第15話・楽しい一日と、その終わり

 ラトゥーリエ邸のホールでは今、シャモーヌ村から呼んだ小さな聖歌隊がうたっている。私が以前から教えていた聖歌を村の幼い子ども達は領主さまの為に一生懸命歌っている。この数年シルヴァンはあまり村へ自身で出かけていないので、小さな子たちは会うのも初めてだったそうだけど、村人は皆、ラトゥーリエ公爵を良いご領主だと子ども達に教えているので、皆あまり物怖じせずに、ご領主さまを喜ばせたいという気持ちに満ちていた。


「公爵さまの髪、とってもきれい!」

「本当にシルヴァンなんだ!」


 子どもたちは私が公爵を妖精の名でシルヴァンと呼ぶのを不思議に思っていたようだったけれど、実物を目にしてすっかり納得している。女の子たちは、見た事もない美しい貴族のかれを憧れの目で見つめていた。

 シルヴァンは今日は体調もよく、長椅子にかけて歌に聞き入っている。ホールは寒くなっているので、子ども達には風邪をひかせないよう外套を着せている。初夏なのに何故外套が要るのかと親たちが訝しんだけれど、余興で使うのだと誤魔化した。実際にとても寒かったよと子どもが報告したところで、その寒さは体験していなければぴんとは来ないだろう。


「公爵さま。お花をどうぞ!」




 二人の少女が、村で摘んで来た可愛らしい花束を差し出した。シルヴァンは礼を言ってそれを受け取る。


「川辺に咲いていた花だな。あそこでよく泳いだものだ」


 と黄色い花を眺めながらシルヴァンは呟いた。


「そうだよ、懐かしいな。魚釣りもしたよな」


 リカルドが陽気に声をかけた。シルヴァンは頷く。


「ああ。おまえは釣りが下手だったが」

「下手とはなんだよ。泳ぎは僕の方がうまかった」

「それはないな。おまえが一度、水浴びに向かう娘に見惚れて、溺れかかったところを俺が助けてやった」

「なんでそんな事は覚えてるんだよ!」


 こんな軽口を叩いているのを見るのは初めてだった。リカルドは笑っているけれど、シルヴァンの陶器のような顔に笑みはまだ見られない。それでも、いつもとは何かが違うと感じた。


 やがてお昼になり、子どもたちと一緒に庭でお茶会を楽しむ事になった。子どもたちが喜びそうなふわふわのパンケーキやミートパイ、お菓子に皆は歓声をあげる。


「ありがとうございます、アンナさま」


 と子どもが私にお礼を言うので、私は、


「公爵さまのおかげなのよ」


 と答える。本当は私とリカルドで企画したのだけれど、そもそもシルヴァンを楽しませる為の会なのだから。


「ありがとうございます、公爵さま」

「ああ。たくさん食べるといい」

「公爵さまは食べないのですか?」

「俺はあまり食欲がない。だが、そうだな、そこのコールドビーフを一切れもらおうか」


 私がお皿にとって渡すと、シルヴァンは子ども達が賑やかに食べているのを眺めながら、ゆっくりと肉を口に運んでいる。最近あまりちゃんとした食事をとっているところも見なかったので私は嬉しくなる。空は晴れ渡っているけれど暑くはない。この計画を実行してよかった。


「あのう、公爵さま」

「なんだ?」


 一人の女の子が、おずおずとシルヴァンに話しかける。

 そもそも、村人なんかを呼んで公爵殿下と食事会でまともに話をさせる、なんて、王都の価値観ではまず考えられない事で、レジーヌ辺りがここにいたらきっと子どもを叱りつけただろう。私だって、ここで暮らし始めるまで、自分が村人と仲良くなる、だなんて想像した事もなかった。

