第七章「人間来ちゃったけどいいよね? 答えは聞いてない!(その3)」

 魔界という世界は基本的に闇の属する世界である。


 朝、昼、夜という感覚が住人にあるから太陽は一応存在しているが、殆どの地域が灰色の雲に覆われており、故に薄暗さが常に付き纏う。


 夜が訪れても、昼よりも暗さが増しただけに過ぎず、勇は屋敷に灯りが点り始めてようやく夜になったと実感するのだった。


 ケィルとの鍛錬を終える頃には夜の気配が辺りを包む時間帯となっていた。


 シャワーで汗を流し、ケィルが用意してくれた夕食を食べ終えた勇は、今朝方半壊した筈だが、いつの間にか修繕を完全に終えている寝室のベッドに寝転がっていた。毎日の事ながら、この手際の良さには感心させられる勇であった。


 仰向けに寝転がりながら、勇は「魔界軍広報誌六月号」という冊子に目を通していた。


 全文魔界の言語で書かれているが、勇者時代に敵情を知る為に必死で勉強していたお陰である程度は読める。


 文字は読めるものの、ケィルが気を利かせて差し入れた新聞や情報誌に目を通す事はなかった。


 彼は魔界の情勢を知る気はなく、当たり障りない広報誌か輸入されてきた日本の漫画雑誌しか目を通さなかった。


 広報誌も数分足らず流し読みする程度であるが、たまたまセリスが兵士達に演説する写真を発見したのでしばらくの間その部分だけを見つめていた。


 写真に写る大魔王は、気高さと高貴に満ちており、勇者時代に幾度も見た覚えのある顔をしていた。屋敷で勇のやることなすことにデレデレしている姿とかけ離れていて、なんだか別人を見てるように勇には思えてならない。


「傍から見てればカッコいいんだろうがなぁ」


 冊子を脇に放り投げ、勇は天井に向かって呟いた。


 奇妙な夫婦生活を送っていると、つい数ヶ月前まで血を吐き、苦悶にのたうちまわっていた激闘の日々が遠い昔のように思えてしまう。


 公私のギャップは誰にでもあるものだが、セリスの落差は勇の思考を疲労させるには十分なものであった。


 厄介な事に、どちらも素であること、魔界の住人がその人格を問題にせず受け入れてるということ。振り回されている自分だけが異常なのかと思い悩んだのも一度や二度ではなかった。


 能天気でサドでマゾでオタクで無駄にポジティブで、大魔王らしからぬ大魔王についていけないでいる。


 なら自分はあの冷酷な美しさを向けられれば満足して、この体のいい虜囚の身に甘んじてもいいというのか。


 そういう問題ではない。自分は、あの身勝手すらも美徳とされてしまうような美しき大魔王から離れたいのだ。


 身も心も溺れる前に、早く逃げ出したい。このままだと自分は……。


 自分はどうなるというのだ?


(なんか変だな俺)


 大魔王を否定する立場に居る勇者が、気が付けば虜囚とも飼われてるともいえるような立場に堕ちていて、宿敵の事で頭が占められているのに気づき、苦い顔を浮かべる。それも長くは維持しない。


 自然と切な気な吐息が漏れ、勇は己の口を塞いだ。


 まただ……。


 首筋から耳に渡って血の巡りがよくなったように赤くなり、胸を掻き毟りたいほどの熱に浮かされていく。


 体内に火でも燻っているかのような熱さを感じたのはそんな時である。心臓辺りを中心に、全身の熱が上がっていくのだ。


 セリスのことを考えるとき、時折このようなことがあった。


 言葉では言い表せない衝動的なものが込み上げてくるようだった。


 当初は身体が火照ることから、青少年によくある肉欲への過剰な反応と考えて情けない気分になったが、何度か繰り返されるうちにそうではないと気づいた。


 もっと深く、もっと浅ましく、もっと狂おしく、もっと卑しく。


 そんな凶暴な感情に突き動かされそうだった。


 口内に溜まる唾を音を立てて飲み込んだところで、勇は拳を握り締め、己の額を強く叩いた。微かな痛覚が、勇を我に返らせる。


(いかんいかん。何を考えてるんだ何を)


