第十五章「お前らの強引さに俺は逃げた(その1)」
休憩時間を設けさせた勇はセリスの手を引いて魔界側の控え室へと入った。
室内に誰も居ない事を確認し、ドアの鍵を閉め。夫の挙動を見て、銀髪の大魔王は頬を赤くして己の身体を抱きしめる。
「どうしたのだ勇? 自ら妻と二人っきりの場を作るとは珍しいというか初めてではないか。妻への愛に本格的に目覚めたのだな。そうに違いないな。いいだろう、欲しいならば縋りつくがよいぞ。全力で愛してやろう」
「茶化すな」
妻の軽口を押し殺した低い声で跳ね除ける。
「一体何をどうすればここまで拗れるんだよ」
「……」
勇の表情から冗談ではぐらかせれないものを感じたセリスは、浮かべていた笑みを消す。
代わりに不貞腐れたように艶やかな口唇を尖らせ、純度の高い銀の瞳に不満の色を湛えて上目遣いに勇を見上げる。
「だって」
「だって?」
「だって、アイツらがあんまりにも勇は自分のモノだって言うから……」
あまりにも子供っぽい理由に、勇は思わず目の前にで自分を見上げている大魔王をマジマジと見つめた。
自信に満ち溢れ、豪気で英明な大魔王にしては弱弱しい返事は勇に苦々しげな溜息を吐かせるものだった。
「……さっさと有無を言わさず会談打ち切って追い払うのがお前の予定じゃなかったのかよ」
「最初はそうだった。だが、会談を重ねていくうちに思ったのだ。そんなことをしたら、武力で無理矢理追い返したのは自信が無い証拠だとか言われるかもしれないと」
「お前がそんなもの気にする奴とは知らなかったぞ」
「普段ならばな。でも、あの二人は勇にとっては知らん仲ではないのだろう?」
「誤解招くような言い方やめんか」
勇はにがい顔をして頭髪を掻いた。
勇にとって、クゥという女性は見たとおりのお姫様であった。
勇者として召還されたとはいえ、身分の壁が厚くそこまで親しく接した覚えはなかった。仮に彼女に何かしら想いを抱いていたとしても、それは忠誠心や義侠心以上のものではないと断言できる。
姫子に至ってはクラスメイト以上の印象はなかった。
好意を持っていると告白された今でも半信半疑であるのだ。彼女にはキッカケとなるそれなりの理由があるらしいが、聞いたところで勇にはありがた迷惑なのが本音であった。
この二人と比較すれば、まだセリスの方が思い入れがある。良くも悪くも勇の短い人生に強烈に喰い込み、現在進行形で彼の身も心も翻弄している。あまりにも深く立ち入られて恐怖を感じるぐらいだった。
そんな深く喰い込んできている女性が弱気な顔して弱音を吐いているのを見て、目の前の銀髪の君主が泥沼に自ら飛び込んで深みに勝手にはまっていってるような馬鹿らしさを勇は感じた。
「いつもの調子で一笑して終わらせれるだろ。こんな不毛な事を一生やってるわけにはいかねーんだから」
「勇は帰りたがってるのではないのか?」
「帰りたくない言えば嘘になるな。けど今は時期尚早だ」
にがい顔を崩さず、眉間に皺を寄せて勇は答えた。
何がなんでも逃げ延びて帰る。この決意は揺らぐ兆しはないが、何故か現在の状況下で帰りたいという思いは乏しかった。
クゥや姫子の件は置いとくとしても、異世界側に不信感が拭えない。根拠のない直感であるので表立って口には出さないが。
勇の内心を知ってか知らずか、相手の発言を聴き瞬時に喜色満面を浮かべてセリスは鼻息荒くガッツポーズをとり。
「そうか。勇は妻との甘い新婚生活を望んでいるのか。夫の要望ならばそれに応えてやるのが良妻賢母! 早速素肌で実践プリーズか!?」
「おっらぁ!!」
木製の椅子を一脚掴み上げ、勇は銀髪の魔王の頭部に叩きつけた。椅子は鈍い音を立てて全壊し、木片と共にセリスは血を流して床に倒れこんだ。
血を流して倒れてる大魔王へ、手に持っていた椅子の残骸を唾と一緒に捨てた。
「変に深刻ぶっているかと思えばそういうとこは相変わらずだな、オイ」
「愛しき夫の愛情が痛い……でも痛さも突き抜ければ快感であるな」
うっとりとした表情で木片を払い落としながらセリスが立ち上がる。彼女の呟きを無視して勇は軽い舌打ちの音をたてる。
「ここ最近アホなやりとりしてなかったから油断も隙もあったもんじゃねぇな。お前のつけ上がり具合は」
「そう言われてみれば久々だな勇の愛情溢れる制裁は」
「そういう言い方やめろや煩悩脳みそ」
こめかみに青筋を浮かべ勇は怒りに震わせて拳を握る。
