第18話・赤い花の少女の肖像

 窓から見る風景が違う。いつもの私の部屋からは美しい緑の山の眺めが広がっていたけれど、ここは以前の館からそう遠くはないのだけれど、部屋の向きが反対側で。

 それだけで私はなにか心もとなく感じてしまう。私は、ジュリアン王に目を付けられたシルヴァンの館から離れて、好意に甘える形でリカルドの所有する邸宅に匿われていた。


「ただいま、アリアンナ」

「ああ、リカルド。おかえりなさい。あのひと、大丈夫だった? 今日は起きれていた?」

「今日は割と涼しいし、普通に起きて少し仕事をしていたよ」


 気配を察知して玄関に出迎えた私に、リカルドは柔らかく笑って答えた。

 リカルドの邸宅は町はずれにあって、丘の上のラトゥーリエ公邸に比べればもちろんずっと小さいけれども、幾人もの使用人を揃えた立派な屋敷だった。私を連れてくるにあたって、秘密を護る為に必要最低限以外の人間は暫く暇を与えたというけれど、それでも十人くらいの召使や庭師などが残っていた。もちろん皆、私の素性は知らない。家を飛び出して来た友人の男爵令嬢、という事にしてあるけれど、皆当然のように私をリカルドの恋人と思っている。若干もやつくものの、安全の為には誤解をそのままにしておく方がいいことくらいは私も弁えている。何しろ私が捕まるような事があれば、私一人の問題ではなく、シルヴァンはもちろんリカルドの身も危うくなってしまう。

 シルヴァンには、どうしてか私を助けたいと願ってくれているという理由があるのは私にもわかる。でも、リカルドはそうではない。ただ、シルヴァンと私への友情から、露見すれば自分だけでなく家族にも累が及ぶかも知れないような危ない橋を渡ってくれているのだ――少なくとも、ここへ来た時点では私はそう思っていた。

 でも、リカルドの家族、って? 知り合ってから数か月経つけれど、私はリカルドの事をあまり知らないのに気づいていた。シルヴァンが全面的に彼を信頼しているので、私が詮索する事ではない、と無意識に思っていたようだ。リカルドは、時折王都へ情報集めにと言って半月程不在になったりするけれど、そうでない時はしょっちゅうシルヴァンの館に出入りして、シルヴァンの話し相手になって仕事を手伝ったり、私とお茶をしたり……。

 伯爵家の子息で、跡取りには兄がいて、自分は両親とは精神的に疎遠なのだ、とは聞いていた。だから、成人なのに家の手伝いさえせずに好き勝手にしているのは、家から期待されていない存在であるのかと勝手に想像していた。でも考えてみれば彼は宮廷にも出入りしているし国外留学までしている。その上、結婚もしていないのにこんな大きな邸宅を与えられている。第二王位継承権を持つローレン侯爵の分家筋といったって、伯爵家がどうでもいい次男坊にそんな贅沢をさせる程裕福なものだろうか?


「本当に、私を匿ってくれてありがとう。でも、万が一の時はここに居たとわからないようにすぐに出て行くわ。私が生きている事とあなたが関係があったと知られたら、あなただけでなくあなたのご家族にも申し訳が立たないもの」


 向かい合ってお茶をしながら私はそんな風に言ってみた。もちろん本心だけれど、彼の家族の事に関心はあった。疑う気持ちなどないけれど、今の私はリカルドに命を預けているようなものだ。

 そもそも本当は、誰にも迷惑をかけない為には、そっとここを出て行ってどこかでひとりで暮らす――それでもし捕まって処刑される事になっても私一人で済むのだし――という事を考えない訳ではなかった。だけど、そんな事をしたら、もう二度とシルヴァンに会う事は出来ないだろう、それにかれは私がそうなる事を決して喜ばないだろう――その思いが、私を引き留めていた。