 あらぬ考えが膨らまぬ内に寝てしまうと思い、部屋の灯りを消したその時であった。


 扉が突如開かれ、室内に一人の人物が入ってきた。


 大魔王の婿が居る寝室にノックもせずに入室出来るのは、この世界においてただ一人。大魔王その人だけである。


「ただいま勇」


 部屋の主である大魔王セリスは、屈託の無い子供っぽい笑みを浮かべていた。


 薄暗い室内でも、彼女の銀色の髪と瞳が輝いてるかのように鮮明に映り、見慣れている筈なのに勇は視線を奪われてしまう。好悪の念はともかく、華のある存在感は認めざる得ない。


「……意外に早かったじゃねぇか」


 数瞬後、視線を逸らした勇は短く返事をして身体ごと横に向いた。


 セリスは上着を脱ぎもせずに礼服のまま夫が寝転がっているベッドに飛び込んできた。圧し掛かられて呻く夫を無視して妻は己の主張を展開する。


「違うだろう。そこは『おかえり可愛い俺の妻』とか『いつまでもそんなところに居ないでこっちにこいよ』とか『そこで全部脱いで四つん這いになれ雌豚』とか妻に言うのが夫だろうに。勇は妻を喜ばせる気はないのか」


「んな気は毛頭ねぇよ。あと最後のやつは俺に対する人格攻撃と見なして殴ってもいいのか? いいんだな? いいよな?」


「んー、妻は勇分が不足してるので勇分を補給するのだー」


「会話成立させろよ! 暑苦しいし服の装飾品が顔と肩に当たって痛いんだから離れろ馬鹿!!」


 セリスに力いっぱい抱きしめられ、勇は息苦しさに抗議の声をあげた。


 圧し掛かられ抱きすくめられてと機先を制せられたので、押しのけようにも相手の柔らかな感触に身体を擦り付けるような形となってしまう。新妻気分全開の大魔王は勇の身動ぎを喜んで益々抱く力を強くした。


「なんだなんだ。勇も妻が恋しかったのか。そうと言えば良いものの、我が夫はツンデレじゃのう。どこのドリル頭女学生か? それとも貧乳魔法使いかのう? それともそれとも虎のようなミニマム女学生であるかな?」


「わっけわかんねーこと言ってんじゃねーよ!」


 掌に小さな電撃を発生させた勇は、それをセリスの身体に押し当てる。静電気のような刺激を感じて反射的に僅かばかり身を離したセリスへ、勇は隙を逃さず膝蹴りを喰らわせて距離をとった。


 ベッドから転がるように落ちた勇は、キングサイズのソレを防壁として膝蹴りの当たった箇所を摩っている妻を睨みつけた。


「馬鹿なことしてねーで、とっとと風呂でも入って寝ろよ。いいか、言っても仕方が無ぇとは思うが、俺に近づくなよ。寝てる俺に触れたら殺すぞマジで」


「魔界で大魔王にそこまで命令出来るとは見上げた度胸だな。流石は我が夫だ、妻は惚れ直すぞ。しかしな、あえてこう言おうではないか。だが断る! 寝ている夫に性的なイタズラするのは妻の権利であり義務だ!!」


「お前がクライマックス級にバカなのは分かってる。もういいからとっとと風呂でも入ってこい」


「わかったわかった。妻は仕事の疲れを癒す為に風呂で汗を流してこよう」


「そうしろ。んじゃ、俺は寝るから」


「何を言ってるのだ。勇は妻と一緒に入浴するのだぞ。夫婦は私生活では一蓮托生、運命共同体ではないか」


「俺はもう済ませたんだよ」


「二度風呂も悪くはないぞ」


「しねぇよ。そんな面倒な……」


 そう言いかけ、勇は自分の身体が幾重にも鎖で縛られている事に気づいた。


 いつ入室してきていたのか、彼の周りを馴染みのある筋骨逞しい女ミノタウロスと鋼鉄の塊な女ゴーレムの混成集団が囲んでいた。手には樫の木を削り動物の皮で補強した棍棒や電磁銃が握られている。


