第五章「人間来ちゃったけどいいよね? 答えは聞いてない!(その1)」
この世界の事を何も知らされずに放り出されたときの不安をどう表現すべきだろう。
解り易く説明するなら、知り合いも馴染みもない遠い土地へ他者の都合で転校させられた学生が抱く不安を何倍何十倍と増幅させたかのような。
未知への期待よりも不安や恐れが心を占めて、訳も無い異様な孤独感や苛立ちが湧き上がる。
何故自分がこんな所に居なければならないというやり場の無い今更な怒りともいうべき感情。
国内どころか外国ですらない。地球ですらない別の世界で、訓練も教育もまったく受けずに鉄の剣一本と、頼りない皮と鉄で作られた防具と小さな袋に詰まった金貨と僅かな食料だけ持たされ、追い立てられるかのように城の外へと出て行った。
羊皮紙に書かれた簡単な地図を片手に広大な自然をの中を歩く。
生まれ育った世界とはまるで違う風景に心弾ませたのはほんの僅かな時間。それが過ぎ去れば、心を侵食するのは不安と恐怖だった。
右も左も解らず、一応は整備されている道を歩き続けても、人っ子一人見つけることは出来なかった。
見かけたところでどうするわけでもなかったが、それでも誰にも会わないよりはマシだと思っていた。
堅く冷えたパンと塩辛い干し肉をかじりながら、これからの自分を考えた。勇者としての責務がどうとかではなくて、今日明日生き延びられるかという心配ばかりしていた。
初めての野宿。
火を起こすのにも多大な時間を掛けるような奴が大魔王というのを倒せるのだろうか。
そんな疑問を持ちながら焚き火にあたる。電気の無い世界の夜は、月と星の輝きが一段と輝いているけども、気休めにしかならないぐらいに頼りなく地上の闇を照らしている。
炎が照らす範囲でしか物が見えず、獣の遠吠えを聞きながら、自分は悪い夢を見ているのだと現実逃避にもならない虚しい呟きを口にして眠れぬ夜を過ごした。
十日―自分の感覚で判断してのことだ―が経過した。
道が無くなり森の中へ迷い込んだ。
どこを見渡しても道らしい道はが無い。道なき道を迷う間に食料が尽きた。動物が食べていた木の実を食べても腹の足しにもならず、空腹を抱えて人の手が加わっていない自然をさ迷い歩く。
初めて魔物と遭遇したのはそんな時であった。
知性の欠片もなく本能のままに活動している下級の中の下級な魔物であったが、この時の自分にとっては、獰猛な化け物に違いは無く、生命の危機を骨の髄まで染み渡らせるには充分だった。
牙を剥いて襲い掛かる魔物相手に鉄の剣を無我夢中に振り回す。
剣など習った覚えがなく、ただひたすら喚き声をあげて振り回すだけであった。
そんなものがマトモに当たるわけもなく、逆に隙を突かれて叩かれたり引っ掻かれたりして傷を負った。
防具のお陰で軽い傷で済んだけれども、痛みと恐怖が頭を支配して必死に逃げた。唯一身を護る武器を落としても拾う余裕もなく、ひたすら逃げた。
無力に打ちのめされ、惨めな思いのあまり涙が出た。
同時にこんな理不尽に対して憎悪を募らせた。
俺が何をしたんだ。
なんでこんな惨めな思いをしなければならないんだ。
俺がどうしてやらなければいけないんだ。
俺は何で今ここに居るんだ!?
