第17話・重なり合う

 ……私は、どうなってしまったんだろう。


 気が遠くなりながらも、自分が自分でないみたいな感覚を味わっていた。


『ユーグさま』


 と無意識に私は叫んでいた。シルヴァンのことをそんな風に呼んだ事はないのに。

 頭の中に響いた粗野な男の声はなに? とてつもなくいやな恐ろしいものが、それにまとわりついて、私の記憶に蓋をする。

 あれは、本当に過去に聞いた声なのだろうか。思い、出せない……。


「アリアンナ! 大丈夫か。頭を打ったのか?!」


 心配そうな声に、私はゆっくりと目を開けた。気を失っていたのはたぶん、ほんの少しの間だったろう。何故なら、傍らにうつ伏せた男の身体も流れ出した赤い血もまだ温かかったから。


「殺したの?」


 シルヴァンの問いには答えず、答えのわかっている質問をしてしまう。

 声に振り向いたオドマンに対し、シルヴァンの剣は正面から正確に心臓を貫いていた。男は、濁った目を驚いたように見開いたまま絶命していた。


「しかたがない。この男は、それだけの罪を犯している。無実のおまえを一度殺し、戻って来てまた殺そうとしていた」

「それはそうだわ。でも、この男は、王の直命を受けて来ていたのよ。それを殺して……いったいあなたはどうなるの」

「俺の事などどうでもいい。おまえを護るにはこの男の口を塞がねばならず、それにはこうするしかなかったんだから」


 温室の扉から月の光が射し、背後からかれを銀に染め上げる。でも、その身には赤い返り血が斑に散っている。


「おまえはもうここに居ない方がいい……。安全な新しい住まいは既に手配してあるから」

「! いや! 私、ここに居たい。まだ約束の半年は経ってないわ」

「もう、いいんだ。おまえの安全と幸福が何より大事だから。今まで、ありがとう」


 ここに居たいと我儘を言えば、かれの立場を更に危険にするだけだと解っていながらも、突然訪れようとしている別れに私は動揺していた。


「いまのあなたは、なんだか普通の人みたい。凍ってないわ。ああそうだ、きっと昼間のことが良かったのね。私、もっともっとあなたを笑わせたい!」

「ありがとう、アリアンナ。おまえの気持ちが、うれしい……」


 シルヴァンはそう言って自分の胸元を掴む。影になってその表情は見えない。でも、きっと、優しい顔をしているのではないだろうか。


「うれしい、んだな、俺は。もうそんな感情もなくしたと思っていたのに。おまえのおかげだ。やっぱり、おまえは俺の……」


 言いかけて、シルヴァンはふらつき、がくりと膝をついた。


「どうしたの、シルヴァン!」

「だいじょうぶ、だ」

「ユーグ!」


 驚いてシルヴァンの身体に取りすがった時、温室の入り口から声がして、リカルドが駆け込んで来た。


「リカルド! 私。ああ、どうしましょう、かれ、どうしたの」

「きみを探しに行ったまま中々戻って来ないと思ったら」


 リカルドは力を失いかけているシルヴァンを抱え起こした。その腕にべっとりと血がついたので、私は小さな悲鳴を上げた。それはオドマンの返り血なんかではなく、シルヴァンの背中から流れる血だったのだ。


「こんな暖かいところにいたから……すぐ運び出さないと」

「あっ」


 そうだった。暖かな部屋にいるとシルヴァンの体調は悪くなる。ましてやここは温室なのだった。でも、出血するなんてどうして? そう言えば、出会った時もそうだった。私が目覚めたら、暖かい部屋で傍にかれがいて……。


「なにもかも私のせいだわ。私を助けなければ何も起こらなかったのに」

「自分を責める必要も意味もないよ、アリアンナ。そうしたって何も変わらないし、これはぜんぶユーグの意志なんだから」

「そう、だ」


 リカルドに担がれながら、シルヴァンはゆっくりと目を開けた。


「リカルド、前から頼んでいた通りに、アリアンナを」

「――この館からは離れた方がいいだろう。だけど、遠くへ旅立つのは今は却って危険な気がする。当面、僕のところで匿おう」

「リカルド、あなた」

「以前からユーグに、きみの先々の事を頼まれてた。だけど、だけどまだだ。こんな事で二人がもう会えなくなるなんて、僕は……」


 リカルドは冷静を装っていたけれど、その声は震えている。


「こんな事を言う資格は僕にはないのだろうけれど……」

「どうしたの、リカルド?」

「なんでもない。オドマンの死体は僕が始末するよ。あの男は表向きは王都に帰った事になっている。この辺りに居た事は誰も知らないんだから、消息を絶ったところで、こちらは何も知らない事にしてしまえばいい」

「それで、大丈夫かしら……」

「勿論、王はこちらを疑うだろうし、別の人間が調べに来るだろう。だけどそうなるまでには日にちがある。きみは逃れて、こちらは準備をしておけばいいんだ」

「あなたは、どうしてそこまでしてくれるの? 王に背いてまで」

「……僕にもいろいろあるんだ。きみが恩に着る必要はない」


 彼がそれだけ答えた時、私たちは館に帰りついていた。

 意識を失っているシルヴァンはすぐに寝室に運ばれ、バロー医師が呼ばれた。

 隣室で、私とリカルドは医師の手当てが終わるのを待った。窓からは銀色の月の光が射しこむ。リカルドは時折、複雑な表情で私を見る。ふだん、明るく紳士的に振る舞っている彼にはあまり見た事のない貌だった。