「僕もきみやユーグと心中する覚悟は出来てるよ。きみを放り出すようなことはしないさ」


 リカルドは冗談のように流してしまおうとする。彼は本当に一人でオドマンの死体をどこかに埋めてしまったそうで、その時に、もう後戻りは出来ないからきっぱり覚悟がついた、とは言っていた。


「でも、あなたのご両親やお兄さまは……」


 と私は言ってみた。リカルドの顔が微かに曇った気がした。


「まあ……実際きみの逃亡に関わっているのは僕だけで彼らは何も知らないんだから、家が潰されるまでにはならないと思うよ。なにも僕が国王陛下を暗殺した訳でもないんだし」

「でも、ジュリアンは非情だわ」

「……どちらにせよ、きみは捕まる事はないよ。ユーグは、状況が落ち着いたらきみを国外へ逃す算段を立てているから」

「国外ですって?!」


 その言葉に驚いて、私はリカルドの事情を聞き出す事を忘れてしまう。


「そんなの、聞いてないわ。半年経ったら好きなところへ行けるようにしようとは言われたけれど、今はもう私はどこにも行く気はないわ。匿って貰う事でかれやあなたに危険が及びそうだと思ったら、出て行くだけ……でも、傍を離れる気はないわ!」

「アリアンナ、落ち着いて。今すぐ引き離そうという訳じゃないよ。いや、ユーグは早くきみを安全な土地へと望んでいたけど、でも、僕は二人の為にそれがいいとは思えなかったから」


 リカルドはふうっと溜息をつく。


「で、きみはいつからそんなにユーグの事を想うようになったの? 僕は気付かなかったな。ユーグが一方的に執着しているだけかと。それとも、なにか思い出したの?」

「いつからかなんてわからない……でも気が付いたの。いつもいつもあのひとは、私を護ってくれる。私、あのひとのためになんにもしていないのに」

「なんにもしてない事はないよ。きみの努力で、笑ったじゃないか」

「そんなのほんの手始めよ。もっと色々私がすれば、あのひとの身体はもっとよくなるんじゃないかと思った矢先にこんな事に。私、あのひとの傍を離れる訳にはいかない。あのひと、あのひと……」 


『ユーグさまがこの夏を越す事が出来るとは、私はあまり、思っていません……』


 バロー医師の言葉が胸に甦って私は涙ぐむ。そんなの、信じてはいないけれど、でも、私がいなくなってしまっては、また笑う事も忘れ、感情をなくして凍っていってしまうかも……。


「うん、きみの言う通りだと思うよ……ユーグを癒せるのはきみしかいない」


 物憂げな声でリカルドも同意する。癒すという言葉で私は、かれに呪術をかけた者を探し出せば、という微かな希望の事を思い出した。既にこの思い付きはリカルドに話してあったけれど、彼はあまり明るい顔にはならなかった。


『件の呪術師については、ユーグ自身は何も覚えていない、というんだよ。知っていたのは、きみの父上アンベール侯だけのようだ』

『どうして父は呪術師になんとかさせなかったのかしら……』

『手を打たなかったのは、それが出来ないか、しても意味がないか、なんだろう。侯は本当にユーグの事を案じておられたから、可能性があるなら手配なさらない訳がない』


 また、父、だ。過去を知ろうと思うといつも、亡くなった父が立ちはだかっているような気持ちになる。私への父の愛情を疑った事はない。処刑されるその時まで、ひたすら私を案じ続けてくれていた事をわかっているから。でも、どうして父は、私に何一つ教えてくれないまま逝ってしまったのか。


