第一章「勇者と大魔王が結婚したらごらんの有様だよ!(その1)」

 始まりが終わった瞬間から終わりの始まりとなる。


 意識が落ちようとする寸前、最後に五感が訴えてきたものは、甘美な悦楽。


 紅い液体が喉から体内へと焼きつくように流れる中、聴こえてくるのは喜悦か狂気の声か。

 


 オマエハ、エイエンニ、ワタシノモノダ。



 艶かしいウィスパー。鉄錆のような血と唾液が混りあう、貪るような口づけ。



『ヤクソク』ダ。ワスレナイヨウニナ。



 気の遠くなるような陶酔がトドメとなり、意識を深淵に叩き込こまれていった。





 

 意識が引き上げられたとき、絹のシーツの感触を肌に感じた。


 柔らかな羽毛とスプリングのソレと共に、そこがベッドの上だったということを認識する。


 桜上 勇は軽い戸惑いを覚えたが、そう長くはなかった。自分は夢を見ていたのだとすぐに悟る。


 身体全体に重みを感じたて気だるげにうっすらと目を開けると、眼前には、彼に圧し掛かって唇を寄せてくる女の姿があった。


 透き通るような銀髪の髪、磨き上げられた宝玉よりも輝きのある銀色の瞳が印象的な、誰もが見惚れるであろう秀麗な顔立ちをした美少女。


 無駄のない、出るとこは出て引っ込むとこは引っ込んでいる、ひ弱さを感じさせないしなやかな身体。


 丹念に磨かれたような玉の肌だが、鎖骨と首筋のちょうど中間に、獣に噛まれたかのような無残な噛み後があり、そこだけが完璧に限りなく近い美しさを損なわせていた。


 精巧と繊細が調和した肢体は白いシーツに包まっただけの扇情的なもので、それが勇に覆い被さっている。


 これから行おうとしている行為に興奮していて勇が目覚めてるのに気づいてないのか、女は艶やかな紅い唇を少しずつ彼の唇へと近づけていく。


 芳しき吐息が鼻にかかる。柔らかく温かな感触が胸に当たり、鼓動がシーツ越しに伝わってくる。瑞々しい白い肌が密接に重なり体温が高まる。しなやかな銀色の髪先が頬をくすぐる。


 健全な男子ならば、このシチュエーションに興奮のあまり動転したであろう。


 しかし、勇は興奮も動転もしなかった。小さく溜息を吐き、面倒くさ気にキングサイズベッドの枕元に置いてあった大理石製デジタル式置時計を手に取り。





 力の限り女の顔面に叩きつけた。





 肉と骨が潰れる不気味な音を立ててベッドから転がり落ちる女。


 血やらなんやらを撒き散らして床に落ちた相手に対し、勇は声をかけるでもなく、上半身を起こし薄暗い天井を見上げて意識を覚醒させようとする。


 夢を見るのは久方ぶりなものだ。と、彼はぼんやりとした意識の中で思った。


 ここに来て以来初めてだった。なにせ毎日夢を見ないぐらい疲れ果てて眠ってしまっているのだ。


 それにしても自分はどんな夢を見たのか思い出せない。


 何か覚えのある光景だったような気する。所詮は夢なので大して引きずりはしないだろうが。乱暴に髪を掻きながら勇はあっさりと結論を下す。


「思い出せない程度の夢だったってことかなこりゃ」


 起きぬけで喉の渇きを覚え、ベッドサイトに置かれているコップとミネラルウォーターの満たされた水差しに手を伸ばし、水をコップに注ぎ一息に飲み干した。


 喉を潤し、喉から体内に水が染み渡るのを感じながら、勇は床を横目に見る。


 床には置時計だったものの欠片が散乱しているだけであった。


 床に落ちた相手は、威風堂々と表現したくなるようなふんぞり返った姿勢にて、硬い大理石をモロに喰らった筈なのに傷一つ無く勇を見つめていた。


「ははははっ! おはよう愛すべき我が夫よ! 今日も朝からキレの良い愛の鞭を貰って妻としては真に幸せ絶頂な始まりである!! だが欲を言うならいい加減おはようのチューぐらいはさせてくれたら、朝から色んなご奉仕をくれてやってもいいのだぞ?」


