滴る紅は紺碧の香り

七夕ねむり

滴る紅は紺碧の香り

 紅い橙が緩みはじめ、空が葡萄ジュースを溢したような色と混じる頃。少女は真新しいマンションの前に立っていた。

 左手にはずっしりとしなった花柄のエコバッグ。右手は人差し指を伸ばし、やや出っ張った黒いプラスチックの上。そしてそのボタンをぽんと押した。

 ピーンポーン。

 間抜けな音が鳴って、果たして本当にこれでいいのかと彼女はいつも思う。

「いらっしゃいませ、だ」

 機械を通した籠もった声が、エントランスに明るく響き渡る。どうやらこの家の主人、今日はたいそう機嫌がいいらしい。

 モニターに映っているであろうに、不満げな表情を隠しもせず少女はオートロックの解錠を待つ。部屋の主人の返事から間もなく開いたガラス扉を越え、エレベーターに向かいそれからUターンする。

「郵便物は取れって言ってるのに……」

 苛立った声でそう言いポストに詰まったチラシを、薄く白い手にそぐわぬ力で引っこ抜く。そして空っぽになったポストを切れ長の大きな瞳で一瞥すると、彼女は今度こそ小さな箱に乗り込んだ。目的地は最上階の、三十二階。

 見る限り、ろくに働きもしていない部屋の主人がなぜこんな所に住めるのか。以前、なんとなしに彼にそう尋ねてみたが、この歳になると何かと資産が有り余ってくるのさ、というなんとも腑に落ちない返答が返ってきた。

 それからは彼はそういうものだと、深く考えないようにしている。

 まあ、所詮平々凡々な女子大生には関係の無いことなのだろう。彼へこの手のことに関して詮索するのは疲れるので、少女は無視することにしたのだった。

 瞬きの間に変わっていく電子の数字を、ぼうと眺めていると到着を知らせる控えめなベルの音。するすると音もなく上ってきた箱を降りた。

 目の前から延びている質の良い絨毯をスニーカーの底で踏む。控えめで、けれど決して安っぽくない簡易な応接セットを抜けて目当ての場所へと足を進めた。最上階フロアの最奥の部屋。

 ここが今の彼の城。

 

 ピンポーン。

 再び気の抜けた電子音を鳴らす。

次の瞬間、いつも通りにカチリとロックの外れる音がする。相手を確認してから開けろと、この間注意したばかりなのに。

「やあ、陽菜。いらっしゃい」

 扉を思い切り大きく開けて、部屋の主人は声を弾ませた。小さな玄関の灯りでも、十分に眩しい金色の髪がさらりと流れる。そして髪と同じ黄金の目を爛々と輝かせながら、その人物は彼女を見つめた。

「出来ればいらっしゃりたくなかったけどね」

 そもそも私、いつ名前で呼んでいいって言ったっけ。本人に指摘しても無駄だとわかっていながら、そんなことを考える。

 そして本日何度目かの諦めを思い出すと、陽菜は早く扉を閉めてしまうことにした。

 相変わらず、よく輝く瞳だこと。


 陽菜は溜息を吐きながら、彼にエコバッグを押し付ける。

「台所まで持ってくぐらいはしてください」

「何を言ってるのさ、僕は花より重いものは持てないよ?」

「じゃあごはんの食器も持てないね。よって今日の食事はなくていいと?」

 陽菜がにっこり微笑んで言ってやると、大きなため息をつきながら彼は引きずるようにエコバッグを運んでゆく。

「ロゼ。野菜が傷むから引きずるのはやめて」

 ロゼ、と呼ばれた男はああと返事をしたのち、しかしと続けた。

「多少傷んだとしても、陽菜が美味しく調理してくれるのだろう?」

 だから何も心配はないさ。口角を目一杯に上げて、確信に満ちた声が響く。それがあまりにも美しい笑みだったので、はあ、と陽菜は気の抜けた返事をする。

 こうも様になってしまうのはやはり、人ならざる者だから、なのだろうか。


 陽菜は改めて目の前の男を眺める。一八〇センチは悠に越える背丈、青白く透けそうな肌、明らかに染色ではない絹のような髪。気取った笑みをあっという間に崩した彼は、幼子のように瞳をきょろきょろとさせた。