「とにかく私は外国になんか行かないから」

「まあ、今はここにいるのがいいと思うよ。下手に動く方が見つかる危険が高いからね」

「出来る事はないかしら。あの、呪術師のこと、何とかわからないものかしら……」

「せめて経緯位わかればなあ」


 そこで私はふと、先程のリカルドの言葉を思い返した。


「あなたさっき、『なにか思い出したのか』って言ったわね」

「えっ、言ったっけ」

「言ったわよ。あなたはシルヴァンの幼馴染で、私よりずっと過去の事を知っているけど、かれに口止めされているから教えてくれない、のだったわよね」

「ああ、うん、まあね。きみが知るべきでない、というユーグの気持ちはわかるし……。それに、僕だって知らない事もたくさんある。僕の想像できみを惑わしてもいけないし」

「でも、私が自分で思い出す事に対しては、助言してくれる?」

「うん――内容次第だけど」


 リカルドは私に過去の事を教えるのをまだ躊躇っているようだったけれど、私はこれを機に、訊こうかどうか迷っていた事をはっきり口にする事にした。


「以前、私が赤い花の事を尋ねたら、あなたはそらとぼけたわ」

「そうだっけ」

「そうよ。シルヴァンは出会った頃に私に赤い花を贈りたいようだったけれど、私は赤い花が嫌いだったので断った。でも何でかれが赤い花に拘るのか、私はその時から気になっていた。そして、レジーヌが意味ありげに、かれにはもう赤い花は要らないのだと言ってきて、私は、かれに大事にされる少女の夢を見た」

「……それで?」

「いまは、あの夢はただの夢ではなかった、と思うの。だって……私、見たの。かれの部屋で、赤い花の少女の肖像画を」


―――


 眠っているシルヴァンの枕元に付き添い、かれへの想いを自覚したあの晩。

 いつまでも寝顔を見ていたいけれども、身体の為には人の気配は消してゆっくり眠らせてあげた方がいい、と思い、私は寝台の傍を離れた。

 その時、窓の傍にあるかれの机の上にふと、私の視線は吸い寄せられた。額縁に入った小さな絵のようなものが、伏せて置かれていたのだ。


『毎年この季節に赤い花が咲けば、ユーグはそれを部屋に飾らせて肖像画を眺めていたわ。でも、今年は赤い花はいらないと言っている。なんで赤い花が大事だったのかわからないとも言ってるわ』


 レジーヌの言葉が胸に甦り、どきっとした。もしかして、赤い花の少女の肖像画?

 私は想像していた。今年は赤い花はいらない――その訳は、今年は赤い花や肖像画がなくても、私が傍にいるからでは……と。自惚れだろうか? でも、レジーヌの言葉を突き詰めて考えると、彼女は、シルヴァンは赤い花を忘れたからいつか私のことも忘れると言いたいようだった。夢を見たときは、赤い花の少女に苛立ちをおぼえたけれど、あれは、シルヴァンに大事にされている少女への嫉妬も混じっていたのかも知れない。そして、あんな鮮明な夢を見たのは、本当は想像なんかじゃなくて――とも。

 私は苦しい胸を押えて机に近付いた。それまで、かれが肖像画を眺めているところは見た事がなかった。でも、昼間の出来事で、何か思うことがあったのかも知れない。私が拒否したので、赤い花を忘れた? そして、笑顔を取り戻したことで、思い出した? それにしても、どうして私は色々なことを思い出せないのだろう? 大事なことが、自分の記憶なのかどうかもわからないなんて。そして、ここに来るまでずっと、自分の記憶がおかしいことにも気づかなかった。事件が起こらなければ、私は一生、ラトゥーリエ公爵、冷血公爵なんて関わりのないひと、と思って過ごしたのかも知れなかった。

 部屋の寒さも感じずに、私は思い切って伏せられた絵を手に取って見た。本当は、勝手に見るなんていけないことだという事くらい判っていたけれど、そんな事に構っていられない程私は焦っていた。過去が知りたい――そこに、未来の為のなにかがある。どうしてだか、シルヴァンが私に教えたくないのだとしても、私は知らなければならない。


「……ああ」


 赤い花に赤いドレス。金の髪の少女がそこで笑みを浮かべていた。私がよく知っている顔……。


『アリアンナ・アンベール 572年 エトワール別邸』


 10年前。国内有数の美しい風景で知られる別荘地。

 そこで何があったのかは、まだ思い出せない。でも、私は誰かの身代わりで大事にされたのではなかった。やはり、過去の私はユーグ・ラトゥーリエと関わりがあったのだ――。

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