「どうしたの? かれを心配してるの?」

「もちろんそうだけど……アリアンナ、きみが無事で本当によかった」

「ありがとう。あなたが来てくれなかったらもっと大変な事になっていたわ。私にはかれを運べないもの」

「そうだね。たまたま忘れ物を取りに訪れていてよかったよ。オドマン、きみに乱暴しようとしていたんだね。あんな卑劣なやつを重用するなんて、王陛下は本当に……。この国は、どうなってしまうんだろうね」


 なんだかリカルドは心ここにあらずといった風で、つかみどころがないように感じる。


「あの、無理に関わらないでいいのよ。今ならあなたは、もし色々明るみに出てしまったとしても、そう罪にならないと思うわ。でも、本当にオドマンの死体を隠して私を匿ったりしたら」

「別に僕は怖気づいてる訳じゃないよ。大丈夫。最初はユーグの頼みだったからだけど、今では、僕自身が、きみを護りたいと思っているよ。……今度こそ、そうすべきなんだ」


 どういう意味だろう? 今晩のリカルドは、いつもと少し雰囲気が違う。

 でも、それ以上話す前に、隣室の扉が開く音がした。私は慌てて部屋を飛び出した。治療を終えて出て来た医師の表情は、明るくない。シルヴァンは大丈夫よね、と思いつつも心臓が大きく波打った。


「あの、まさか命にかかわるようなことは」


 私は涙ぐみながら尋ねた。


「いまは大丈夫です。出血は止まりましたから」


 簡単な答えにほっとすると同時にまた不安が湧く。


「いまは、って……?」

「アリアンナ様。リカルド様」


 私たちを見つめる老医師の目には悲しみの色が浮かんでいる。


「おわかりかとは思いますが……ユーグさまの体力は日増しに衰えています。そうして、今日はこんな無茶を。何をなさったのかは聞きませんが、温室に居られたそうですね」

「私のせいなんです」


 思わず言っても無意味なことを口にしてしまう。


「まあ、それがなくても……言うなとユーグさまには言われていましたが、黙っていても良い事はないと思い、申しますが、ユーグさまがこの夏を越す事が出来るとは、私はあまり、思っていません……」

「そんな! うそ! 涼しくなったら、また出会った頃のようになるはずだわ!」

「……アリアンナ」

「リカルド! あなたも何か言ってよ! 先生は間違ってるって! そうでしょ、だって毎年暖かい季節は調子が悪くなるんだって言ってたもの! いつものことなんでしょ、これは!」


 けれど、私の儚い希望を吹き飛ばすかのように、リカルドは悲しい顔つきをしていた。


「ごめん、アリアンナ……最近のユーグの様子は、これまでとは違うよ。僕も気づいてた……あの病が、進行しているんだなって。ユーグもきっと気づいてるよ。だから僕にきみを頼むと……」

「もういいっ! リカルドのばかっ!」


 私は淑女らしからぬ八つ当たりをして、もう、二人には構わずノックもせずに病室に飛び込んだ。ぞくっとする冷気が室内を覆い、シルヴァンひとりが寝台に横たわっている。整った面はぴくりとも動かず、色彩の無い蝋人形のようだった。でも、薄い布団を掛けられた胸元は微かに上下していた。

 昼間の笑顔を思い出して、私の頬には涙が伝っていた。


「シルヴァン……うそよね。元気になるでしょう? だって、笑ったもの……うれしい、って言ったもの……」


 傍に近付いて、頬に触れると、手がかじかみそうに冷たい。それでも私は暫くそのままでいた。あまり温めると良くないかもと思って、指先を軽く、触れて。ほんとうは、この身体全体を温めてあげたいのに……それが、身体をわるくするだなんて、なんという酷い呪い……。


(呪い……)


 呪術なのだ、とバロー医師は言った。だったら、医学に頼らず、それを解くことは出来ないの? 術を施した呪術師ならば、どうにか出来るのでは?

 ――それでどうにかなるならば、とっくに父やシルヴァンはその手段を採っていただろう。しないのには、何か訳があるのだろう。それでも、その思い付きは、細い一筋の光明のようにも感じた。あとでリカルドに話してみよう。

 だけど今は、もう少し、シルヴァンの傍にいたい、と思った。

 私が触れても目を覚まさない。とても体力を消耗しているのだ。弱っていたのに、私の危機に駆けつけてくれた。剣なんか扱えないんだろうと思っていたのに、正確に迷いもなく、あのおぞましい男を倒してくれた。


『俺が命に代えても護るから』


 あの言葉は、本当に偽りでもなんでもない。二度も命を助けられた。最初の時は、吹雪のなかで、裸足の私を救いあげてくれて……。


(最初の時……?)


 その言葉に、私の頭はずきんと痛む。そうでなく、まだ、それ以前になにかあった? わからない、思い出せない。

 でも、いつでも私を助けてくれる。なのに、私に何一つ要求しない。ただ傍に居るだけでいいなんて。その小さな要求さえ、私の安全と幸福の為に取り消そうとするなんて。


「不器用なひと……」


 私は小さく笑う。その笑みを含んだ唇を、眠っているかれの唇にそっと運んだ。願わくは、これでかれの唇にもっと笑みが浮かびますように。


(愛しているの)


 そんな言葉が自然に胸の奥から湧きだした。そんな風に自覚した事もなかったのに、その感情は、ずっと前からあったみたいに、自然に私に溶けていった。

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