 壊れた置時計を片手に、女―セリスは、夕の行動に怒るでもなく豪快な笑い声を上げた。


 秀麗さを誇る顔いっぱいに蕩けるような愛嬌を乗せ、彼女は再び勇の傍らに腰を下ろす。さり気に腕を絡ませて身を寄せてくる。


 暑苦しさを感じて眉を顰める勇に気づいてないのか、はたまた気づかないフリをしてるのか、彼女の饒舌は止まらない。


「どうしたのだ? 催眠魔法にかかったような腑抜けた顔をしておるな? 朝から陰気な顔はよくないぞ! これは妻として見過ごす事は出来ないな? 夫を奮い立たせなければいけないな!! よしとりあえずおはようのキスをしてみようか。朝一番から妻との体液を混ぜあいしてみればきっと色んな部分が元気になると思うのだ。やってみる価値はある。だからこの妻に狂おしい接吻を! 情熱的なチューを!! 甘美極まるキッスをおくれ!!!」


「うるせぇ!」


 一流の楽士が奏でるハーブのように透き通るような溌剌とした声であるが、耳元で大声、おまけに寝起き直後に言われると騒音に等しい。


 堪りかねた勇は口の中で素早く呪文を唱え、威力を最低限に抑えた雷撃魔法をセリスに零距離で叩きつける。


 最低限に抑えたとはいえ、部屋全体に爆音が響き渡り、ベッドの半分が灰燼と化した。


 シーツも半ば焼け落ちあられもない姿をさらして床に這い蹲っている自称妻を、勇は情け容赦なく蹴り倒した。


「毎朝毎朝テンション高すぎ! そっとしてくれるか、せめて静かに起こせよ! つーか何で何も着てないんだよ!? 健康法? 健康法のつもりなわけ!? お前は健康番組観た次の日には紹介されてた食品買いに走る健康マニアか!」


「あぁっ、愛すべき夫から受ける容赦ない仕打ち! この素肌に与えられる痛みの一つ一つが愛なのだな! 流石は勇。我が夫は朝からドS全開で妻を責め立て感じさせようとは。痛みのあまりゾクゾクと快感に打ち震えてしまうぞ! 淫らな妻ですまない、愛しい夫の攻めに即座に感じてしまうふしだらな伴侶をもっと罰しておくれ!」


「話を聞けよセルフSM女!」


 踏みつけられて恍惚の表情を浮かべる相手に、勇は髪を掻き毟りながら怒鳴りつけた。


 勇はこのまま肉体を十六分割ぐらいにして殺してしまいたい衝動に駆られたが、残念ながら必死に衝動を抑えねばならなかった。


 踏みつけられて喜んでいる銀髪銀目の美少女に対して良心が痛むというわけではない。


 何故ならば……。


「陛下! 寝室から爆音が聞こえたのですが、また婿殿に何かしでかしたのですか!?」


 異口同音にそう言って寝室に飛び込んできたのは、騎士甲冑姿の骸骨の衛兵や、頭に山羊の角を生えてたり、お尻に爬虫類みたいな尻尾が生えたメイド達。


 人の形をしてればまだマシな部類で、中にはメイド服を着た二足歩行のトカゲや昆虫まで居る。


 誰も彼も驚き半分ウンザリ半分といった顔をしていた。案の定、室内の光景を目にし、肩を竦めるだけで無言のままさっさと出て行ってくれた。


 が、もし勇が足元で喜悦に喘いでいる「陛下」と呼ばれた女を殺害しようとするならば、容赦も躊躇いもなく彼を八つ裂きにしようと襲い掛かるであろう。


 それだけ女がここでは絶大的存在であり、彼の立場は薄い氷の上でゴーゴーダンスから始まりジュリアナダンスとブレイクダンスをコンボするぐらいに危ういものだった。


 勇は吹き飛んだカーテンと窓が存在した方向に目をやる。


 外から見えるのは、小鳥の代わりに掌サイズのガーゴイルが枯木に止まる光景。


 聞こえてくるのは、番犬代わりに庭園を走り回るトラック並の巨体なサーベルタイガーの耳障りな鳴き声と、餌である死肉と呼ばれる死体から直接切り取った肉塊を貪る音。


 血生くさい臭いが風通しのよくなった窓から流れ込み、爽やかな朝というのものは嗅覚の時点で萎んでいた。


 空は灰色の雲に覆われており、遠くで申し訳程度に光が差し込んでいるのが辛うじて見えた。


 ここではこの状態が当たり前だった。人間の感覚でいうなら「快晴」らしいが、勇は未だに認める気にはならない。


 今日も憂鬱な一日になりそうだ。と、外の光景を見ながら勇は不景気な面で不景気な思いを抱いた。


「さて、起きた事だし朝食にしようか。妻の手作りを思う存分貪って今日も一日ハッスルハッスルだ!!」


「……」


 いつの間にか蹴りから逃れ当たり前のように勇の傍らに立つ銀髪の女は、伴侶の不景気そうな顔なぞ気にも留めず快活に笑っていた。


 それは百歩譲って無視するとして。


 一糸纏わぬ姿な妻の手にはいつのまにか鎖が握られており、その鎖の先には、様々なレアメタルを精製して開発されたという魔界製超複合合金「ハイブリット・メタル」で作られた首輪があり、その首輪は勇の首に巻かれていることに、巻かれている当人は事情を問わずにはいられなかった。