そう、この男ロゼは一見青年のような姿をしながらも、数百年前より生きているバンパイアであるらしい。……本人曰く。

 夕暮れと共に瞼を開け、朝日と共に眠りにつく。美女の生き血を啜り、闇夜に輝く美しくも恐ろしい生き物──ハロウィン辺りでよく耳にするあの、バンパイア。

 陽菜の語尾にどうしても〝らしい〟とか〝本人曰く〟がついてしまうのは仕方がないことだと言えなくもない。何せ彼女はロゼが血を吸うところなんぞ見たことがないのだ。

 確かに彼は夕方に起き朝に眠るという生活をようだが、それだけなら怠け者の同級生をいくらでも知っている。

 大体このバンパイアには血はともかく、他にも諸々それらしいところがほとんど無い。まあ変なところで恐ろしく物知りである、とは思っているが。

 花より重いものを持てないらしい彼が、その荷物をどさりとキッチンの上に置いた。大袈裟に肩をパキパキと鳴らすのは、疲れていますよという些細なアピールである。

 彼女はそれを見なかったことにした。はあ、と溜息を吐き、もう随分と馴染んでしまったエプロンを身に纏う。

 ここからは陽菜の出番だ。


 缶詰めのトマトを放り込んで、水を適量、ざくざくと野菜を切って放り込む。計量するのは苦手なので目分量。後で味見をしておけば、なんとでもなる。

 しゃきしゃき、ざくざく。大きさがまばらなのはご愛嬌だ。追加の野菜を切りながら、陽菜は頭の中を整理する。

 帰ってまずは課題をしなければならない。今日は外国語の課題が出た。鬼教授だと裏で呼ばれる教授の課題は、その名に違わず目を覆いたくなる量だった。

 それからイギリス史の課題も少し。けれどこちらは問題ない。突き詰めるとやや難ありだが、それも見通しの立てられる範囲。ということはやはり外国語の小論文から手を付けるのが正解か。

 彼女は残りの野菜を粗めに切りながら、ぼんやりとした今日の講義の記憶を手繰り寄せる。最近はこれが習慣と化していることに気づくのはいつもこのタイミングだ。そして、目の前の野菜をひたすらに切り刻んでいる自分に首を傾げた。ああ私、なんでこんなことしてるんだっけ。



 トマトが食せればいいのだと彼は大真面目に言った。

 赤ければいい、けれど特にトマトがいいのだと。どろりと潰したトマトは人間の血に似ているからな、とも。

 丸かった瞳はぎらりと鋭い光を宿したまま、すっと細められる。それは陽菜が知りうる限りとびきり悪い顔で、関わりたくないと思う笑みだった。背中を冷たい汗が流れる。指先すら動かない。

 己は人間ではないのだとその生き物は言った。美しすぎる笑みはただ恐ろしさを増すだけだということを、彼女はこの時に初めて知る。何か言葉を発したいのに、喉の奥に張り付いて出てこない。

 ただ口元を僅かに震わせることしか出来ない陽菜を見下ろして、その生き物はふっと笑った。今度は柔らかい笑みだった。まるで夕焼けのように温かく、彼女はぽかんと口を開けることしか出来なかった。どっどっと音がする。それが自分の心臓の音だということを、陽菜はようやく思い出す。

 止まっていた景色が動き出した。カラスが遠くで鳴いている。

 ある日の夕暮れのことだった。

目の前の人に酷似した生き物はよくよく見たら、自分と大して変わらない年頃の青年に見えて。彼は、柔い笑顔を浮かべながら、眉を下げる。そして一言、子供みたいな声を溢した。

