第23話・密告者
リカルドの館の裏庭は、そのまま林に続いている。包囲されていると言っていたので逃げ切れる可能性は低いのだろうけれど、私がここで捕まれば私だけでなくシルヴァンもリカルドもおしまいだ。いつかこうなってしまったら、という不安は常にあったのに、二人に甘えてしまっていた自分を呪いたくなる。
捕まれば、私は王都へ移送され、父のように公開処刑されてしまうだろう。追放刑という名の死刑を賜っていた私。王太子の命令で兵士が吹雪の山で私を樹に縛り付けたのだから、私は凍え死んでもそこを離れてはいけなかった。王太子――今は王となったジュリアンの命令に背いたのだから、楽には死なせてもらえないだろう……。
そして、私が生きていればラトゥーリエ公爵の責任を問うのが王の考えだ、とオドマンは言っていた。ジュリアンはかれを王都に召喚し、そこで取り調べを行って、前王陛下暗殺の罪を被せるつもりに違いない。だけど……シルヴァンのあの状態では、王都への旅に耐えられる筈がない。かれは死ぬ。私を館に置いていたリカルドも殺されるだろう。私たちは何も悪い事などしていないのに。
私は裏庭への扉をそうっと、ほんの僅か押してみた。心臓は早鐘のように打っている。そこに兵士たちがいたなら、最悪の想像が現実になる。
でも、薄い光の筋に目を慣らして外を窺っても、ひとの気配はない。まだこちらまで兵士は来ていないのだろうか。そうだとしてもそうでないとしても、ここで愚図愚図していては死が近づくだけだ。私は思い切って扉を開けた。新鮮な朝の風がワイン蔵に籠もっていた空気と入れ替わる。誰もいない。向こうに林が見える。私はもう何も考えられずに転がるように扉から出た。
走るのだ。林まで。とにかく私が身を隠せば、シルヴァンとリカルドが生き延びる可能性が広がる――。
「どこへ行くのよ。罪人」
一歩足を踏み出したその時。無情な声が静まり返った裏庭に響いた。私は驚いて小さく悲鳴を洩らした。
「レ、レジーヌ!!」
兵士ではなかった。扉の裏側に隠れるように立っていたのは、レジーヌだった。彼女は私を嫌っているけれど、シルヴァンの為にならない事はしない筈。私を助けに――?
「馬鹿ね。兵士じゃないから助かった、とでも思った? お生憎さま、すぐ向こうにいるわ。逃げるのは不可能よ。ちょっとだけ、話をさせて欲しいと頼んだの」
兵士に、頼んだ?
「昔はこの館にもよく遊びに来ていたから、あんたがここから出て来るのも予想出来ていたわ。だからこっちにも兵士を回して貰ったの」
「レジーヌ!」
息が苦しくなった。友人ではないけれど、敵だとは思っていなかった。
「あなたが、密告したの……」
「そうよ。その間抜け面も見納めだわ。せいせいするわ!」
リカルドの話では、レジーヌは私がシルヴァンの館からいなくなったのを、厄介者が出て行ってよかった、とだけ言っていたそうなのに!
「あんたはユーグに害しかもたらさない。あんたが来てからユーグはどんどん具合が悪くなって来たわ。元々、ユーグがおかしくなったのはあんたのせいだもの。あんたがいなくなればきっと良くなるわ! ユーグが私に怒ったってかまわない。私はユーグの為にあんたを売ったのよ!」
具合が悪くなったのは私が来たからじゃない。レジーヌは色々と誤解をしている。でも、一番まずいのは……。
「レジーヌ! 私が捕まれば、あのひとも罪に問われるのよ!」
「あんたを匿ってるのはリカルドじゃないの。ユーグは関係ない。私はあんたがユーグから離れるのをずっと待っていたのよ。いなくなったので多分ここだと思って通報したわ。ユーグの所だけでなく、ここにもずっと見張りがついていたって訳。そして昨日、ユーグがリカルドと出かけたので確信したのよ」
「リカルドだってあなたの幼馴染でしょ!」
「ユーグ以外はどうでもいい。ああ、可哀相なリカルド、あんたを匿ってあげたばかりに死ななきゃならない! でも、あんたとリカルドがいなくなれば、ユーグが頼れるのは私しかいない。きっと結局は素直に私の言う通りに私と結婚するわ」
レジーヌはぎらぎらした目で私を睨み、次いで愉快そうに笑う。私はぞっとした。彼女は憎しみではなく愛の為に、私とリカルドを死なせることを躊躇いもしない。でも、そのせいでシルヴァンまで……。
「聞いて、レジーヌ。王はとにかく私が生きているとわかればシルヴァンを罰するつもりなのよ! 王都へ連行されれば、あのひと死んでしまうわ!」
「ば、ばかなこと言わないでよ。そんな理屈がある訳ないじゃない。あんたを雪山で拾って情婦にして囲っていたのはリカルドよ。ユーグは何も知らない。兵士にそう話してあるわ」
「なんてひどい嘘を。でもとにかく、王は私を口実に邪魔なかれを消すつもりなのよ!」
「そ……んな。助かろうと思って出まかせを言ってるんだわ」
でも、本当かも知れない、と思ったのだろう。初めてレジーヌは動揺を見せ、顔色をなくして一歩下がった。
そこへ、兵士たちが現れた。
「もう、話は済んだでしょう。罪人を連れて行きます」
