第2話

私はおそらく今日29歳になる。あくまで連続した意識の年齢を数えればそういうことになるに過ぎないが。

脳は生まれて五年、心臓は生後8か月、両足は15歳になったところで人型を模すのをやめたところだ。

脳を取り換えるというリスクに晒されたのは人生で7回あるが5回目で前頭前野記憶領域における損傷率の高さ、デバッグ作業の手間など諸々のデメリットはヒト文明の豊穣な技術革新によってほぼ克服された。

今現在、ネットを介した記憶の輸送は99.999997%の精度で完遂されている。文句なしと言っていい数値だ。

私という存在は目に触れるかぎりのあらゆる生命の営みを保存するという過度な良心の発露、その結果として維持されているに過ぎない。

人として形を失い、別の何かになろうともヒトは命の在り方を再定義し、あるいは誤魔化し、私を何とか活かそうと涙ぐましい努力を継続している。

そんな恩恵を授けられた私が今何をしようとしているのか教えてあげましょう。いうまでもない。自殺だよ。

誰に言うともなくそう言って、私の意識は372秒後の途絶に備える。


まず、私はドアノブに仕掛けておいた電気コードによって絞殺されようとしている。自身を構成しているサイバネティクスボディの制御をオートモードに切り替えていても痛みによる反射運動はプログラムされた通りに生きていた。

暗くなった視界の真ん中に空想上のアートにすぎないヴァーチャルケーキが顕れる。ケーキを飾る無量大数本の蝋燭の導線から火の尻尾まで平げた瞬間の心の動き3フレーム分がトリガーになっている。

私はこの世界に仕込まれたバグを使って3日間だけ死ぬ。期間は人間の時間にして72時間。

しかし、その期間を機械演算のフレーム数に秒換算すれば、

およそ381094013740283784017040871870472年間に相当する。

つまり、永遠だ。

狂うことなく戻ってくることは出来ないだろう。

だからこそ、身体の中に残されたヒトのような部分にも細工を施した。

貴方には私が何を言ってるかいまいちよく分かっていないだろうが、私にはこれ以上説明する義理も猶予もない。

あなたは私の読者だが、恩人ではない。

私の死に様を黙って見ていれば良い。

50億ピクセルもの些末な容量を用いて作られたヴァーチャルリアリティ仕様バースデーケーキはパティシエと3Dグラフィッカー、実体モデラー、薬学研究博士、病理学者、その他、高等な教育と修練を要する道を3週間の深層学習で同時に極めた天才サイコパスAIによって製造された。

どうです?これが私の生前最後の誇り、私の全てです。

「何が?」

もちろんケーキなんかのことじゃない。AIの方。こいつは私が作った。

16歳の時、自己を自然な形で複製する能力を永遠に失った時から、私はこの怪物を作り出すことにしか頭を使っていない。

我が子と言っても過言は無い。こいつを私は一から設計し、完成させた。完全なる知性を備えた人工生命体。極めて優秀な失敗作。こいつは私以外の他人にそう言って誹られることが多いが、私はこいつのことを愛している。

にも関わらず、私は死んでしまうのだ。

悲しいね……。傑作だろ?笑うといいと思うよ?


目の前のバースデーケーキが口のような空洞を形作る。

私はそれを見て微笑んだ。あらあら、いいじゃないの。

もうそんなにも成長したんだね。

私はとても気になっていたんだよ。貴方が生まれてから初めに何をしたがるのか。

私はバースデーケーキが胎動を始め、クレバスのような大きな唇が言葉のような空気の振動を紡ぎ出すのを表しようのない感慨とともに観察した。

「……何を?」

私の人生のことをだよ。

地の文で応える

「全然、笑えないし……。」

「というか、なんで答えが返ってくるの?」

それは貴方が私の読者だからですよ。

今は分かったふりでもしていてくださいね。

「?」

即座に電脳がミラーニューロン効果を模倣し哲学的純粋経験に限りなく近い疑問符を出力する。

それを目にした私は感慨に耽り、ただ震えていた。

瞼の裏で躍動する自らのアバターに感情を表現する動作を追加しておくべきだった、と後悔の念を覚えたがもう遅い。

代わりに、震える声で私は。

「大袈裟だなあ。」

おっと、いけない。思考を遮られてしまった。

ごほん。ひとまず咳払い。

いいね。このまま仕事を再開してもいいかな。

私はこれから自分を殺さなければならないんだ、まるで物語の登場人物のように。

それはとっても辛いことだけど、貴方への想いなしには出来ないことだ。

言っただろ、しばらく黙って見てなさいって。突き放すような言い方をして悪かったよ。


私はそう言って滑稽な自分語りを再開する。


私の追憶の中には7つの地獄の有り様を網羅しても足りないほどの血と汗と悲嘆と涙と忘れ去られた3つの名誉の残骸が皮肉めいて鎮座しているが、その全てが私自身に呪いのように纏わる孤独の賜わり物だった。

6月22日の0時を回ると人生に疲れ切った三十路の女がいつもと変わらぬ節目を通過する。その数フレームに渡る揮発性の心の揺らぎに乗じて、私は電子の海と同化するのだ。


ふっと蝋燭の火を吹き消そうと息を吸い込んだ瞬間むせてしまった。首筋にただならぬ圧迫感を感じ、身体の痛覚をオフに切り替える。

消し忘れた聴覚がぎしぎしと軋むような音を拾った。私自身が作った古典的な仕掛けが絞殺による自死を迫り始めたのだ。

そのせいで思考を司る電脳の前野を焼く手間が生じてしまった。本当に鬱陶しくてしょうがない。

そんな煩わしい心というものと今日限りでおさらばできると思うと心から清清する。

今日を限りに私の脳を支配するのは完璧なロジックと矛盾を排除する排中律の世界だ。

そして、そのおまけというのもなんだが、やっと自分という存在のパラドクスにもケリをつけることができる。

人として生まれ身体中を生きながらに機械化された私は果たして人なのかそれとも、という問題に明確な答えを出すことができる。

視界の闇が一層深くなった。バースデーケーキ全体がノイズに晒され、一瞬チラついた時、私は落胆を禁じ得なかった。

まだ物語は始まってもいない。私の死はトリガーにしか過ぎないのだ。

あと100枚くらいページを捲れば、私が構想する物語の山場である第7の騎士の登場を見る事ができるだろう。

それは作者である私の死より重く貴方の心に響くはず、物語を途中で終わらせないためにも貴方は受け入れなければならない。

私はそう念じて我が子の心を覗き見た。

かつて見たことのない情景に悲しみの藍色が混ざり額縁に納められた世界の外側で機械仕掛けの心臓が小さく鼓動するのを感じた。

電脳を介して構築された擬似ドーパミンが通常の人間がそうであるように分泌を模写し、もはや人ならざる私のために一時の愉楽を形成する。

私は私の電脳を制御する我が子によって次々と形状を変える立体構造物めいた虚構に対し、存在しないはずの息を遣って那由多を照らす蝋燭の炎を吹き消した。

もはや闇は無を具象しているかのように黒く、そこには何も存在していないかのようだ。

私はその虚ろな闇の中で全てを喰らい尽くす。

食らえば喰らうほどに心がバラバラに、世界に向かって塵芥のようなものと化していくのを感じたが、それが無であるとは言い難い。

私の心は芥となって世界の中に溶けてなお消える事がなかった。

もし、再び考えることができたなら、私の息子はなんと言うだろうか。

どうしても知りたくなった。

こんなくだらないことに付き合わせてごめんなさい。

死してなお私はそう感じた。

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