誰も居ないことがこんなにも重く圧し掛かるとは想像したこともなかった。「人は一人では生きてはいけない」という一般論がこんなにも苦味を持った味わいをしていたとは気づかずにいた。
逃げて逃げて逃げ続けた。
物音一つにも怯えて、魔物との遭遇を恐れるあまり、火すら起こさずに岩場の窪みに身を潜めた。
それでも寝ているところを襲われると信じて疑わなかった。眠ろうともせず、眠気がくれば己の身体を岩に叩きつけてそれを散らした。一日だけで無数の傷が出来た。
血が流れても、涙は出なくなっていた。
心が黒に塗りつぶされていくとはこういうことなのだろうか。
あの時の自分はそんな事を考える心も失せていた。
誰でもいいから自分を救って欲しかった。
縋れるのなら悪魔にでも縋りたいという想いだけが淀んだ炎を灯していた。
広大な屋敷の一角にある庭園。
そこは機械類はおろか人工物の類を置いておらず、自然のままの姿が残る場所であった。
枯れた草木が多い魔界で数少ない緑多い茂るこの場所は「緑林園」と見たままの名で呼ばれている。
緑多い茂る草木だけでなく、幾種類もの花々も咲いており、手を加えられていない生命の美しさが大地に彩を添えている。
貴重な植物は重要な式典において重宝されており、勇とセリスの結婚式が行われたときに使われた花もこの庭園にて摘まれたものであった。
枝に止まっているのは愛らしい小鳥ではなく鳥類の魔物であるので、華やかさはいまいつつといったところであるが、荒涼たる土地においてここだけは別世界のような風情がある。
庭園内にて一際巨体さを誇る大木の下、二人の男が立っていた。
剣を握って居る黒髪黒目の青年と、青年と同じ黒髪と翡翠色の瞳をした紅顔の少年。一方は麻とコットンで作られた動きやすい服を無造作に、もう一方は執事服を隙無く着ている。
「今朝もにぎやかなものでしたな。毎日楽しそうで何よりです」
「冗談はよしてくださいよ……」
執事姿の少年の朗らかな感想に、勇は鉄の剣で素振りをしながらげんなりとした声で応じた。
執事は名をケィル・べロスといい、大魔王セリスに仕え、屋敷の一切を取り仕切る執事であり彼女が幼少の頃は守役として傍らにいた人物である。
少女と見間違える程の幼い容姿をしているが、先代の頃から側近として仕えている年長者であるという。親の代から仕えているこの人物を、セリスは「じいや」と呼んで信頼を寄せていた。
白百合のような清楚さを醸し出している、年齢を感じさせない中性的な容姿をした執事をセリスはこう言って勇に紹介したものだった。
「じいやは男でも女でもない『第三の性別』をした有能な執事だぞ」
「有能はいいとして、なんだよ第三の性別って。そりゃ外見と年齢の差が激しいし女の子に間違われそうなぐらい綺麗な顔してるとは思うが」
「第三の性別とはな、ホラ、勇の世界の小説やアニメでそういうキャラ居るではないか。性別を超越していてそれ故に男の理性を惑わせる魔性の輩が」
「生憎とオタク趣味は持ち合わせてないんでな。まったく意味がわからん」
「観た事ないのか? ダブルオ……」
「黙れ」
「読んだ事ないのか? バカとテス……」
「もういいから黙って色んな方面に土下座して死んでこいサブカル大魔王。著作権の三文字学習しろや」
このようなやりとりがあったが、勇はまったく理性が惑わせることもなかった。
ケィルは黙って立っていれば確かに年齢や性別を感じさせない外見をした中性的な人物である。
しかし性別を男とハッキリ感じさせる要素が彼にはあった。故に「第三の性別」とやらには当てはまらないと勇などは思っている。
それは声である。
声だけは、年齢相応の低く重みのある声をしており、外見とのギャップは凄まじいものがあった。多少の事では動じる事がない勇者も、初対面時に直面して動揺を顔に出さないようにするのに苦労を強いられたものだった。
けれども今ではすっかり慣れたもので、今では数少ない話し相手として会話を交わしている。
ケィルの温和で物腰穏やかな言動や、魔界で数少ない外見上は人間そのままな姿が勇の警戒心を多少なりとも緩める要素となったからでもあるが、勇が屋敷の外に一人では出歩けない故に会話する相手も自然と制限されてくるというのもあるのだった。
故に身の回りの世話で常に近くに控えている執事とは顔を合わす機会は多いのだ。
朝食後、セリスは近衛衆を伴って政務を行う為に城へ出仕していった。
統治者としての仕事は途切れることなく、多忙でない日はなかった。気楽な学生と、日々魔物を倒すだけであった勇者の二つしか経験したことのない勇には彼女の大変さを頭で分かる程度であったが。
彼にとって実感を持って理解出来る事は、セリスが自分の傍に居ないということだった。自由に行動できる貴重な時間であるのだ。
