第十六章「お前らの強引さに俺は逃げた(その2)」

「勇者様」


 セリスとの不毛な会話に腹立ちを覚えつつ部屋から出てきた勇はクゥと鉢合わせることとなった。


 身分が身分であり、会談では主要人物の一人でもあるのでいつも数名の護衛が彼女の左右に居る筈だが、今は一人である。


 マックス王国王女は、会議室で見せていた黒さを漂わせた険しい顔などなかったかのように、清楚で落ち着きある笑みを勇に向けていた。


 勇者時代に幾度も見た笑顔。その表情を見て、勇は彼女とこうしてマトモに向き合うのも久方ぶりなことを実感する。


「少し、お時間よろしいですか?」


「姫の仰せのままに」


 断る理由も特になく、懐かしさもあったので勇は一礼して承知した。


 廊下での立ち話もどうかということになり、場所を控え室から少し離れた休憩ロビーに移す。


 長いすに姫であるクゥを座らせ、勇は数歩離れて床に片膝をつこうとしたが、クゥはその行動を制した。


「そのような堅苦しい態度を取らないでください。よろしければ私の隣にお座りになって」


「いえ、王女殿下の御前でありますので、私はこの場にてお話を伺いますれば」


「もっと普通に振舞って欲しいのに……」


 不満をクゥは呟くが、勇にとって彼女は姫君という立場である。なのでハイそうですかと座るわけにはいかなかった。


 二言三言の問答の末、クゥは仕方なく命令という形で勇を自分の隣に座らせることに成功した。ただ、表情には釈然としないものを色濃く残しながらではあったが。


 クゥの表情や内心に気づかぬフリをして、勇は相手を気遣うように微笑みを浮かべた。


「お疲れのご様子ですが、お加減は如何でありましょうか? 御身に万が一の事がありますと、王や民衆らが嘆かれますれば何卒ご自愛くださいませ」


 礼儀正しい勇者の態度。クゥは相手の儀礼的な言葉を聴いて決心したのか、勇に顔を向けた。そして二回口を空振りさせ、三度目にして勇気を振り絞って言葉を紡いだ。


「勇者様……いえ、勇さん」


 勇は驚き、軽く目を開いた。クゥから初めて名前を呼ばれたのだ。彼女からは「勇者様」と職業風に呼ばれていたことに慣れていたのもあって余計にだ。


「……なんでしょうか姫」


「どうして姫子さんやあの大魔王のように私に接してくださらないのですか」


「それは……」


「私、勇さんとはもっと親しく会話したいと思ってます。勇さんも慣れない言葉遣いしてたらお疲れになるでしょう? ここには私と勇さんしか居ないのだから遠慮せずに」


 即答出来ずに勇は沈黙した。


 最近は都合が悪くなると黙り込んでしまうという悪癖に関して反省しないでもない。


 しかし答え難いことに直面してばかりというのを考慮してもいいだろうと自問自答したくもなるのだった。


 クゥ自身に罪はなかった。それよりも彼女の周囲を取り巻く人々が馴れ馴れしい言動をとることを許しはしないだろう。異世界は現代日本ではなく、歴史が数百年から千年は遡ったような中世の世界だった。