「君、料理は得意か?」 

 陽菜は今でも、あの瞬間だけはよく覚えている。さっきまでこわくて仕方がなかった存在が、困ったような顔で笑っている。へんてこで、恐ろしい存在だった。出来れば関わらないでいたい、のに。

 一つ一つを切り離せば自然なそれは、一連の流れで見てしまうと不自然で不安定だった。試すような表情。投げかけられる言葉。

 ああ、この人は今どんな顔をすればいいのかわからないんだな。

 先ほどの凍てつくほどの美しさはもう形を潜めていて、陽菜を覗き込んだ瞳はよくよく見るとぐらぐら揺れていた。彼女は考える。私、料理は苦手なんだけど。

 陽菜は気がつけば、自らの手を母親のように差し出していた。こわいと思う気持ちは何故だかもう見当たらなかった。面倒なことになっちゃったな、とは思ったけれど。

 生憎と言うか、幸いと言うか。料理と言われて思いつくのは一品だけだった。最近やっと慣れた一人暮らしの中で覚えたのは、簡単なトマトスープだけだったのだ。


 記憶の中の自分に溜息を吐きながら、陽菜はおたまをぐるぐると回す。

 あの時の一瞬緩んだ弱さを見捨てられなくて、結局こんな羽目になってしまった。正直、今でも陽菜は彼がただの奇人ではないかと疑ってさえいるし、そうであるならばいいのにとも思っている。

 けれど彼が言葉にする歴史だとか時代を踏まえた物事の考え方だとかは、陽菜の知っているどの人間が口にするものよりも教科書よりも、妙にリアルなのだ。残念なことに。

 彼は教養の幅が素晴らしく広いようだった。


 野菜がくったりしすぎないよう気をつけて沸騰させたら、コンソメをひとかけら。それから塩と胡椒を少しずつ馴染ませて。仕上げに黒胡椒をぱらりと振りかければ、トマトスープの完成。

 ロゼの食事の完成だった。


 あの日、道端で青い顔をした彼に声をかけた時。こんな未来はもう決まっていたのかもしれないと陽菜は思う。

「僕はバンパイアだ。けれど何も血をくれなんて言うつもりはない。出来ればトマトスープを作ってくれないか? 材料はスーパーにあるだけ買ってきてくれたっていい」

 この広いマンションに陽菜を連れて来るなり、彼は言った。

「大体のことは並より上手くできるんだが……僕は料理だけが全く駄目なのだ」

 長く生きていても苦手なものはあるものでね、と茶目っけたっぷりに言う。それからすぐに、上等な皮張りのソファにぼてんと沈んだ。顔と骨張った手だけがやたらと青白かった。

「君、名前は?」

「…………知らない人に名前は教えないようにしてるので」

 陽菜はそろりそろりと答えた。自身が予想していたよりもしっかりした声だった。

「そうか、残念だ。僕はロゼ」

「…………」

 柔らかそうなソファに沈んだ声が、先ほどより心許なく響いた気がした。

「君、少し親切をすると思って、僕に食事をつくってくれないか? 腹が空いてしまってまともに頭も回らない」

 少しだけ声が掠れていた気がした。こんな不審な人、ましてや人間かもわからない何かを助ける義理も関わる義理もまるでない。……けれど。

「陽菜」

「うん?」

「君じゃなくて、陽菜」

 私が見捨ててこの人がのたれ死んだら、後味が悪い。ただそれだけだ。陽菜はつっけんどんにそれだけ言うと、玄関を飛び出した。

「ヒナ……いい名前だ。太陽の香りがする名前だな」

 その言葉を転がすと、ロゼは眠りに落ちていった。そもそもまだ日が落ち切っていないのに、外に出たのは不注意だった。それは自分でわかっていた。余計な体力を使ってしまった。もう声を出すことすら難しい。


