたことが無駄になってしまう。前にもここには下りたことがあったので、裏庭に抜ける通路を手探りながらも歩く事は出来た。

 裏庭への出口は深い茂みの中にあって、知らない者にはわかりにくい筈だ。きっとリカルドは万が一の時はこう、と決めて私にワイン蔵を見せたのだなと今更に思う。

 淀んだ空気に噎せそうになりながらも私は必死に狭い通路を早足で進み、遂に裏庭への戸口に辿り着いた。

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