 そんな世界で、勇者といえども一庶民である身で王族に気安く口がきけるわけがなかった。


 常にお付の者らが目を光らせ、些細な事でも騒ぎ立てて注意を促すような身分相手、更に両手で数えるぐらいにしか対面したことのない相手となれば口のききようがなかった。


 姫子はまだしも、セリスに接するように振舞った日には、勇はマックス王国関係者の憎悪を買うことになるだろう。


 おいそれと出来ることではなかった。


「私が王女だからですか?」


「……」


 その通りです。と、馬鹿正直に言えるわけもなく沈黙を続ける雷電の勇者にクゥはじれったさを感じた。身を寄せ、顔も至近まで近づける。


「忌憚なき意見を伺いたいのです。答えてくれないのですか勇さんは」


 ライトグリーンの瞳がまっすぐに勇を見つめる。


 セリスとはまた違った力を帯びた瞳である。一点の曇りもなく爽快なほどにまっすぐではあるが、時として頑迷さを伴って他者を圧迫する。


 本人は清く正しく後ろめたいことがない故のまっすぐさであるが、今の勇にとっては澄んだ硝子の槍のような印象を抱いてたじろいでしまう。


 誤魔化しきれないと悟った勇は小さく頷き返すことで彼女の質問に応えた。彼の反応にクゥは微かに失望の表情をする。


「そうだろうとは思ってましたけど、いざ分かるとなると辛いです……」


「よもや、私如きにそこまで親身に接してくださるとは思いもよりませんでした。真に恐縮の極みでありまして」


「ですから丁寧な口調はおやめくださいと仰ってるではないですか」


「と、言いましてもいきなりは」


「今せずしていつなさるおつもりですか」


 詰め寄られて勇は狼狽した。


 先日の姫子といい、物静かで大人しいという印象だった人物がこんなにも活発で積極性があることは想像の範疇外だった。しかも連日流血無き戦いを繰り広げているからか気が昂ぶってるようにも見える。


 落ち着かせようと、勇はクゥの肩に手をやって二度三度軽く叩いた。相手の無言の意思に感応したのか、クゥも自分の気が昂ぶっていたことに気づき咳払いをした。


「姫」


 彼女が落ち着きを取り戻したことを確認して勇は前から気になっていたことを訊ねようと口を開いた。


「なんですか?」


「どうして姫は私のような者をそこまで気に掛けてくださるのですか? 差ほど親密に接した覚えもなく、ましてや今のように隣に座って語り合う機会こともしませんでした。正直なところ、いささか戸惑いを禁じえないのです」


「勇さん……」


 気まずさを覚えつつも、指先で頬を掻きながら勇は言葉を続ける。


「もしかしたら私が覚えてないだけで、姫に何かしたか語ったのでしょうか? 大変恐縮ですが、よろしければお話してくださらないでしょうか」


「……確かに、今の今までお伝えしてませんでしたね」


 勇の言い分を是としたクゥはしばし沈黙した。再び口を開いたとき、快活さがナリを潜める代わりに陰のある表情が浮き上がる。


「私はずっと後悔してました」


 遠い目をした王女は憂いを込めて呟いた。


「世界を救う為とはいえ、関係のない人間を巻き込んでいいのか。それが戦いを経験したことのない、私よりも年下の者を死地へ赴かせていいものかと。私のような魔力の高い者がこそが行くべきではなかったか」


「……」


「勇さんが最初拒絶されたのも当然だと思います。誰だって知らない世界で死にたくないのですから。だから、あなたが引き受けてくれたときは驚きました。世界の危機を払う為にあの時の私も必死だったとはいえ、それでも首を縦に振ってくださる望みは薄いものと覚悟してました」


「帰る方法を探さないといけませんでしたからね。魔界と違って異世界のゲートは一方通行でしたから」


「動機がそうであったとしても、それでも、あなたは己の運命に立ち向かう決意をされたではないですか。私は、あなたのその勇気に触れてからというもの、あなたの事をもっと知りたいと思うようになったのです」