 そうだ、あの時。儚げな雰囲気に流されて、財布を握りしめてしまったのが運の尽き。自分の行動力が恨めしくさえあるわ。陽菜は近くの記憶に一人頷く。

 そうしてあれよあれとという間に彼のペースに乗せられ、ちっとも料理が得意じゃない彼女にしては上出来のスープを差し出して。陽菜のスープを思いの外気に入ってしまったロゼは、陽菜の課題を見ることを条件に、彼のトマトスープ作りを持ち掛けたのだった。


 陽菜はふつふつと煮立つスープをかき混ぜる。もうとうに出来上がっていたそれを、くるりくるりと。

 今自分はどんな状況なのだろうか、などと他人事のように思う。ひょんなことから出会ってしまった血も飲まないバンパイアのために、トマトスープを煮込む自分。

 ありふれた三流小説にでもなりそうな場面だな。こんな、変な日常。

「陽菜、腹が減った」

「はいはい、もう少し待ってて」

 催促の声を軽くいなすことにも、もう慣れてしまった。


「ロゼ、出来たよ」

 そう声を掛けると、足音もなく隣で声がした。

「相変わらず陽菜の作るスープは美味そうだ」

「トマトが沢山摂れるなら、なんでもいいんでしょ」

「さて、それはどうだろう」

 陽菜の言葉に笑って、ロゼはテーブルの上をさっと拭いた。真っ白のボウルを食器棚から出して、出来立てのスープをたっぷり目一杯注ぐ。見なくてもわかる。多分彼の瞳はキラキラと輝いているのだと。

「陽菜も食べるか?」

「まさか。夕ごはんが食べられなくなっちゃう」

 そうかと答え、ロゼはまた音もなく食卓についた。

「いただきます」

 手を合わせる姿は人間そのものだと、陽菜はこの光景を見ながらいつも思う。

「ねえ、ロゼって本当は人間なんじゃない?」

 嫌味のつもりで口にした言葉に、一口スープを啜った彼は大真面目に答えた。

「何を言う。僕は、今や珍しい純血種だぞ」

 あ、口元にスープ付いてる。ティッシュを渡してやりながら、でもさと彼女は続けた。今時のバンパイアは音も立てずにスープを啜る。

「血、吸わないじゃん」

「そんな野蛮な行為はもう古い。僕が若い頃は多くいたがな」

「ニンニクだって好きだし」

「あれは匂いが残らなければ美味なんだがなあ」

「十字架だって平気だし」

「あんなものは慣れだ、慣れ」

「なんだかなあ」

 一通りのやりとりに首を傾げた陽菜は、はあとため息を吐く。

「もっと吸血鬼って厳かっていうか……こんなに俗っぽくないと思ってた」

 陽菜の溜息に呆れた顔をして、ロゼはこほんと一つ咳払いをした。

「時代に合わせて変化したのだ、我々も。俗っぽいなどと言ってやるなよ。人間たちの期待に添えないのは申し訳ないが」

 そう、変化したのだ。変化せざるを得なくなったと言うのだろうか。

「大体、吸血鬼などと言うのは人間ぐらいだぞ。吸血する鬼、とはかなしいことを言ってくれるものだ」

 ロゼは僅かに眉を下げ、スプーンをことりと置いた。陽菜はそれを軽口なのか、真剣な言葉なのかを測りかねてじっと眺める。


 いくつ歳をとっても変わらない容姿を、大抵の人間は恐れる。ロゼがそのことに気づいたのは、取り返しがつかなくなってから。そして過度に血を啜れば人間は死に、自分たちは化け物扱いをされるということもずいぶん経ってから理解をした。

 勿論、大抵のバンパイアが食事として頂く血の量なんて大したものではない。けれど噂というのは尾鰭が付きもの。そして血を啜る加減をしくじる奴もいる。

 または持て余した能力の為に、貪るように血を浴びるほど飲まなければ生きながらえない奴も、いる。そういう奴もごく稀に、本当に稀にだが存在するのだ。かなしいことに。それは己がよく知っていることだとロゼは遠い記憶の香りに眉をしかめた。