「なんでこういう時に限って隠密性高いわ手際いいわなんだよ。もっとそのスキル有意義に使えよな……」


「妻にとって勇を確保するのは充分有意義だが?」


「軍隊の一つや二つ滅ぼせそうな面子にこんな事やらさせるのを有意義と言うかお前。大体なぁ」


 勇の文句はそこまでであった。


 更に言い募ろうとしたが、女ミノタウロスらが棍棒で大魔王の婿を滅多打ちにし、ゴーレムが電磁銃の引き金を引いて気絶させる。力任せに殴られた箇所から鈍い音を立て、勇は声も無く床に倒れこんだ。


「ご苦労。では我が夫を丁重に浴室まで運べ」


 主君の命を受け、彼女らは沈黙した勇を恭しく抱えあげて寝室を出て行った。






 出会いは美しいものではなかった。


 逃げに逃げ、それから幾日が経過したときには、自分はどこかの岩場にある小さな平地で倒れていた。


 服はボロボロで身体は手足を中心に傷だらけ。何日も風呂どころか水浴びもしていないので全身から不衛生な臭いが漂っているのを自覚していた。


 何日もロクな眠りをとっていなかった目は赤く充血しており、死んだ魚の目よりも酷い目をしていたことだろう。自分でも解るぐらいにやせ細っており、難民のような有様であった。


 仰向けに倒れ、手足を投げ出したまま動かない。動けなかった。食べ物も水もまったく摂らずに歩き続けた結果がこれであった。


 青空はなく、雨雲が空に満ちていき、やがて雨粒が全身を打ってきた。


 久方ぶりに大量の水が飲めた喜ぶは湧き上がらなかった。


 そんな感情も意思も摩滅している。雨の冷たさだけが無慈悲に全身を濡らしていく。


 背中が泥に浸っていくのを無視して、死に体な自分が考えていたことは、懐かしさ募る自分の世界でも、責務を果たせない無念でも、ましてや至近に迫った死でもなく、不条理に対する憎悪だった。


 なんで俺がこんな目に。


 なんでおれだけが。


 なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。


 なんでだよ!?


 全てが恨みの対象に映った。今ならば可能なら全て塗りつぶして消し去ってしまいたいと心底思った。


 動けない自分自身すら憎悪すべきものだった。人知れず野垂れ死ぬ自分は何だったのか。こんな程度の奴だったのか。呪えるならなんでもよかった。呪うだけが、生を繋ぎ止めているか細い糸のようだった。


 このまま憎悪と呪詛に身を焦がさせながら死んでいくのかというときに、アイツは俺の前に姿を見せた。


 これが終わりの始まりというべきか、それとも始まりの終わりというべきか。


 どちらで言い表すにしても、その光景は今も心に焼き付けられている。




 「コレが、勇者か?」




 アイツの第一声は、興味本位剥き出しにした朗らかな声だった。







 意識を覚醒させたとき、勇は熱い湯の中に居た。


 気分を落ち着かせる香草の匂い漂う石造りの浴室は、魔界を統べる大魔王にしては慎ましい広さであった。


 慎ましいといっても、一般的な銭湯の大浴場並の広さを誇っており、夫婦一組だけで使うには広すぎる場所だ。


 今までの人生でこのように広い浴室を個人で使った事の無い勇としては、自分の居る所に違和感を覚えてならなかった。


 生まれたままの姿で風呂場を漂っていたが、銀髪の女帝が姿を見せていないところ気絶して差ほど時間は経過していないらしい。


 力なく手足を伸ばしながら、勇は立ち上る湯気を見上げる。


「人の意思お構いなしかよ。変なとこで専制君主面しやがってあんの馬鹿銀髪」


 同時に、自分の置かれている立場が御伽噺に出てくるお姫様のような立場に酷使している事に改めて気づかされたようで、情けなさに笑うしかない心境であった。


 湯船に身体を浸らせながら、先程殴られた箇所を手でなぞる。触ってみたところ、小さなコブが幾つか出来ていたが、致命的な傷は一つもないようであった。


 大した怪我がないことを確認して安堵したものの、勇はふと、新たに湧き上がった疑問に首傾げざるえなかった。


 勇者時代に鍛えれるだけ鍛えたとはいえ、ミノタウロスやゴーレムから棍棒で殴りつけられたというのに気絶させられただけで済んでいるのは、思えば異常なことであった。


 己の打たれ強さ、生命力に驚嘆すべきなのだろうか? 