「姫、それは」


 勇の発言をクゥは頭を振って遮った。労わるような眼差しが勇に向けられている。


「みなまで仰らないでください。勇さんが謙遜される必要ないのですよ。異世界の人々は皆あなたの人柄を理解してます。その勇気と優しさを」


「……」


 口を閉ざされた形となった勇は沈黙を保ったまま熱く語るクゥの顔を見つめた。


 勇は彼女とは違う意味のものを言おうとしたのだが、この調子ではそれも謙遜と解釈されることだろう。


 他にも言えないこともあった。


 確かに自分は魔界軍が占領した地域を解放してきたが、それが必ずしも良い事とは言い難かったのだ。


 異世界には大小百近くの国々がある。それだけあれば中には悪政暴政が行われていた国もあった。


 セリスは軍や占領地域へ派遣する行政官に現地住民に対する配慮を徹底させていたので、そのような国では却って生活や治安が改善されている現実がある。


 追い払ったことで直接は言われたことはない勇であるが、解放された国で評判の悪い王が逃亡先から帰還して再び悪政を働き出したという話を幾度も聞いた。


 不満や怒りを見せる民衆は多く、「占領されていた方が良かった」「魔族の兵士は外見怖いが親切だった」という声を偶然耳にしては己の行動の結果に自問自答した覚えもある。


 大魔王の征服行為を擁護する気がない勇であるが、このような現実を目の当たりにしていると、絶対悪と絶対正義とやらの非現実さを痛感する。


 クゥは知らないのか知らされてないのか、純粋に魔族を悪として正義に燃えている。その真っ直ぐな姿勢は美点に値するが、僅かながら危うさを感じずにはいられなかった。


 知らないからこそここまで真っ直ぐなのかもしれない。けれども己の想像が当たってた所で勇は彼女を嘲笑う気にはなれなかった。歪んでいる自分にはその真っ直ぐさが羨望すら感じる。


 自分もこれぐらい明快さがあったならば、違った歩き方も可能だったかもしれない。


 けれども今更出来はしないと見切りをつけているのは、治しようがないところまで道を歩んできたからだ。


 染まりきれないでいる心が諦めを促している。


「勇さん?」


 黙り込んだまま身動き一つしなくなった勇を、クゥは不審気に思って声をかける。


 声をかけられ、いつの間にか自分一人の考えに沈んでいるのに気づいて勇は微苦笑を浮かべる。


「姫は情熱な御心をお持ちですね」


「えっ?」


「私は自分をそう高くは評価してません。何故ならばこうして大魔王の婿となっております。私に姫ぐらいの熱さと真っ直ぐさがあれば、このように御身を煩わせるような真似はさせなかったというのに」


「そんな……勇さんは自分を卑下し過ぎです。もっと気をしっかり持ってくださいな。今の立場が本意でないことはちゃんと分かってますから」


「本意ではない。か……」


 勇は一応忠誠を誓っている姫君に胸の内を曝け出そうとはしなかった。


 自分の中で起こっている心身の変化を説明するには表現が困難であり、したところで理解させるのは無理に等しいと、根拠はないが気づいていた。


 自分に対しての想いの出発点を聞けた勇はそれ以上この話題に深みをもたそうとはせず、別の話題に転じた。気になるという点ではこちらも軽視は出来ないものだった。


「王太子殿下が兵員増強以外でもゲートを頻繁に作動させていますが、姫はどう思われますか?」


 そう言って勇は魔界側の集めた情報を語り相手の反応を探ってみようと試みた。


 急に話題を変えられ不満そうな顔をしたクゥの反応は、最初の会談時と同じであった。


 セリスとの口論に意識が傾いていたのもあるが、兄が会談を一任させて以降、自分を避けているようで聞くに聞けなかったというのもあった。


「随員も姫子さん以外は全員兄上のお選びになられた方々でして、仮に私が高圧的な態度で訊ねても語ってくれるかどうかは微妙なとこですね」


「そうですか。天界の神々を引きずり出すと言ってますが、ゲートを意図的に暴走させるには爆発的な力が足りないですし、もし成功させたとしても無断持ち出しの件で天界から抗議、最悪の場合は戦争になりかねません。あの方はそこまで理解されているのかどうか」