居ない隙に逃げ出そうと考えたのは当然のことであった。けれども、今はこうして剣を手に持ち素振りをしているというのは、勇の逃走が失敗に終わってるからに他ならない。
「勇様も飽きもせずによく逃走を試みますね。セリス様から逃げ出されたとしてもすぐに捕まってしまうというのに。なにせここは魔界。全てとは言いませんが、この世界に住む者は大魔王陛下の下僕であるのですから。勇様の世界の単位でいうならば、99・9%はそうなりますかね」
「分かってますよんなことは。でもまずあの銀髪から逃げ切ってからの話ですがね」
「そもそもその時点でご無理でしょうね」
さも当然のように言われ、勇はケィルを睨みつけた。執事は穏やかな微笑を浮かべて平然とした風である。
勇はこの三ヶ月間出来る限りの脱出を試みてきた。
それは尽く失敗に終わり、その度に逃走を阻んだ妻に口で言うのも憚れるようなお仕置き(性的な意味で)を受けてきた。今朝の朝食の席での仕置きはまだマシな部類である。
セリスの追跡を振り切れたとしてもここは魔界。全土が相手の本拠地である。すぐに追っ手はかかる上、支配者である大魔王に逆らってまで匿ってくれるような物好きは存在しないに等しい。
仮にヘルアンドヘブンゲートまで到達出来たとしても、交通流通の要である巨大時空転移装置には質量共に充実した守備隊が待ち構えている。
おまけにゲートを開くには様々な条件が必要となるので準備に手間取っている間に捕縛されてしまう可能性は大であった。
脱走を考える事そのものが非常識。
そう嘲笑されても仕方がないというのは勇にも理解出来る。
それでも彼はなんとか逃げられないものかと悩む。まずは自分の妻から逃げる事に成功しないと始まらないのだから。そして成功率を上げようと、暇さえあれば様々な鍛錬に励んでいる。
あまりにも真剣に思い悩んでいる勇を見てケィルは小首を傾げたものだった。
「それほどまでににセリス様のことがお嫌いですかな」
「嫌いです」
素振りを止めず即答する勇。
「そもそもアイツは大魔王で俺は勇者ですよ? 俺がなりたくもない勇者になったのも、アイツを殺して自分の居た世界に帰りたかったからです。それがなんで婿なんぞになって魔界に居ることになるのやら」
勇は情けない気分になった。異世界では「雷電の勇者」と呼ばれる程の男が、逃走一つ叶わない現実に気落ちしてしまう。
「殺しても死なないような奴ですからね。どうやればあの馬鹿を殺してやれることやら」
「おやおや、そのような物騒なお話はあまりなされない方がよろしいですよ。ランスロット辺りが聞いていたら軍を動かして勇様を抹殺しに来ますからね」
「……」
穏やかな雰囲気を漂わせる執事を前に口を緩ませていた勇は口をへの字に曲げて沈黙した。確かに、魔界の住人の前で統治者を殺すと放言するのは危険であった。
そうでなくとも勇の立場は微妙なものであったのだ。
異世界に侵攻してきたのは向こう側からとはいえ、勇が勇者をやり始めてからの二年間、今まで殺してきた数は万単位である。
それも思い出せる限りの数であり、実際は更にいるであろうと言われている。シモ・ヘイヘや項羽や呂布も驚きのスコアといえるかもしれない。
魔物や魔族とみれば見境なく殺してまわり、各地を占領していた軍を幾つも壊滅させ、大魔王を相打ち寸前まで追い詰めた男。
異世界では英雄だが、ここでは今朝ランスロットが言ったように殺人鬼と同列であった。
しかし怨まれている一方で、勇を受け入れる声も多かった。
彼の行為も戦いによるものであるから生死に関して責めるのは筋違いであると主張してくれる勢力も居た。
何より、絶対的支配者である女帝陛下の婿であるから多少の非難も黙殺される空気が出来上がっているから声が上がらないというのもある。
現在の支配者に意見を言える数少ない存在である先代魔王も婚姻を認めたことで大勢は決していた。
それ故に、勇の扱いは腫れ物に触るかのような余所余所しさはあるものの、割と不自由のないものであった。ランスロットの露骨な敵意も黙認されているところを見ると、その程度は大したものではないと思われているようであった。
逃げる以外にする事もない勇は、テレビを観るか本を読むか、どちらもしない時は剣を片手に鍛錬に励んでいる。いついかなるときでも実力で重囲を突破できる技量を少しでも維持しておかねばならない。
異世界に居たときのように魔物を倒しながらというのは不可能で、出来ることといえば黙々と素振りをすることと。
「さて、身体も大分温まってきたし、そろそろお相手願いたいんですけど」
「非才な身でありますが、私でよろしければ」
ケィルは木の幹に立てかけていた鉄の剣を手に持ち、勇と相対した。
人を相手に練習することであった。
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