「ったく、くだらん与太を飛ばせる余裕があるならまだ大丈夫そうだな。余裕あるうちにケリつけてこいよ」
「誹謗中傷受けたら妻を慰めてくれるか?」
「…………」
セリスにそう言われた途端、勇は怒りも忘れて露骨に顔をそむけた。
沈黙へと逃避しようとしてる夫に今度はセリスが怒った顔をして相手の服の袖を掴んで引っ張り抗議する。
「そこは嘘でも『わかった』と言うべきだろう。嘘吐くのが苦手なのは勇の美徳の一つだが、妻はこういうときぐらい甘えさせて欲しいぞ」
「人の都合お構いなしに甘えてくる奴が寝言言うな。つーか、誹謗中傷ぐらいで落ち込むメンタリティの持ち主なら、俺の苦労と苦悩は半減してただろうよ」
抗議に対しての溜息交じりの返答であった。
このままでは似たような話題になりかねないと判断した勇は別の話題を持つ出す事とした。
それは昨日近衛衆の面々と共に目を通した報告書の件であった。
王太子に不穏の気配。そして天界の巨大兵器の名。
重大事には思われないが、それらは治安上見過ごせはしない部分と思われるからこそ、一同は女帝陛下の意見を知った上で改めて検討することを理由に保留にしていた。
「姫や華野はともかくとして、王太子が腹に一物抱えてる可能性は高いから注意してた方がいいと思うぜ」
「興味ない。勇以外の男なんて妻は興味ないぞ」
「……その台詞、ランスロットの前では絶対言ってやるなよ。大事な側近が永久に消えることになるから」
「何故そこでランスロットが出てくるのだ?」
心底不思議そうに問いかけてくるセリス。あまりにも他意のない素直な質問に、勇は即答出来ず、心の中で赤毛の忠臣に同情した。
誤魔化す様に咳払いをして軌道修正を図る。
「冗談はともかく、何か起きた後からじゃ遅いから対策は必要だろ。俺らは軽く見てるが、最終的な判断はお前にしてもらわんと」
「妻は勇を代理として任命した。勇の判断は妻の判断として扱ってもよいのだぞ。それよりも妻は勇の体調が心配だ」
「俺の?」
「自覚はあるのだろう」
そう言われて勇は己の胸に手を当てた。
服と皮膚越しからでも伝わる脈の早さがセリスの指摘が正しいことを告げていた。
日を追うごとに間隔が短くなっている。まるで各地で魔軍との死闘を繰り広げていたときのような血の滾りが体内で確実に荒れ狂っている。
単にかしましい女性らに対して疲れてるだけではなく、滾る衝動を押さえ込むことで少なからぬ体力を消耗していた。あたかも感情や本能を理性が制御するかのように。
鼓動の高さと速さを感じながら勇は問わずにいられないことがあった。
「お前は原因を知ってるのか?」
「勇は勇者だろう」
思いもかけない言葉に、勇は質問を質問で返されたことを脇において虚を付かれたような顔をした。
「正確には勇者だった男だが、それがどうした」
「幾多の難題難問にも挑んできたのだから、それぐらいは自分で答えを導き出してもいいだろうと妻は思うのだよ」
もっとも。と、セリスは含みのある笑みを浮かべる。
「全然難しくないのだからすぐ気づきそうだがね。ほれ、心当たりはあるのではないのかな? それとも、その辺りの記憶はまだ思い出せないでいるのか?」
「……?」
勇は口元に手を当て、セリスの全身を探りをいれるような目で見る。
ひ弱さとは無縁な、豊満さとしなやかさの調和がとれた肢体、腰まで届いている長い銀の髪、黒と銀を基調とした帝王の礼服を乱れなく着こなしている姿は一世界を統べる貫禄があった。
下から少しずつ上がり、視線が彼女の首筋に至ったとき、勇は胸中に引っかかりを覚えて眉間に皺を寄せた。そこは、例の傷がある箇所であった。
――……ケダモノに噛まれた傷だ。
あの時の勇はそのままの意味で解釈していた。
どんな獰猛で手ごわい魔物や禽獣なのかと想像の翼を羽ばたかせていた。
しかし獣にしては傷口は小さくはなかったか。あの広さは、人間の口ぐらいの大きさをしてたのではないか。相手が人型だったということか。
誰が。とまで考えが至った時、勇は思わず声を出しそうになった。幸い口元に手を当てていたので声が漏れることはなかった。
何かを思い出しそうになっている。
深い霧に覆われてる中を歩いてるようなもどかしさ。そこから道を発見しそうになってるような感じで、記憶がおぼろけながらも浮かびかけていた。
底冷えするように降り注ぐ雨。
魂まで引き擦り込まれるような闇。
闇の中で一条の光のように映える銀の瞳。
妄執にも似た憎悪。
口の中に広がる味と食感。