「我が兄ながらそのようなお考えを持たれているのが。……でも、勇さんが助けてくださるでしょうからそこまで心配してませんよ」


「……」


 無邪気なライトグリーンの瞳は信頼に満ちて濁りを見せてない。


「勇さんは私達の勇者様ですからね」


 無垢なる信頼の言葉だった。


 ただし、言われた当人は苦い思いを抱えて表情を眩ませたことにクゥは気づいていなかった。






 キリのいい所でクゥとの会話を切り上げてきた勇は、激しい頭痛を覚えて側頭部を叩きながら歩いているち、今度は白金の仮面を被った騎士と出会った。


「桜上くん」


 仮面で見えないが、恐らく喜びの表情をしているであろう姫子は相手の反応もお構いなしに気軽な調子で接近した。


「今一人なの? めっずらしーなぁ。あっ、でもアタシ的にはラッキーかな」


「華野……」


 同級生であり同じ勇者である少女にどういう言葉をかけてよいか思い浮かばない勇は絶句してしまう。


 姫子も勇が返答に困っている事に気づき、ようやくはしゃぐのを控えた。


「あの、桜上くん。今ちょっとだけ時間あるかな?」


 つい先程同じような質問をされたのを思い出しつつも、結局勇は同じ返事をすることとなった。


 廊下に二人以外に人気はなかったので、短時間の立ち話をすることとなった。


 とは言うものの、勇は語るべき話題は無きに等しかったので専ら姫子が口を動かす事となった。


 話し始める前、姫子は白金仮面を取り外した。武骨な仮面から現れた少女の表情は、やはり喜色満面であった。姫子は仮面を両手で抱えるように持ちながら唇を尖らせる。


「使命だからって四六時中こんな仮面着けてると息苦しくってさ。ココ涼しいからいいけど、夏場なんか地獄だよ絶対」


「んっ、あぁ、そうだな」


「でも私みたいに見かけ強くなさそうな人に配慮してのことって分かるから抗議できないけどね。勇者って大変だよねー。桜上くんも桜上くんで苦労したんじゃないの?」


「そりゃあ俺も楽ではなかったな」


 そう答えながら、勇は眼前に立つ栗色の髪のクラスメイトを失礼にならない程度に凝視した。


 先日も思ったことではあるが、勇の中で彼女のイメージは、本の好きな物静かで大人しい子であった。


 それもあくまで思い出してみればというもので、実際は再会するまで忘れているぐらいに印象が薄かった相手であった。


 学校では同じ図書委員というわけで何かと接する機会はあった。ただこちらも勇は自らの委員になったわけでなく、立候補がいなかったのでクジで決定されただけである。


 別に本が好きでもなければ委員の仕事に興味もなく、ましてや姫子が居るからという理由もなかった。


 黙々と、与えられた仕事をこなそうという気持ちでやってきただけであった。


 けれども姫子は自分に好意を持っている。何か特別にした覚えは当然ながら無い。


 ここまで活発な面を開花させるぐらいのキッカケが自分にあることに、クゥのときと同じで勇は正直困惑していた。


「なぁ、なんで俺なんだ?」


 勇は思い切って訊ねてみた。先日聞きそびれていたということもあり、単刀直入であった。


「今ならまぁまだ納得は出来る。けど日本に居た当時の俺は取り立てて目立った存在でもなかったぜ。イイ奴なら他にも居るだろう。ほら、えーと……あれだ、2-Bの青野とか緑川とか」


「そうなんだけどね。でもアタシは桜上くんが好きだよ」


「だからなんでだ」


「ほら、アタシどっちかっていうと内気でさ。引っ込み思案なところもあったしね」


「それはひょっとしてギャグで言ってるのか?」


 余計な一言を口にした勇は、直後に右ストレートを喰らうことで失言の報いを受けた。


「内気で引っ込み思案なとこもあったし、地味だったしさ。別にそんな自分が嫌とかってわけじゃないんだけどね」


 殴った手を摩りながら姫子は続ける。勇も黙って彼女の述懐に耳を傾けた。


「でも桜上くんはそんなアタシをよく気にかけてくれて、色々助けてくれたじゃない。キッカケとしてはベタだけど、それが重なっていくうちにあっ、この人イイなー。って思い始めたの」


 クラスメイトの発言に勇は首を傾げた。


 確かに同じ図書委員のよしみで手伝いやフォローをしてきたしよく声もかけていた。しかし勇にしてみれば困ってる人間を助ける以上の感情はなく、当然すぎる行為が感情の琴線を揺さぶるというのは、平凡でこのようなモノに縁の無かった彼にとっては、大袈裟な言い方をするならば驚愕してもしきれない驚きであった。


 後が怖いが言うべきことは言うべきときに言うべきである。勇は己の考えを即座に弾き出して行動に移した。勇者時代はよく決断力を試されていたことを思い出しながら。


「華野。それは別に他意があったわけじゃないぞ。同級生というか、同じ図書委員だから助けたに過ぎないんだ。お前が思うほど大層なものじゃないんだよ」


 姫子は目を丸くしたがすぐさま笑顔に戻った。


「いやだなぁ。そんなのとっくに解ってるよ。でもアタシは嬉しかったんだよ。男の子とあまり会話したことも頻繁に接したこともなかったから、こんなによくしてもらったこともなかった。一目惚れって理屈じゃないって実感したの。凄いよね、本の世界のような感じなんだよコレって」


