第14話・悪役令嬢は冷血公爵を笑わせたい

 バロー医師は三日に一度はシルヴァンの為に往診に来てくれる。

 これは本人の希望ではなく、かれをいつも心配しているレジーヌとリカルドが頼んでいることらしい。医師の方でも、隠居してシャモーヌ村の邸宅で暮らし、ラトゥーリエ家には物資や人手などの面で世話になっているそうで、几帳面に決まった時間に必ず足を運んでくれる。


「恩義を感じているのは勿論ですが、それ以上に、私自身がユーグさまからあまり目を離したくないのですよ。お小さい頃からの主治医ですから」


 と医師は言う。医師という職業に忠実な雰囲気を纏った穏やかで知的な老紳士で、一歩引いた態度でありながらも、幼少の時から接してきたシルヴァンの事を今では息子のように大事に思っていると伝わってくる。

 なのに、シルヴァンのほうでは往診をよろこばない。別に変わりはないと言って、最近ではあまり話そうともしない。


「診てもらったところでなにか変わる訳でもない。互いに時間の無駄だろう」


 冷たい言葉に医師はすこし寂しげな微笑を浮かべて、


「私の時間など……私にとっては、老い先短い時間をすべてユーグさまに差し上げられるものならば、そうしたいくらいなのですが」

「出来もしないことを言ってもしかたがない」

「そうですな……しかしほんの僅かなお時間を頂いてユーグさまが少しでも快適に過ごせるように計らうことをお許し下されば」

「うん……」


 医師の願いにシルヴァンは横になったまま少し微妙な惑いを見せて、


「そうだな、ありがとうと言わなければならないのに、済まない」


 と言った。


「礼などとんでもありません。ではまた三日後に」


 そう言って医師は帰って行った。


「……アリアンナ」


 シルヴァンは部屋に一緒にいる私を小声で呼び、右手で顔を覆った。


「どうしたの、シルヴァン。どこか痛いの?」

「いや」


 かれの居室はいつも冬のように冷たい。私は外套を着たまま寝台の上のかれに近付いた。今日は調子が悪そうだった。


「なんであんな事を言ってしまったんだろう。バロー先生は長年なんの見返りも求めずに俺の面倒を見てくれているのに」

「体調が悪いと、つい苛々して心にもない言葉を相手に浴びせてしまうってことはあるわ」

「苛々……いや、そんなことはない……」


 シルヴァンは微かに溜息をついた。


「最近は怒りだとか不快だとか、そういったことで気持ちが動く事は滅多にない。苛々……とは、そういう感情だろう?」

「? ええ、まあそうじゃないかしら」

「前に言ったろう。俺は前より何も感じなくなっていると。前は、バロー先生ともっと色々な話をした。先生は物知りだし、いまも時々遠くから昔の患者が訪れて来るそうなので、新しい情報も持っている。俺は遠出が出来ない分、そういう話を聞くのが楽しみだった。楽しみだった……筈だ。でも今は、そういう事もあまり聞きたいとは思わなくなってきた。俺が知りたいのは、ただ、おまえの安全に関する情報だけだ。そういう事に関する判断力だけはまだ衰えていないと思っている」


 『まだ』という言葉に私は胸が締め付けられる。いまは、まだ。だったら、いつかもっとかれは衰えてしまうのだろうか? 弱気な言葉を口にする、彫刻のように整った貌を見つめていると、こちらまで不安になってくる。

 私の心に、ずっと蓋をして隠して来た恐怖がじわりと広がって来た。


(まさか……だんだん弱っていって、いなくなってしまったり、しないわよね……?)


 半年傍に居て欲しい、と出会った時にかれは言った。その時は、取りあえずの期限を言っただけだと思ったし、館の暮らしに慣れて来てからは、どこに行く当てもないし、かれがここに居させてくれるのならばいつまででも私はここに居るだろうと思っていた。

 でも……あれから四月ほどの間に、かれは出会った時よりずっと寝付くことが多くなってしまった。


(半年と言ったのは……まさか、余命……?)


「アリアンナ? どうしたんだ。寒いのか」


 私が黙り込んだので、シルヴァンはやや訝し気に私を見上げている。


「いいえ、ごめんなさい、なんでもないの。それで、バロー先生がどうしたの?」

「感情が鈍り、相手の気持ちを考える事が出来なくなってきている気がする。俺の周囲の人間は皆俺に甘いから、俺が不快な思いをさせても文句を言わないしな。でも俺は怖いんだ。そのうち、おまえの事も思いやれなくなったら、と。俺は何がどう変わっても、おまえだけは大事にしたい。この気持ちだけはさいごまで持っていたいんだ」

「シルヴァン」


 どうしてこの人はこんなに私に優しいのだろう。赤い花の少女? いや、過去がどうだろうと今、アイスブルーの瞳は私だけに向けられている。

 どうしてこんなに優しい人が、こんなに苦しめられるのだろう。苦しそうには見えないけれど、かれはとても傷つき、苦しんでいる。私にはわかる。


「だいじょうぶよ。私がずっとずっと傍にいるから。前にも言ったじゃない。傍に居れば今の気持ちを忘れたりしないわ」

「おまえは優しいな……」


 駄目だと思ったのに、思わず涙が一粒零れ落ちた。どうして、私の心はこんなに弱くなってしまったのだろう。明日をも知れぬ身で牢屋に繋がれていた時でも泣かなかったのに。

 風変わりだけれど不器用に私を大切にしてくれる公爵と四か月を暮らして、王太子の婚約者としてアンベールの娘として、矜持を保つ事だけに張り詰めて生きて来た私は、ただの娘になってしまったのかも知れない。「アリアンナ」と、亡き父と同じ響きで私を呼ぶ銀の髪の男性と過ごす毎日だけが、いまの私の宝。身代わりでもなんでもいい。このひとの傍にずっといたい……。


