第16話・陰謀と危機
冷酷な光を宿した目と薄笑いを浮かべた唇。
かつて私を無慈悲に、薄着一枚まで衣類を取り上げて縛り上げ、吹雪の中に置き去りにした男。オドマンは私にとってジュリアン王に次ぐ憎悪の対象だった。でも、山中のあの時は毅然と対応出来たのに、突然のことに私は慄き足がすくんでしまう。
それでもなんとか、
「やめて。私に触れないで!」
と、肩に置かれた男の手を振り払う事は出来た。
(そうだ、泣いたってどうしようもないのに私は何をしているの。逃げなければ)
泣いて情けを求めたところでこの男が見逃してくれる筈もない。私がこのまま捕まってしまえば、私は殺され、その上匿ってくれたシルヴァンにも罪が及んでしまう。逃げる事さえ出来れば、シルヴァンが私を助けた証拠はない。
「気の強さは相変わらずですか」
オドマンは撥ね付けた手を振って小馬鹿にしたように言う。
王都の牢で気を張って、家の誇りを汚さぬようにとばかり思いつめていた頃と比べれば、田舎の子どもと遊んでばかりで私はだいぶ弱くなってしまったように思う。でも、諦めてはいけない。だって今の私には、誇り以外にも護らなければならない大事なものができたから。
「おまえなんかに捕まりはしないわ」
館に逃げ込む訳にはいかない。林へ――何とか逃げ込んで夜闇に紛れて撒いてしまう事が出来たら。私は駆けだす為にじりじりと足を動かした。
「ほう、逃げる気ですか? 逃げ場などどこにもありはしない。ラトゥーリエ邸に逃げ込んだところで、公と共に捕縛するだけだ」
「ラトゥーリエ公は王の従兄なのよ。おまえなんかに手を出せる相手ではないでしょう。それに、公は私の顔を知っていた訳ではない。私は偽名を使ったの。それで、私をただの行き倒れた哀れな娘と思って拾ってくれただけ」
考えていなかった言葉がするすると出て来た。でも、悪くない。そう言い切って押し通してしまえば、シルヴァンが罪に問われる事はないのでは、と思った。
けれどもオドマンは私をせせら笑った。
「私はジュリアン陛下直々の命でここにいるのですよ。もしもアリアンナ・アンベールが生きていたなら、如何なる理由があろうとも、処刑地の領主であるラトゥーリエ公爵の責任を問い、王都へ連行するように、と」
「なんですって。私が生きているだけでラトゥーリエ公を罪に問うというの。王にはまだ子どももなく、弟王子も亡くなられて、公は第一王位継承権者だというのに……」
実際には、ジュリアンは若く健康で結婚して間もない。すぐに子が出来、継承権はその子達に移っていくだろう。王都でろくに顔も知られていないラトゥーリエ公が王位を継ぐ可能性は非常に低いと誰もが思っている筈。
第二王位継承権者は、先々代陛下の王女の長男であるローレン侯爵で、彼は王都に広い人脈を持っている。もし万が一ジュリアンが事故や病で不意の退位をする事になったりしたら、貴族たちは皆ローレン侯を支持して、人嫌いのラトゥーリエ公爵は王位を辞退する事になるだろう、だから立太子も先延ばしになっているのだ……とは、最近王都で言われている事だと、リカルドに聞いた。
それでも、王に一番近い血を持つのはシルヴァンであり、形の上では王家にとって重要な人物であることに変わりはない。なのに、止めを刺されずに放置された罪人が生きていたというだけで、連行だなんて……。
そう考えて、私ははっとする。
「まさか……」
オドマンは私の表情を見て満足そうに笑う。
「陛下は大変先見の明がおありの方……災いの芽は早めに摘み取るべきというお考えだ」
「最初から! これを見越して……?!」
「そうでなければ、あんな回りくどい処刑はしない。陛下は、公がアンベールの娘を救うよう、わざわざ貴女を置き去りにする場所を公に伝えさせたのです。そうして貴女はいま生きてラトゥーリエ邸にいる。即ち、先王陛下を暗殺したアンベール侯と最初からぐるで、命令通りに暗殺を果たした忠臣の娘を救った、ということ」
『ラトゥーリエ公爵が信頼する者。そして陛下の傍近くに行く事が出来てお茶に毒を入れる機会がある者。それこそが、貴女の父、アンベール候なのだよ』
『公爵は、国王暗殺との関わりを否定しただけだ。しかし、今はそれでいい。王位継承争いで王族が殺し合ったなど、他国への聞こえが悪過ぎるからな。今はあくまでアンベール候の暴発という形におさめるのが王国の為だ』
宰相の言葉が胸に甦る。
もちろん、今の私は、シルヴァンが先王陛下暗殺に関わったなどとは全く思っていない。でも、宰相はかれの罪を確信しているような言い方をした。その上で、『今は』それが明るみに出ない方がよい、と言ったのだ。あの時の『今』とは、陛下と第二王子の急死で宮廷が荒れて、王太子の即位を急ぎ、諸外国に対して一刻も早く盤石な次期体制が整っていると示さなければならなかった時。
けれどいまは、ジュリアン王は着実に力をつけ、不服従の者は次々に粛清し、表面上立派に宮廷をまとめていると聞く。数年はかかるだろうと言われていた事を半年足らずでやってのけたのだ。そうして、ようやく大きな邪魔者を粛清しようと動き出した……そういうこと。
ジュリアンにとって、王都に出向いて跪かない従兄が気に入る存在でないだろう事は想像出来ていた。でも、先王陛下が亡くなった時から既に、自分の立場を脅かす可能性のある者を排除しようと考えていた、とまでは思っていなかった。だけどあの時から、ジュリアンはいずれ国王暗殺の罪を従兄になすりつけるつもりだったのだ。だから手始めに、何故かしばしばラトゥーリエ公爵の元を訪れていたらしい父を生贄のように処刑台に送り込んだ。そうして、自分の地位が安定してから、黒幕として大物のラトゥーリエ公爵を断罪する……そういう計画だったのだ!