頭の芯まで突き抜ける灼熱。
フラッシュバックする記憶が心身を乱打するかのように、勇の顔から血の気が引いていく。
「俺は……。でも、アレは、お前が……」
「どうしたのだ勇」
優しさの中に堕落と破戒への誘いを混ぜ合わせ、大魔王は艶やかに微笑んだ。
セリスは踵を上げ、勇の頭部を包むように抱きしめる。
勇の顔は彼女の首筋に埋もれることとなった。血の気の失せようとする肌にはセリスの体温が焼き鏝を当てられたかのように熱く感じる。そう感じていても、勇は動けなかった。
芳しい香りが勇の鼻腔を擽る。
欲望を刺激して破滅すらも快楽に変換させるような麻薬の匂い。
「思い出しそうならば、思い出させてやろうか? 勇が妻にどのようにして自分を刻み付けたのか」
首筋にかかる黒髪を撫でながら、銀髪銀瞳の魔王は熱っぽく囁く。
「そしてまた同じ事をしてみるがよい。妻は勇の気が済むまで刻まれ続けてやろうぞ。征服されてやる。屈服してやる。浅ましいぐらいに求めてやる。狂うぐらいに愛してくれと哀願してやる。けれども」
謡うように蠱惑な囁きを紡ぎ、淫蕩の熱に浮かされて潤む瞳が勇者だった男の横顔を舐めるように見つめた。
「私の敗北は勇の完全なる敗北になることは忘れるなよ」
熱の中に氷の刃を仕込まれているような不意打ちであった。勇の神経に冷気を滑り込ませ身震いさせるには十分なものだった。
思わず勇は妻である大魔王を乱暴に押しのけていた。
「どういうことだ……」
「……」
正体不明のものに引きずられかけた恐怖が勇者の声を震わせる。
「俺は何なのだ? 俺に何が起きたというんだ。なんでお前はそんな事を言うのだ。俺はお前とどんな約束をしてたんだ!?」
「妻は教えてあげないぞ」
「俺は気が長いほうではないんだ。四の五の言わず教えろ」
高圧的な言葉も、青ざめ震えている男が発しているので妻には効果はなかった。寧ろ、未知なる恐怖に慄く夫の姿に愛しさを募らせている風でもあった。
相手の態度をふざけたものと感じ、勇は体内に灼熱を覚えた。怒りが全身を駆け巡り、つい一分前に突き飛ばすように押しのけた事も忘れて大股にセリスへと近づいていく。満面に怒気を漲らせている勇を前に臆した風もなく、銀髪の大魔王は腕を組んで待ち構える。
「セリス様、勇様」
詰め寄ろうとした勇であったが、突然ドアの外から声をかけられて立ちどまることになった。
無視してもよいところであったが、低くドスの利いた声は、二人の知る人物のものであったのだ。
「そちらにお二人がいらっしゃるのは存じております。誠に申し訳ないのですが、扉を開けてくだされば大変ありがたいです」
しばし思案したものの、結局勇は扉を開けることにした。
開けた先に居たのは予想通り執事のケィルであった。隙無く着こなした執事服の小脇に書類の束を抱えている。
「お取り込み中申し訳ございませんでした。重要な案件の決済をランスロット達に頼まれたものでして。セリス様か勇様かに目を通して署名を頂きたく参上仕りました」
「……なんでケィルさんがココに居るんすか。帝都で留守番してたんじゃ」
もっともな疑問に年齢不詳の執事は朗らかな笑い声を上げた。
「お二人の御身辺の世話は執事である私の務め。主ある所に執事ありです。宮廷は人手が有り余る程豊富ですし、私が短期間不在でも滞りなく職務は行われてますよ」
「はぁ、そうですか」
そう答えたのはいいものの、それ以上の言葉は出ず勇は不機嫌と気まずさに口を閉ざした。
セリスは手渡された書類に素早く目を通して署名をしていく。何事もなかったかのような平然とした態度であった。
余裕綽綽な態度が勇の神経を逆撫でさせた。
セリスを睨みつけると、口を硬く引き結び足音荒く控え室から出て行った。
「かなり激怒されておりましたな」
指を挟めたら骨が折れてしまいそうな勢いで閉められた扉を見やり、ケィルは傍らに居る魔界の支配者に声をかけた。
白皙の美少女の表情は常に変わらず、自信に満ちて闊達としたものであったが、彼女が生まれた頃からの付き合いである執事は年少の主君がやや落ち込んでいることを見抜いていた。
「勇様とどのような言い合いをなされましたかな」
「言い合いという程のことはしていない……筈だ」
セリスは力強く否定しようとして失敗した。満面に憂いの色を滲ませ、短く吐息する。
「ありのままに接するというのも難しいものだな。私は私なりに全てを曝け出してるつもりだが、勇から見れば自分勝手にしか見えてなかったとは」