そういう生き方しか出来ないのだ、我々は。それはよく理解しているつもりである。種の遺伝には抗えず、長い生命は己を縛る。


「ロゼ?どうしたの。今日のスープ酸っぱかった?」

 味見はしたんだけどと陽菜は呟きながら、小皿に鍋から数滴スープを垂らす。

「なによ、美味しいじゃない」

 そして頬を膨らませて笑う。冷たくも見える印象をひっくり返すような子供じみた笑みだ。

 齢二十程度の小娘。自分の十分の一にも満たない人間の娘と同じ食卓を囲んでいるなどと、百年前の彼であれば大笑いをしていることだろう。想像さえしなかった。ロゼはくすりと口元を震わせた。この奇妙な食卓が、彼は愉快で気に入っている。それは確かなことなのだ。今はそれでいい。

「まあ我らにも色々あるのだよ、色々とな」

 眉を下げ少し遠くを見遣ったロゼに、陽菜はなんだか悪いことをしたような気持ちになって、少し言葉に詰まってしまう。そんなこともこのバンパイアはお見通しなのだろうが。

「要は今時生き血を飲み、ニンニクを嫌い、十字架を恐れる吸血鬼など流行らんということだ」

 そう自信満々に言い切って、彼はああでもと思いついたように言う。

「容姿が優れているという点は残っているではないか! よかったな、陽菜」

 しんみりしていた空気は何処へやら。いや、それ自分で言うと台無しでは。キラキラした金色の瞳がどうだと言わんばかりに彼女を見つめる。陽菜はロゼを見つめ返してううんと唸った。

 自然な錦糸のような金色の髪、陶器のように白い肌、髪と同じ色の宝石を閉じ込めたみたいな切長の大きな瞳、それを縁取る長いまつ毛、すっと通った鼻筋。これを人は美しいと言うのだろう。

「でも自分で言っちゃうのはなんか違う気がする……」

「事実は口にしておかねばならぬだろう?」

「そういうところで台無し」

 む、と真剣な目つきで考え込む彼に、陽菜はけらけらと声を上げて笑った。

「そういうところも!」

 難しい顔をしたまま、それでも冷めないうちにとスープを掬う彼は小さな子供のようにも見える。陽菜は初めてこのスープを作った時、彼が放った言葉を思い出した。

「僕は君の血を吸わない、勿論他の人間も」

 凛とした声でそう言ったのだ。血の味なんてそんなものは刷り込まれた感覚に過ぎず、君のスープはとびきり美味い。それで十分なのだよとも。


 陽菜は今でも彼が本当に吸血鬼などという現実味のない存在なのか半信半疑だ。まあでも、目の前で自分が唯一作れる料理を美味いと味わう彼のことを悪くは思えない。

 袖振り合うのも多少の縁、とか昔の人は言ったわけだし。


 さて、今のうちに後片付けを。陽菜は立ち上がってシンクに食器を沈める。さっさと片付けてお暇するとしようか。

「痛っ」

 鋭い痛みがぴりりと彼女の指先を駆け抜けた。掴んだピーラーに少し指が引っかかってしまったのだ。陽菜は片付けを中断して、鞄の中の絆創膏を探す。

 部屋の中に、わずかな鉄の香りが漂った。ぽたりと一雫、紅が落ちる。慌てて取ったキッチンペーパーが、じわりじわりと染まってゆく。ロゼは鼻先に届いた香りにぴたりと一瞬スプーンを止めた。どろりと甘い、香りだった。久しく嗅いでいない香り。忘れることの出来ないその香。ぎらりと彼の双眼が細く光った。そのことに陽菜は気づく様子もなく、絆創膏と呟きながら鞄の底を漁る。