 父が比較的自由な考えの持ち主で、貴族と平民とは、生まれ持った役割が違うだけで、同じ命を持った人間なのだと教えられて育ったので、見下すような気持ちは持っていなかった。けれど、王妃となる私にとって民とは、その生活を護ってあげるべき存在、という概念の塊に過ぎず、その個々と直に関わる事になろうとは思っていなかった。でも今、彼らを一人一人知ると、行動原理は単純だけれど私たちと同じように喜び、悲しみ、他人と繋がって生きている同じ人間なのだとわかる事が出来た。

 それはともかく、シルヴァンもまた、王族のひとり、公爵殿下でありながら、村人の子どもが話しかけてくることにまったく頓着はしていない。


「あのう、このパイを少し残して、持って帰ってもいいでしょうか?」

「それはかまわないが、おまえはもう満腹なのか?」

「いいえ……あ、いえ、もうおなかいっぱいです!」

「ニア、あなたあまり食べていないわ。妹に持って帰りたいのでしょう? お土産は別に用意させるから、たくさん食べなさい」


 この子には、病弱な妹がいた筈だ。私が察してそう言うと、顔がぱあっと明るくなった。


「ありがとうございます、アンナさま、公爵さま!」


 深々と頭を下げてテーブルに戻っていく少女の背を見送りながら、私はシルヴァンに、両親を事故で亡くして叔父夫妻の家で暮らしている姉妹の事情を説明した。


「親が死んで、叔父夫妻に」


 何故かシルヴァンはその話に思ったより興味を見せた。


「それは……知らなかった。あの子どもと妹は、辛い仕打ちを受けたりしていないか?」

「え? いえ、あの夫妻は子どもがいなかったし、とても善良な人達よ。姉妹を可愛がっているわ。でも、やっぱりあの子にしてみれば、実の親ではないから、おやつをねだったりすることはしにくいのでしょう。いつも、いじらしいくらいに妹の世話をして、家の手伝いをしているわ」

「そうか……養い親は良い人物なのか」


 そういえば、と私は思い出す。シルヴァンの両親が亡くなった時、かれはまだ成人ではなかった筈。以前かれのいとこのレジーヌが、自分の親が面倒を見ていた、というような事を偉そうに言っていたことがあった。シルヴァンがレジーヌに怒ったので、詳しい事を聞けないままだったけれど、先日リカルドが、レジーヌの両親とシルヴァンの間柄が良くないという事を口にしていた。


「シルヴァン、あなたは叔父さまと不仲なの?」


 私は思い切って率直に尋ねた。折角気分が良さそうなのに、と口にしてしまってからすぐに後悔したのだけれど。


「アリアンナ、その話は後で僕が……」


 と傍らのリカルドが案の定若干慌てたように口を挟んだけれど、シルヴァンは彼を制して、


「べつに避ける話じゃない。アリアンナの過去には関係ないし、将来の為に警戒しておくべきだろう。アリアンナ、レジーヌは不快なだけで裏表はないが、その親には、もしも会う機会があれば用心する事だ。頭のいい人物ではない、が、ただ欲の為に直線的に動くからな」


 シルヴァンが他人の事をここまで悪しざまに言うのは初めてだった。


「ごめんなさい。いま、話題にする事ではなかったわね」

「いや、いいんだ。あの子どもの養い親は、いい人間だ、とおまえは教えてくれた。それで、俺は、なんだか嬉しいんだ……」

「公爵さま!」


 この時、最年長の少年が駆け寄って来た。食事は終わったようだった。


「公爵さまのためにみんなで踊ります!」


 そう言うと、子ども達は輪になって、ひとりが笛で伴奏をして、豊作の祭りの踊りを始めた。もちろん、拙く素朴な踊りだ。けれども、この半日を子どもたちも楽しく過ごし、その感謝を伝えたい、という気持ちが伝わってくる。