「一目惚れ……」


 その単語を耳にしたとき、勇の脳裏に何かがフラッシュバックした。


 艶やかな哄笑。


 滴り落ちる雨と血。


 歯に残る生々しい感触。


 灼けるような美酒。


「桜上くん?」


 姫子に声をかけられ、勇はもたもや沈思していたことに気づいて額に手を当てた。


「……お互い立場がある上、俺も理由を聞いたから『はい、そうですか』と言うには脳みその整理しきってないんでな。悪いがこの話題はまた先送りさせてくれ」


「アタシも答えを急かすつもりはないよ。とにかく今はここから逃げ出して地球に戻ることを考えなきゃね。恋愛は帰ってからゆっくり育んでいけばいいんだよ」


「帰ってからか」


 口にして、それが軽いものに思えたことに勇は再び口を閉ざした。


 帰りたい気持ちは今でも大きいが、いざとなると思ったよりも熱狂的でいない自分を見出すこの心境の変化はなんなのだろうか。



 ―今更戻ったところで、そう簡単に今までの日常が復元出来るつもりでいるのか。



 ランスロットの言葉が喜びや情熱に小さな棘を残す。


 今までどこで何をしていたか説明したところで妄想扱いされて怒られるか狂人扱いされるだけだろう。理解されず、異常者として奇異の視線を向けられながら今後を過ごしていけるのだろうか。安堵する材料はないのだ。


 口に出して言うことで気持ちを維持しているのかもしれない。発言したときに胸に湧き上がる言い知れぬ不快感。嘘を吐いたときに感じる、後ろめたさに似たものがあった。


 何故だろうと疑問が掠めたとき、まず浮かんだのは銀髪銀瞳の大魔王だった。


 殴り倒してやりたいぐらいに快活で尊大ともみえる余裕綽々な顔が脳裏に焼きついて離れない。


 あれが居るから帰る気が起きない? あの美しい悪魔から離れたがっているというのに、帰りたい理由の最大のものというのにか。それは変ではないのか?


 脳の中枢がフッと冷めたような感覚が走った。


 一言で言うならば「閃き」。表現するならば、前触れも無く眼前で映像が映し出されたような。情報が一気に流れ込んできたときに競りあがってくるような驚愕。


 勇は声をあげそうになり口を手で押さえた。突然の挙動に姫子が怪訝そうに顔を覗き込む。


「ど、どうしたの?」


 相手の声が聞こえてないのか、勇は表情を強張らせたままあらぬ方向に視線を向けたまま微動たにしなかった。


 今、自分は思い出した。全てではないが、あのときセリスの言っていたことはコレのことなのか?


「ねぇ桜上くんったら!」


「わるい。また後でな」


 一転して非友好的な空気を醸し出しそう言って、勇は足早に同級生の前から立ち去った。


 不自然な切り上げ方に不安を抱いた姫子は後を追おうとした。


 だが、一歩足を進めたとき、歩みが止まった。彼女は躊躇った。何かを思い出したときに見せた勇の表情は、とても切迫したものを感じさせると共に、危うげなものを見出したのだ。


 それがどんなものか、漠然としていて表現出来ない姫子は、己の勘を疑いながらも、勇の後姿が消えた後もしばらく立ち尽くした。


 姫子のことなど勇の頭にはなかった。去り際の一言も咄嗟に出た言葉で深みも重みもないものだった。


 意味の無い叫びを上げたい衝動を押さえ込みながら、勇は歩く速度を速めていく。


 向かう先は自室でも会議室でも、セリスの所でもなかった。途中関係者の幾人かに目撃されていたが、誰もが彼の横顔と無言の拒絶に声をかけるのを躊躇った。


 そのようにして足を速めていき、市民会館を出た頃には駆け出していた。

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