 勇者として異世界へ召還される前までは、身体能力や耐久力は人並みだった。どこにでも居るありふれた人間だった。それが今や勇者を経験して大魔王の婿という身の上。


 今更ながら、勇は自分の事を考えてみた。


 異常ともいえるあらゆる能力の開花及び飛躍、無かったに等しい魔力の発現、思考や感覚の鋭敏化、時折自分でも抑えきれない攻撃性の発達。


 これらは命懸けの苦難の末に覚醒したとか、選ばれし者の底力という説明では納得出来ないものであった。


 今までの自分を卑下するつもりはない。


 しかし、良くも悪くも突出したものがなかった自分がここまでこれた事を訝しんでもいいのではないだろうか。今まで疑問にすら思わなかったのが奇妙なぐらいだった。


 異世界へ来た頃は、最下級の魔物一匹倒すのにも苦労していた。魔法なんてまったく使えなかった。初めて持った鉄の剣がとても重く感じていた。


 弱くて、無力で、愚かで、自信も無くて、惨めな気分を常に引き摺っていて、目と心だけは理不尽と無情に対して怨嗟に満ちてギラギラしていて……。


 いつから自分は名実共に勇者として戦えるようになったのか思い出せないぐらいに、あの頃の自分は己の身を護ることすらおぼつかないぐらいに弱くて余裕がなかった。


 あの頃の自分を思い出し、苦い気分が込み上げてきた勇は、沈む気分を振り払うように、手で湯をすくって頭から浴びた。頭部に流れ落ちる熱さが気持ちを現実に引き戻す。


 思い出せない事で気分を沈ませるよりも、明日からはしばらく愚妻が家を空ける事へ想像の翼を羽ばたかせるほうが精神衛生的に良いと考え直す。


「アイツが居ないうちに脱走準備して逃げ出せたらなぁ」


「勇はまだそんな事を言っているのか」


 耳元を嬲るように囁きかけられ、勇は軽く身震いしたが、声の主が誰かは分かっているので振り向きはしなかった。


 いつの間に来たのか、セリスも勇と同じく何も身に着けていない姿で浴槽まで接近していたのだった。


 夫が振り向かないので、淡白さに不満を持ったセリスは相手の首に手を回して背中から抱きすくめる。


 勇は柔らかな感触を背中へ直に感じ、鼓動が少し早くなるも、このテの触れ合いには慣れ始めていたのでそれ以上動揺することはなかった。


「勇の身体は熱いな」


 勇の耳に息を吹きかけながら、セリスは言葉を続ける。


「不屈の精神は流石勇者。妻はそんな精神を叩き折って、傷心の夫を慰めるのが大好きなイケナイ妻だったりする」


「お前はそういう流れを絡めないと会話一つ出来ないのかよ」


「勇の暴言交じりのツッコミと好い勝負と思うぞ」


「競うつもりは毛頭無いんだよ」


 そこから会話は途切れ、浴槽で寄り添った姿のままで、二人は沈黙していた。


 ゆっくりと落ちる水滴の音と、高い天井には湯気を外に逃がすために小さな窓が有り、開けられているそこから風のざわめきの音が流れて聞こえる。


 それ以外に二人の鼓膜を叩くものはなく、静寂が薄暗い石造りの浴槽を満たしている。


 湯煙に包まれながら、何かするわけでもなく、何を話すこともなく、互いの熱を感じあう。


 セリスが勇の熱さを感じたように、勇もまたセリスの熱さを感じていた。


 人のぬくもりとはこんなに熱いものなのか。彼女とこうして触れる度、勇はそう思わずにいられなかった。


 当たり前と思っていた事に新鮮さを覚える自分が居る。心地良い熱さは、もっと感じていたいという欲求が湧き上がってくるぐらいに心和ませる。


 先ほどまで体内を暴れていた熱い疼きも、完全ではないが散らされていく。まるで欲求を満たされた獣のようだ。