「訊ねたいことがあるんだがド畜生陛下」


「なんだ我が夫よ。チューしてくれるのか?」


「キスから離れろ」


 無邪気な笑みに小憎らしさを感じながら、勇は自らの首に巻かれている金属製の首輪を指差した。


「この首輪はなんだ」


「勇がぼんやり外を見てる隙に装着させたのだ」


「んなことじゃなく、なんで俺は首輪付けられてるかと訊ねてるんだ」


「勇が逃げ出さぬようにだ。妻は拘束してもらうのも好きだが、拘束するのも好きなんだぞ?」


「可愛らしく言うな! 皮から始まって銅、鉄、鋼、銀、金、金剛石、ときて複合レアメタルまで使うかぁ!? 軍事用鉱物をなんつーもんに使ってやがる!」


「しかし勇がここに来てから毎朝逃げ出そうとするからイケナイのだぞ。夫の体温と匂いの残るシーツをスーハースーハーするだけの放置プレイを妻は好まん。放置プレイというのはだな……」


「お前の性癖なぞ聞きたくないわ! 毎朝目を覚ましたら裸の女に首輪付けられてるとか、俺にはそんな倒錯した趣味なぞないし、された日には引き千切って逃げ出したくもなるんだよ!!」


「はははこやつめ。まぁそれは置いといて、早く食堂へ行こう。妻は勇に(朝食を)食べて貰いたくてウズウズしておるのだ」


「まて、まだ俺の話は終わって」


 文句を言い切る前に、勇はいつの間にか室内に入ってきていた筋骨逞しい女性ミノタウロス数名に取り押さえられてしまい、全身鉄で固められた人間サイズの女性型ゴーレムに鎖を掴まれていた。


 抵抗しようとしたところ、ミノタウロスらが一斉にが電磁鞭を振り上げて勇の膝へ打ち込んだ。足を中心に全身に痺れが伝わり力が抜けて崩れ落ちる。


 惜しげもなく裸身を晒していたセリスは、鱗肌の侍女が差し出した服や下着を手に取りながら華開くような笑みを浮かべる。


「先に行っていてくれ。妻は着替えてすぐ向かう。勇が妻の羞恥する姿を望むならこのまま行ってもいいのだが」


「それはもうええっちゅーんじゃあぁぁぁ!!」


 食堂に引っ立てられながら、勇はこめかみに青筋を浮かべて叫んだ。応える者はなく、空しく廊下に木霊するだけであった。


 色んな意味でマトモな人間は誰も居ない。


 ここだけではない、この世界において、人間という種族はおそらく彼一人なのだ。


 ここは魔界。


 大魔王が君臨し、魔族魔物悪鬼羅刹妖怪魑魅魍魎が跋扈する混沌と狂乱が蔓延る世界。


 彼は、その魑魅魍魎共の親玉である大魔王の婿として、この地に住まわせられている哀れな男である。






 彼の名前は桜上 勇。今年で十九歳となる健全な青年である。


 生まれ育ちは地球の日本国という国。十七歳までは東京都立善正高校に通う高校二年生として過ごしていた一般人だった。


 彼の生活は何事もない実に平凡な日々であった。


 だがさしたる不満もなく、図書委員なんぞやったり、親しい友人は特にいなかったが、在籍していた2‐Aでクラスメイトらと他愛ない事をしたりしてそれなりに楽しく暮らしていた。


 このまま何事もなく一生を終えるありきたりで変化の無い日々も悪くはないと思っていた。


 始まりはいつも突然である。


 ある日、光が彼を包んだかと思うと、吸い込まれるように空へと消えた。前触れもなく平穏な日常と決別することとなったのだ。


 辿り着いた先は異世界と呼ばれる地球とは異なる世界。


 その一国マックス王国に飛ばされてきた勇は『地の国(地球)から召還せし黒髪黒目の少年が勇者となり闇を打ち払う』という予言に基づいて勇者に任じられ、望んでもいないのに世界の命運を賭けて大魔王を討つという使命を背負って旅立つ事となった。


 大魔王が居て、それが侵略を働いており、それに困ってる王様や国があり、剣と魔法と魔物が存在するという、RPGの基本を抑えたような世界に拉致当然で連れられてきた勇は当然反発した。