上官らしい兵士がレジーヌに言い、若い兵士が私の左右について腕を捉え、後ろ手に縛る。私は唇を噛んだ。もうおしまい。神さまの慈悲で与えられた半年の命はもう尽きる。
せめてそれなら以前のように、誇りを保たなければ。泣き騒いだりしない。本当は、巻き添えにしてしまった二人を思うと絶望に押し潰されそうだったけれど、私は顔を上げてレジーヌを見た。
「私の言ったことは本当よ。でももう取り返しはつかない。……さようなら」
「あんた……あんたは本当に死神だわ! あんたのせいでユーグはあんなふうになって、そして今度はまたあんたのせいで!」
「私のせい?」
「そうよ。まだ忘れたままなの? 本当に馬鹿ね。10年前、エトワールの別荘地に出かけたユーグは、瀕死の容体で帰って来た。ついて来たあんたの父親は言ったわ。『娘を庇ってユーグさまは大怪我をなさった』って! それから私の両親がユーグの面倒をみたけど、ユーグは口をきく事も起き上がる事も最初は出来なかったんだから! 何もかもあんたのせいなの。あんたと出会ったせいで、ユーグの人生は滅茶苦茶になったのよ!」
がつんと殴られたような痛みが頭に走った。今までにも何度か、何かを思い出しかけると頭痛がしたけれど、それを数倍にしたような痛み。
『ユーグさま! ああ、目を開けて! 誰かたすけて!』
そうだ、あの森の奥、赤い花の群生する泉のほとり。赤い花は、ユーグさまの血に染まり、毒々しい程に赤く咲き誇っていた……。その光景が、覚えていない筈なのに強烈なトラウマになって、私は赤が一切嫌いになったのだ。
思い出した。子どもだった私とユーグさま。優しかったラトゥーリエ公爵夫妻。夢のようなエトワールの夏の日々……。
『アリアンナ。ぜったい、護るから……』
ユーグさまはいつだって私に優しかった。赤い花を見に森へ連れて行って欲しいという私の願いを聞いてくれた。父は護衛の騎士を付けてくれたけれど、私は子どもっぽい悪戯心を起こしてユーグさまを唆して護衛の騎士を撒いたのだ。
9歳だった私は、単純に二人きりになりたいという幼い恋心を抱いてもいた。まだ王太子との婚約もなくて。公爵子息と侯爵令嬢がそんな事をしてはいけないという弁えはあった筈だけれど、自然で一杯の開放的な別荘地での避暑が私たちに羽目を外させた。
王都の貴族令嬢の間で憧れの的だったユーグさま。国王陛下の甥で公爵家の跡取り。柔らかな物腰と整った容姿の、理知的な公子。でも、ご両親が突然の事故で亡くなり、一年以上王都に姿を見せなくなって……あの夏、久しぶりにユーグさまは私の父の招待でエトワールを訪れた。ユーグさまを独占して私は浮かれていたのかも知れない。
そして、赤い花を見ていた時、私は賊に襲われたのだ。最初はユーグさまが目当てかと思ったけれど、男たちは私を押さえ付けた。それで、ユーグさまは落ちていた木の枝だけで大人の男たちに立ち向かい、一人を殴り倒したけれど、他の男に背後から斬られて……。
私がユーグさまと何度も泣き叫んだので、男たちはそこで初めて、自分たちが斬った少年が国王の甥だと気づいた。男たちは逃げてゆき、私は無傷だった……。
ああ、そうだ。私たちは雪山で初めて出会ったのではなかった。もっとずっと前から、私はかれに救われていたのだった。
「あんな目に遭っても、ユーグはあんたを庇い続けた。王太子殿下の婚約者候補に挙がったあんたの為に、自分に関する事は全て忘れさせた方がいいんだとあんたの父親に言い続けて。なんで、なんであんたばっかり! ユーグは私のものよ。あんたのせいでユーグが罪に問われるなんてとんでもないわ。なんでユーグを不幸にし続けるの?!」
「私は……」
レジーヌは身勝手だけれど、私がシルヴァンを――ユーグさまを不幸にしているのは本当だ。私と関わったばかりにかれは輝かしい将来を失ってしまった。氷結晶の呪いで王都に赴く事すら叶わなくなり、何年も領地に閉じこもっている間に皆は、冷血公爵の噂に印象を上書きされて、かつての魅力的な公子はすっかり変わってしまったのだと思って味方もいなくなってしまったのだ――。
兵士が私の縄を乱暴に引っ張る。館の表に連れ出された私は、玄関前に集められて震えあがっている館の者たちと、頭から血を流して倒れているリカルドを見た。
「リカルド!」
「王命を受けた兵士に逆らったんだもの、当然よ。あんたはリカルドの人生も滅茶滅茶にしたんだわ」
あなたのせいでしょうと言いたいけれど、でも私のせいである事も全く否定できない。
私は後ろ手に縛られたまま囚人移送用の馬車に押し込まれる。リカルドも引き起こされて縛られ、私の足元に投げ込まれた。彼は呻き声をあげる。生きている。でも、不名誉な死を与えられてしまう……。
「ユーグは私が守るんだから。さよなら」
馬車の扉がばたんと閉められ、すぐに動き出す。強がりを言っているレジーヌの顔は見えなかった。
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