「私、あなたの笑顔が見たいわ」

「アリアンナ……おまえの望みなら何でも叶えてやりたいが、それは無理だ。俺はもう何年も笑ったことなどない。どうやって笑うのか、忘れてしまった」

「いいえ、きっと出来るわ。あなたの感情は、殆ど凍っているのかも知れないけれど、なくなった訳じゃないと思うの。だからそれを溶かすことが出来れば、治るかも知れないわ。そうしたらきっと身体もよくなるんじゃないかしら? もちろん身体のことなんてバロー先生にもわからないことが私にわかる訳ないけれど、でも、出来るかも知れないことはやってみましょうよ!」


 感情が凍っている? 自分で言い出しておきながら、どうしてそんな事を思いついたのか、よくわからなかった。でも言葉にすると今の状態にぴったり合っているようにも思える。思い返せばかれの具合が悪くなったのは、忘れるのが怖いと言い出した時からだった。記憶や気持ちを失う事と体調が繋がっているのならば、気持ちが戻れば身体も良くなってくれるかも知れない。『冷血病』は病気ではなく呪術の結果らしいのだから、常識で考えてはいけない。


―――


 それから数日間、私はリカルドに相談して色んな案を練った。リカルドは私の考えに賛成してくれた。


「随分前には、僕もユーグが以前のように朗らかになったら、身体の調子も戻るんじゃないかと考えた事があったよ。だけど、僕じゃ駄目だった。以前だったら腹を抱えて笑ったような話もあいつを笑わせる事は出来なかったんだ。思えばあの頃は色んな事が重なってて、そもそも笑ったりする気分じゃないだろうと遠慮する気持ちもあったしな。でも、今なら、きみなら、もしかしたら出来るかも」

「かれと幼馴染のあなたが出来なかったと言われると自信がなくなって来るわ……」

「いいや、ユーグにとって、きみは全てなんだよ。きみ自身が辛い経験をして今も心配事があって、笑おうなんて思えないかも知れないところを、ユーグの為に一生懸命考えてくれている。感謝しているよ。ユーグを救える者がいるとしたら、きみだよ」


 リカルドの明るい色の瞳が私をじっと見つめる。


「感謝なんて。でも前から思っていたけれど、あなたはどうしてそんなにかれの為に一生懸命なの? いくら親友と言ったって、ふつうそこまでは思わなくないかしら?」


 親友。私にもかつて親友がいた。死を待つ私を罵り嘲ったイザベラ……王妃。今は憎みあって。オドマンが持ち帰った私の髪を見て、彼女は何を思ったのだろう。

 姉妹のように親しくしていた時に、彼女がおかしな病気に罹ったりしたら、私はひどく心配しただろう。でも、リカルドは心配するだけじゃない。自分の時間の多くをシルヴァンの為に使っているように見える。留学したのも、シルヴァンの病気を治す術を調べる為だと聞いたし、王都へ出向くのもかれの為に情報収集する目的だという。シルヴァンの執事もリカルドを信頼しきって、色んな事を相談しているらしい。友人というより兄弟みたいだ。

 私がそれを言うと彼は苦笑して、


「僕はユーグに返しきれない借りがあるし、おまけにユーグが一番苦しんでいた時になんの力にもなれなかった。だから、これくらい当然だと思っているし、元の身体に戻す方法があるなら何でもしたいと思っているんだ」


 と答えた。複雑な事情があるのかも知れない。そう言えば、以前レジーヌはリカルドの生まれを侮辱するようなことを言っていた。リカルドはローレン伯爵家の子息で、レジーヌの父親も伯爵……なのにあれはどういう理由だったのだろう?


「それで、アリアンナ。どうやってユーグを笑わせる? 侯爵令嬢のきみが、面白い芸なんて出来ないだろうし?」

「まあ、リカルドったら!」


 彼の言葉に私は笑ってしまった。私が笑ったってしかたがないのだけれど。


「面白い芸だとか笑い話なんて私考えてないわ。私は、笑いというのは、心が温まれば自然に出て来ると思っているわ」

「えぇと……今、温まった?」

「……。とにかく、こう引き籠って決まった人間にしか会わないという状況では何も変わらないと思うの。もちろん、今のかれを誰にでも会わせる訳にはいかないけれども、幼い子どもたちならどうかしら? それから、かれは花が好きよね。庭園の奥に、使われていない温室があるじゃない。私、あそこを手入れして、花の苗を取り寄せようと思うの。綺麗なものや愛らしいものに触れれば、心は温まるかも知れないと思うの」

「なるほど。うん、やってみる価値はあるな」


 リカルドが賛同してくれたので、私は張り切った。私はシルヴァンが笑えるように明るい気持ちでいよう。ずっと世話になってばかりだったけれど、私もかれの役に立てるかも知れないという前向きな気持ちでいよう、と心を決めた。

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