 国王や大臣に哀願されても首を縦に振ろうとはしなかった。


 彼は後日苦々しい表情を浮かべて周囲に語って曰く、


「何の変哲も取り柄も無い民間人にいきなり漫画や映画で見るような化け物と戦えって言うんだぜ。自殺願望や自尊心異常に高い奴でない限り普通はやらねぇよこんな馬鹿な事。大体頼む方もどうかしてるぞ。投げっぱなしもいいとこだ。ていうか地球出身の黒髪黒目の少年って随分基準アバウトだなおい!」


 富も名声も、ましてや美女も力もいらなかった。勇はただ帰りたかったのだ。平凡な日常のある己の世界へと。


 そんなこんなで拒絶して幾日が経過し、結局折れたのは勇の方だった。


 マックス王国王女で、民衆からは巫女姫と慕われ、勇をこの世界へ召還した人物であるクゥ・ラーイ・マックス姫の涙ながらの訴えと、自分を召還した装置は呼ぶ事は可能でも他の世界への移動は出来ない。使命を果たさない限り一生帰る方法は無いという事実を聞き、彼は考え付く限りの罵り言葉を呟きながらもやむなく勇者となる決心をつけることにした。


 こうして、勇は「雷電の勇者」という異名を背負い、冒険をして魔物と死闘を繰り広げる日々を送る事となる。


 詳しい経過は省くが、とにもかくにも様々な出会いと別れ、生死を賭けた戦い、幾多の試練など、二年にも渡る苦労に満ちた冒険の末、異世界に蔓延る魔物を魔界へと追い返し、ついに彼は大魔王との最終決戦に持ち込んでいた。


 最初は剣一本振り回すのにも苦労したが、気がつけば一つ目の巨人やドラゴンを張り倒すぐらいに成長しており、自分自身でも驚嘆するぐらいに身体能力が人間離れしていたのを実感した。魔法もそこら辺の賢者よりも扱いに長けるぐらいに扱えるようになった。数百数千の魔物と対峙しても怯まない程に度胸もついた。


 人間必死になればなんでも出来るもんだ。と、魔物の死骸の山に佇みながら彼は考えたものだ。


 しかし現実はというと、必死になればというのは、なんでも出来る可能性があるだけで、なんでも出来るわけではないのだ。


 それを証明するかのように、勇は丸一日にも及ぶ激戦の末、大魔王に敗北してしまった。紙一重の差ではあったが負けは負けだった。


 ここまでの話だけでバットエンドなトンデモ話もいいところであったが、この話には続きがあった。


 彼自身まったく想像つかない出来事が起こったのだ。


 まったく想像出来ない出来事を持ち込んだのは一人の美しき女。


 大魔王を名乗る魔界の女帝セリス・ヴィシャル・ファラ・ル・ド・ダクプリズム十三世。


 魔族と人間では寿命が違うので実年齢は不明であるが、見聞したところでは勇とほぼ同年代の女性。強いて共通を挙げればそれだけであり、それ以外は何もかもが違いすぎていた。


 純度の高い銀のような髪、髪と同じ色をしている生命力に満ちた瞳、白磁のような滑らかな白い肌にしなやかで力強さを感じさせる隙の無いプロポーション、夢魔が百人集まっても太刀打ち出来ないであろう傾国級の容貌と、美的センスに大幅なズレが無い限りは誰しもが「美しい」という感想を抱くであろう美少女。


 容姿だけではない。口元に浮かぶ自信に満ちた笑み、さも当然のように他者を従わせる不敵さを醸し出した所作、そこに居るだけでその場の主導権を独占する華のあるオーラ、配下を心酔させる毅然とした言動など、一つ一つが印象に残るのだ。


 帝位に就く前は群雄の中でも有力な勢力であり、代々魔界を統治してきた由緒正しき家柄であるが、彼女は実力を持って魔界全土の更なる統治を進め、経済や治安、法制度の整備などで実績を上げて民衆の支持を勝ち取った有能な独裁者であった。


 軍事面では六千六百六十六の軍団で編成された四千四百四十三万五千五百五十六名の魔族を配下に異世界へと侵攻してきた大魔王として、侵攻から僅か半年で異世界の半分を制圧する程の手腕を振るった恐るべき女。


 占領した地では無用な殺生、婦女暴行、略奪を禁止させ、公明正大な統治を行うよう厳命して実行させたというから立派と同時に益々恐るべき相手であった。


 差ほど年齢も変わらないのによくやるものだ。と、冒険を始めた頃の勇は他人事のように感心したものだ。


 非の打ち所の無い、大魔王となるべくしてなったかのような存在。


 異世界の人々は彼女を憎みながらも、その華麗さや生気に満ちた存在感を認めずにはいられなかった。


 事実、冒険中にも、魔族の力というより、セリス個人にひれ伏して寝返った人間は少なくなかった。


 そんな美少女大魔王が、何を考えたのか、勇を魔界に連行していったのだ。

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