「恐れながら申し上げますと、勇様の反応が普通と思われます」
嘆息するセリスにケィルは分別を利かせた年長者顔をして意見する。執事の意見に魔界の女帝は小首を傾げた。
「そうなのかな」
「勇様は婚礼の儀を挙げるまでセリス様のご好意など全く気づいておらず、それどころか大魔王として憎んでおられました。まだご夫婦になられて数ヶ月です。セリス様ぐらいに前向きなご気性でない限り、多かれ少なかれわだかまりは残られておりましょう」
「じいや。私はそのわだかまりを取り除こうと悪戦苦闘してるぞ」
「あのような言動をもって悪戦苦闘と言うのならば、世の者の殆どが毎日のように悪戦苦闘されてることになりますぞ」
ケィルは穏やかな苦笑を浮かべて主君の発言に異を唱えた。本来なら主君の意見を目の前で反対してのけるのというのは死罪に問われる可能性もある事である。
が、セリスはそのような短気を起こす型の支配者ではなく、またケィルの意見を否定しきれなかったので、彼女はほろ苦い顔をするにとどまった。
「ちとばかし性急すぎたかな」
「あれでちとばかしでございますか」
「うん、まぁそれは置いとくにしてもだ。私は私の欲に忠実である考えは変わらないけれど、夫婦となってるのだから気長にやっていけばいいのかもしれん。どうにも余裕がなさすぎなようだった。あの雌狐らのお陰で調子が乱されてたかもしれんのう」
「それだけでございましょうか」
あからさまに疑問を込めて訊ねてくる執事の声を無視してセリスはしなやかな指先を顎に当てた。
「もっとも、勇に変化が訪れたときに何事も起こらないわけではない。その時どうすればよいのやらだ」
「それを望んでおられるように見受けられますが。もしやあの王太子とやらが画策してることはあえて放置されておられるのでしょうか」
「私は深慮遠謀にはまだ一歩及ばぬ。ただ陰謀やら野望というものは、本格的に実行するまでは絶対成功するもの。小者が成功を夢想するのは自由だが、どんな手段を講じてきてもすぐさま打ち砕いてやろうぞ」
魔界の統治者が静かな自信を持ってそう宣言した時点で、ガーオネ王子の放置は完全に決した。
自ら神になろうとしてる王子がこの発言を聞けば侮辱された羞恥で怒り狂うであろうが、セリスには心底どうでもいいことだった。彼女の最大のというより唯一の関心は夫の事だけである。
依然包囲が続けられている第二十四ゲートでは逐次動きが報告されてくる。
一日に一度、多いときは二度の頻度でゲートが稼動してるという。昨日の報告書と合わせ、セリスの耳目には届いてはいるのだが、繰り返しになるが、彼女にとって重大ではない。
ゲートの安定は我が世界の重要事である。と、部下に対して言っているので軽くは見てはない。心が別に向いており熱心になれないだけであるのだ。
目的は兵と物資の増強と見て間違いないのだが、魔力の高い者が拉致られた報告はないので、稼動するのに膨大な魔力を要するゲートを人間らの魔力で賄えるのかが疑問に思われた。
異世界でも指折りの魔力を持つクゥ姫ですら、勇一人をゲートから召還したり、大勢の助力を借りて一軍を送るのが精々であったのだ。
微量の魔力での連続使用はゲートの不調の原因となり、最悪の場合には安定を欠いて暴走する。そうなれば異世界軍は帰る手段を失ってしまう。勝利を収めて魔界全土を制圧でもしない限りは。
ガーオネ王子は勇の変化に気づきかけていた。もしかしなくとも雷電の勇者と呼ばれた英雄をアテにしてるのだろう。ゲートを不安定にさせた上で勇を利用する。
何に利用する? セリスは報告書に書かれていた三体の戦闘用巨人を思い浮かべた。
「じいや」
「なんでございましょうか」
「天界に連絡をいれてくれ。無駄かもしれぬが一応警戒させてた方がよい。あそこは厳重に封印はするが、臭い物に蓋すればそれで終わったつもりでいるから継続的な管理が杜撰なのが悪い癖だからな」
「御意」
セリスの命を受けたケィルは深く一礼して部屋を出て行った。忠実な執事が居なくなった事で無人となった控え室に一人残った銀髪の大魔王は、いつも夫が吐いてるような深い溜息を吐き出すと、壁に背を預けて天井を見上げた。
手が無意識に首の傷に触れていた。
「……度し難いものだな」
省かれた主語がなんであるかは、口にした彼女自身にも不明瞭であった。
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