「先にここを訪れた時に、私は公に、万が一にも罪びとが逃れたりしてはいないか、貴女の年頃の娘がふらりと近辺に現れたなどという事はなかったか、と尋ねました。けれど公は知らないと仰った。そしてこの状況。言い逃れは出来ません」
「かれはただ私を憐れんだだけなのよ!」
でも、そんな言葉には意味がない事を私はわかってもいた。最初から仕組まれた事だったのだ、言い分が通る筈がない。ジュリアンも、ジュリアンの遣わしたこの男も、ラトゥーリエ公爵は無実と知りながらも罪を被せて私の父と同じように処刑台に送り、王にとって都合のいい人間を実子が生まれるまで王太子に置くつもりなのだ。
ああ。あの、陰謀なんかとはまるでかけ離れた場所にいる銀の妖精シルヴァン、身体も弱って、でもやっと笑顔を取り戻したかれを、私を助けたせいでそんな目に遭わせる訳には絶対いかない!
だけど、仮に私が今ここで命を絶ったとしたって結果は同じ事だろう。
私はぱっと身を翻した。逃げるのだ。私がここから消え失せる以外、災いを回避する手段はない。
「愚かなことを!」
距離が離れたと思ったのはほんの数瞬。男の足は速く、あっという間に私は背後から捕えられてしまう。ごつごつした腕に抱きすくめられて、私は夢中でもがいた。
「諦めなさい。貴女の命も身体も、私の手の中だ……黄金の薔薇」
「離してっ! なにをするの!」
オドマンは、私を引っ張って温室に入ろうとしている。そんな所に籠ってどうするのだろう。部下と落ち合う手筈でもあるのだろうか。
彼は有無を言わさず私を引きずり込み、温室の扉を閉めた。いつからでも使えるよう、温かい空気でいっぱいになっている。さっきは気にならなかったのに、むっとするような蒸気に噎せそうだった。
「しばしの時間がある。部下の手前、あの時は何も出来なかったが、いま、私は無力な貴女を腕に抱いている」
オドマンは私を地面に組み伏せてのしかかってきた。
「なにを……」
「言ったでしょう、私は貴女に懸想していたと。貴女はいずれ王都で斬首される身だが、連れ戻るまではその身は好きにしてよいと、ジュリアン陛下からお許しを頂いているのですよ」
男の手が、私のドレスの胸元を引き裂いた。荒い息が首筋にかかり、おぞましさに私は唾を吐きかけた。オドマンの意図がわかって、私は半狂乱になる。オドマンは唾を拭って私を平手打ちした。
「おとなしく、私のものになりなさい」
私は凌辱されてしまう? こんなろくでもない男に。温室の固い地面が背中を擦る。男の力はそれなりに強く、身動きは出来ない。
「いやぁっ! た、たすけてっ!!」
誇りを穢される恐怖に打ち震えたその時、不意に頭の中に、知らない男の声が響いた。
『傷物にしてしまえ』
『ご命令だ、ガキは趣味じゃないが、悪く思うな、お嬢さん』
だれ。
あれは、いつ、どこ……。
男の大きな手が、私を押さえ付けて……ああ、いまも……。
「いや! 助けて、助けて、ユーグさま!!」
喚いているのは、私……? いつ?
気が遠くなりそうななか、ばんと扉が開く音を聞いた。
「アリアンナ!!」
「ユーグさま……」
ああ。来てくれた。
……だめ、来ないで。
ふたつの思いが私の中で渦を巻く。
「きさまぁっ! アリアンナは俺のものだ! 汚い手をどけろ!」
「ラトゥーリエ公? 私は陛下の直々の……」
俺のもの? シルヴァン……なの? そう、私はあなたのもの……他の男のものにはならないわ。でも、そんな大きな声で……からだは、大丈夫なの?
「誰だろうと、アリアンナは俺が護る!!」
私の上に、温かい液体が降り注いだ。それは赤い……私の嫌いないろの……。
「大丈夫か、アリアンナ!」
「ユーグさま……」
力を失い、血を噴き出しながらオドマンの身体が私に被さってくる。
私の意識は遠くなっていった。
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