「懐かしい。子どもの頃、こっそり混じって踊ったの、覚えてるか?」

「ああ……いま、思い出した……」


 リカルドの言葉に、シルヴァンは答えて、静かに目を瞑る。

 ――。


「公爵さまも、一緒に踊りましょうよ!」

「え」


 目を瞑って壊れ物の人形みたいに見えたシルヴァンの手を、走って来た幼い子は遠慮もなく引っ張った。今日の時間ですっかり、領主さまを、怖い人ではないと思って懐いたようだった。小さい子どもに強引に手を引かれ、シルヴァンは椅子から立ち上がる。


「おいおい、大丈夫か?」


 さすがにリカルドも慌てた声を出したけれど、


「いい、怖がらせるな」


 とシルヴァンは友人に言って、そのまま踊りの輪に連れていかれる。


「俺の手は冷たくないか?」


 シルヴァンは女の子に尋ねたけれど、子どもはにっこり笑って、


「踊って暑いから気持ちいい!」


 と答えた。


「さあ、銀の妖精さん、一緒に踊ってください!」

「――ああ」


 子ども達に導かれて、シルヴァンはぎこちなく振付を真似て手足を動かしている。きっと、子ども達の善意を傷つけたくない、という一心で。


「……見て、リカルド。あのひと、笑っているわ」

「……ああ」


 陽光の下、弾けるような子どもたちの笑いに包まれて、たしかに、その動きに乏しい唇には、笑みがあった。

 柔らかな風が、銀の髪を梳くようになぶる。


「アリアンナ、きみは不思議なひとだな。僕らが何年もかかって出来なかったことを……」

「私の力じゃないわよ。子どもたちよ。それに、あなたが手を貸してくれなかったら出来なかったわ」

「きみが思いつかなければ、絶対出来なかったよ」


 お互いに手柄を譲り合って、その事に気付いて、私とリカルドも顔を見合わせて笑った。ここに来て、最も幸せを感じた午後だった。


―――


 夕刻。


 庭師の手で整備が進んでいる温室を、ふと思い立って私は見に行った。歌や踊りの力も大きかったけれど、花束もシルヴァンの心を動かしていた様子だったから、やっぱり早く温室を整えて色んな花を揃えたい、と私の心は急いていたのだ。


「ああ、だいぶ綺麗になって。これなら、来週苗が届けばすぐ始められるわね!」


 植物の世話に私自身は詳しくないけれど、老庭師は元々この温室に情熱を注いだ時期があったらしくて、非常に協力的だ。ここに、いままでこの北部に自生しなかった色とりどりの花が咲けば、きっとシルヴァンはもっともっと明るくなるだろう……そう思うと、私の心は弾んだ。


「ああ、暗くなってきた。早く館に戻らなきゃ……」


 一通り点検し終わったら辺りはすっかり暗くなっていた。ひとりごちて温室から出た、その時だった。


「いいえ、戻る必要はありませんよ」


 暗がりの中から、男の低い声がして、その声は、私の心臓を鷲掴みにした。息が出来ない程苦しくなり、体中が心臓になったみたいに、胸がばくばくいう音が頭から足先まで響くように感じた。その足も、がくがく震えて、崩れ折れそうだった――すぐに動いて、館に駆け戻ってもらわなければならないのに!


「やはり、こちらでしたね、アリアンナ嬢」


 かさり、と落ち葉を踏みながら、ゆっくりと男の影が、照り始めた月によって浮かび上がらせられた。


「なぜ、なぜここに! とっくに、王都に帰ったはず!」

「そう見せかけて、待っていたのですよ、こういう機会を。さあ、夢の時間は終わりですよ。ジュリアン陛下が貴女を呼んでいらっしゃいます」

「私はなにもしてないし、なにもしない! ただ、ここに居たいだけなのに、どうして」


 泣き叫ぶ私に、男はゆっくりと近付いた。


「貴女はもう死んでいるのだから、死ぬより辛い目に遭うことだって、なんともないでしょう?」


 無慈悲な言葉を吐き――木陰から歩み出て来たオドマンは、私の肩に手をかけた。

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