 そこまで考えて勇は我に返った。我に返ると、自分の状況に僅かに羞恥を覚えてしまう。


 温もりに落ち着きを感じる自分を振り払おうと、勇は迷惑そうな表情を浮かべ嫌そうに口を歪めた。


「あんまくっつくなよ。色々当たってんだから」


「浴場で欲情したか?」


「ストレートすぎる上に寒い駄洒落かよ。世界治めてる王の語彙はどんだけ可哀想なんだ」


「よいではないか。夫婦なのだから気にすることはなかろう。妻はいつでも求めに応じられるようにして勇の世界の文化を勉強したのだぞ。例えばだな、泡マットプ」


「よし、それ以上言ったら湯船に沈めて溺死させるぞ。ったく、健全な青少年に過度な刺激を与えてる事を自覚しろよ色ボケ」


「健全? 健全かのう。まぁある意味健全ではあるかな。勇の腕白坊やなどは」


 意地悪気な口調で下世話さを隠す気もせずに言うセリス。勇は小さな舌打ちを立てただけであった。


 勇は肩越しにセリスの首筋に視線を移動させる。


 穢れ一つ見当たらない肌に生々しく残る醜い傷がそこにあった。


 何者かに噛まれ、血肉を抉られたように噛み切られたような無残さがあった。


 完成された美術品に修復不可能な傷をつけたかのような、無粋で不釣合いな傷。


 初夜から始まり、何回何十回と肌を重ね合わせてきた。


 自分から求めずとも、銀髪の大魔王は勇を求めてきた。


 相手が並の人間以上に腕力があるとはいえ、男女では体格に差がある。身長では頭一つは上でもある。拒絶しようと思えば出来ない道理ではなかった。


 それでも、最後には流されるがままに身体を貪り貪られていく。自らの欲求への素直さ自制の効かなさに最初の頃は自己嫌悪したものだった。


 快楽と嫌悪に揺れる中でも、首筋にある噛み傷が目に留まっていた。それほどまでに、印象的なものだった。


 あんな所に何故あのようなモノがあるのか。初めて見て以来、傷の由来が気にならないといえば嘘となる。


 口に出せないのは、関心を持ってくれたと喜んで付け上がるのが目に見えてるからだ。


 喜ばせる義理は無い。好奇心よりも自尊心が勝った。


 ただ、今だけは考えを変えた。


 しばらく、いや上手くいけばこの先会わずに済むかもしれない。ならばと、勇は最後の優しさと割り切って訊ねてみた。


「なぁ、前から気になってたんだが、その首筋の噛み傷はなんだ?」


「……やんちゃなケダモノに噛まれた傷だ」


 珍しく即答せず、セリスはしばし沈黙した後に口を開く。勇は軽く目を見開いて驚きを表した。


「ほー、命知らずなケダモノも居るもんだな。つうかさ、その傷痕消そうと思えば消せるんじゃないのか? 魔法なりここの医療技術なりで可能だろそれぐらいは」


「そうだな……妻は珍しくこのような傷を負った。しかし傷は消そうとは思わない。傷をつけたケダモノを忘れるつもりもないな」


「ふーん、そうか」


 軽い調子で受け流したものの、勇はセリスが台詞を言った時、彼女の表情が真摯さを帯びていたのを見逃さなかった。


 セリスにとって、その傷と傷をつけた存在は余程忘れられないものらしい。


 一体どんな相手だったのだろうか。


 大魔王に傷を残させる程だ。かなりのものだったのだろう。


 自分などよりも、忘れたくない存在なのだろうか。


 自分の付けた傷よりも意味のあるものなのだろうか。


 何か面白くない気分に捕らわれ、知らず知らずに勇は肩越しに傷痕を凝視していた。それに気づいたセリスは口端に笑みを刻んで勇の肩に顔を乗せた。


「気にしてくれてるのか。それとも嫉妬か?」


「誰がお前みたいなのに嫉妬するかよ」