「ねえロゼー、この家絆創膏ないー?」

 血は飲まない。彼はそう決めている。ずっと前からそう決めている。

 忌々しい細胞め。彼は鋭い牙で己の口内をぎりりと噛む。口の中に自分の血と混じった唾液がじわり滲み出る。喉の奥が、身体の端々の細胞が枯渇を訴える。

 熱い、熱い、熱い。喉が、干上がる。

 目の奥がやけに熱く、黄金だった眼がゆっくりと真紅に染まっていくのが彼にはわかった。全ての感覚を研ぎ澄ましたような高揚感。あの嫌な高揚感だ。ロゼは陽菜に気付かれないよう、そっと目を閉じる。甘い香りに、疼く懐かしい感覚に、これ以上呑み込まれないように、そっとそっと。


 誰だったか、彼はまるで薔薇のようだと言った。闇夜に真っ赤な瞳を爛々と燃やして、我を忘れるほど生き血を啜るその姿を。

 悪魔の薔薇のようだと、そう言った。

あの恍惚と、比べ物にならない虚しさを、ロゼは長い生涯忘れることが出来ないだろうと思っている。そうあるべきだと思っている。

「ロゼ! ねえ、ロゼってば!」

 眠るなら食べてからしてよといつの間にか目の前に来ていた彼女は、声を張る。子供じゃないのだからと。甘い香りは、もう随分と薄くなっていた。切れたと思われる彼女の指先には、茶色い絆創膏がしっかりと巻いてあるのだろう。うっすらと消毒液の匂いもする。

 ああ、と返事をしてから彼女が去っていく音を確認し、そっと目を開けた。燃えるような熱さはもう無い。恐らく自分の瞳はもういつも通り、夜空に浮かぶ月のような色をしているはずだ。

 ふ、と息を吐く。細胞が少しずつ静かにぱちぱちと元の姿に戻っていく。彼は今だけは手鏡で確認出来ない己の性質が、少し憎くなった。しかし同時に後で陽菜に言ってやろうなどと思う自分もいる。

 全く可笑しなことだ。始めは少しばかり料理の腕を拝借し、記憶も曖昧にして帰してやろうと思っていただけだったのに。

「私、スープだけは得意よ。心底タイミングは悪いのだけど」

そう彼女が言うものだから。ついついその言葉に乗ってしまった。長らく人間と関わってきていなかったからだろうか。自分の気持ちに正直なその言葉は酷く魅力的だった。もう二度と人間とは深く関わるまいと思っていたのに。

 ロゼ、と忌々しい筈の名前を呼ばれる度に、悪い気はしなかった。それどころか、自分の素性を知ってもまだ側にいてくれる彼女を心地よいとさえ思い始めている。少し前の自分は考えもしないことだった。なるほど、長く生きるのも悪くない。

「ごちそうさまでした」

 人間のような振りをして、人間のような知識を取り入れ、人間のような言葉を発する。けれど自分は人になりたいとも思わないし、なれるとも思っていやしない。それでいいと思っている。

「はい、お粗末さまでした」

 いつの間にか再び食卓に戻ってきていた彼女はにこりと彼に笑いかける。それが案外悪いものじゃないと、今の彼はもう知っているので。ついその言葉を繰り返してしまうのだ。


「ねえロゼ」

 今日も彼はその名を呼ぶ声に返事をする。血生臭い名前に似つかぬ涼しい音を響かせて。

「課題手伝って欲しいんだけど」

「手伝いはせん。教えてやるぐらいならしてやろう」

「わかった。明日のスープはトマトを少なくしておくね」

「……君は卑怯という言葉を知らんのか」

 ただの人間の小娘なのに。けらけらと笑う陽菜につられてしまう。ただそれがあたたかくて、心地良くて仕方がない。

 教科書を広げる彼女を眺めながら、彼はいつもの通りソファに沈む。あと少しはこのままでいいと、そう願った彼の口元はゆるく弧を描いていた。


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