「フフン、勇もなかなか可愛いところがあるではないか。妻はそういうデレを期待しておったぞ」


「ちげーよ。折角首筋に噛み付いたクセに殺しそこなった間抜けはどんな顔してるのか気になっただけだよ」


「素直じゃないな」


「黙れ。心からの言葉だ」


 苦々しげに呟き、勇はセリスの密着を振り払おうと身体を動かした。


 湯が跳ね、水面に大きな波が作られる。


 振り払われたセリスは諦めることなく、今度は位置を変えて勇の傍らに身を寄せ、再び顔を肩に乗せてきた。しつこく甘えてくる相手にげんなりした勇は大仰な溜息を吐く。


「こんな奴が魔王で統治者とか、民衆はどう思ってるんだろうな」


「勇よ。個人の人格は大した問題ではないぞ。重要なのは如何に民衆へ安定した利益を与えられるかだ。面白味はあっても無為無策で暗愚な統治者は嫌われるのはどの世界でも同じこと。妻は有能だからどんな言動をとっても有能な面白味のある人物として支持されてるのだ」


「自分で有能とか言うか。てか、つい最近異世界で俺に負けたのは失策じゃねぇのか」


「確かにそれに関して非を鳴らされないわけではない。しかしな、世の中に完全とか完璧などないのだ。妻とて時には失敗もするし判断を誤る事もある。失敗を正当化する気も意見を押し付ける気もないが、過度に揚げ足取るかのようなマネは妻の目が黒い内はさせない」


「左様でございますか」


 熱の無い口調で勇は応じた。


 独裁を振るう者として重みのある発言ではあるが、この世界の政治に関わりの無い勇には深い感銘は与えず、寧ろ改めて周囲の自由さ-大雑把ともいう-に頭を抱えたくなるのだった。


 長い時間湯に使ってのぼせはじめてきたのを感じ、勇は頭を左右に振りながら浴槽の縁に手をかけて湯船から這い出した。


「明日早いんだろ。さっさと上がって寝たらどうだ」


「うむ。妻は確かに明日は早い。なにせゲートの安定は国の安寧に関るからな」


「忙しいな。まっ、腰据えてゆっくり時間をかけて気長に解決してこいや」


「うむ。後腐れないようしっかり解決してくるぞ」


「……なんかやけに聞き分けいいな」


「そうか? 勇の気のせいだろう。妻はいつでも国と民衆に対して心砕いているからこそだぞ」


「はいはいわかったわかった」


 浴槽から抜け出そうとする勇の手をセリスは掴み、自分の方へおもいっきり引っ張った。


 手を引っ張られ勇は上がりかけた湯船の中に再び身体を沈める羽目となる。


 盛大な飛沫と音を立てて浴槽に入った勇は抗議しようと叫びかけたが、湯から顔を出した瞬間、セリスに正面から抱きすくめられた。美しく整った胸に顔を埋めることとなり、息苦しさに呻きしか漏れない。


「寝るのはいいとして、その前に妻は勇分の更なる補給をしておきたい所存だ」


「ナズェゾンナゴドズゥルンダヨ!? イイガラネェロヨ!(何故そんな事するんだよ!? いいから寝ろよ!)」


 夫の主張に、妻である銀髪の大魔王灰と愛しげに指で勇の髪の毛を梳きつつ答えた。


「妻は勇が欲しい。勇は私の物だから私が求める時は求める。それが理由じゃ駄目か?」


「ウザゲンナ! ゴドズゲベバオウ!!(ふざけんな! このスゲベ魔王!!)」


 浴室を通りかかった見回りの兵や夜勤担当の女官らは浴室から婿殿の怒声とも悲鳴ともつかない声を聞きつけたが、やがて声は途絶えたので顔を見合わせてその場を足早に立ち去っていった。


 奇妙な関係の夫婦の夜はこうして過ぎていくのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る