搭乗客の憂鬱

「どうしても許せない事があるの」

「なんでしょう?」

「納豆よ」

「……納豆ですか?」


 狭苦しいシートに並んだ二人が、つまらない会話を続けていた。

 一人はブロンドの髪を惜しげもなく豊満な胸元まで垂らした二十歳前後の美女で、もう一人はなよなよした印象のひ弱な日本人だった。

 アメリカン航空二十三便、東京行き。それが今、二人が搭乗している機体だった。

 そしてその無粋な会話は、周囲の人間を辟易させるのに十分すぎて、だからと言ってそれ咎めるでもなく、離陸前の一種の娯楽だとも考えているらしかった。


「だから彼女が結婚する時も私は『やめておきなさい』って、言ってやったのよ。ねぇ、ハタシタ」

「はぁ」


 ハタシタと呼ばれた男はどうも、彼女の聞き手になる以外に意味の無い存在のように思えた。自国の文化が貶められているという感覚は一切ないらしく、ただ気の抜けるような相槌だけが続いている。


「日本人と結婚するなんて愚かな事なの。特に、向こうで生活するなんて私は耐えられないってね」

「それはまた随分とおめでたくない事を言いましたね」

「勿論、式のずっと前によ。その場で言うほど私も落ちぶれちゃいないし、彼女が決心を固めた結婚は最大限に祝福してあげたんだから!」


 その時の様子を思い出したのか、彼女は恍惚の表情でやたらと低い飛行機の天井を仰ぎ見る。

 対して周りの乗客は、空気が読めない事を少しは理解しているという事実に驚き、天を仰いでいた。


「日本なんて、こじんまりした場所好きじゃないの」

『間もなく当機は離陸の為滑走路へと移動いたします。安全ベルトを確認の上――』

「観光するのも退屈しそうね」


 機内アナウンスも完全に無視し、彼女は悪い点を指折り数え、そしてハタシタは彼女が指を折る度に水差し人形のように頭を振った。

 ハタシタの視線が、彼女の胸に吸い込まれた回数は、首を振った回数に比例する。


「いいハタシタ、向こうでは私を退屈させないで頂戴ね?」


 飛行機がゆっくりと滑走路に向かって動き出す。周囲の景色が流れなければ解からないほどに静かな滑り出しだった。


「解かりました」


 どうやら、ハタシタは彼女のガイドを務める役割らしかった。

 ここでようやく、機内の乗客はハタシタの役割を正しく理解し、この途方もなく長い八時間のフライトが彼女の愚痴で埋め尽くされる事を確信して絶望する。


「難しい要求ですね」


 ようやくまともな口を聞いたハタシタから出て来たのは、随分と頼りない言葉だった。

 乗客は一斉に、彼の長所が聞き上手なだけだという判断を下す。

 それと同時に、よくこのちぐはぐな組み合わせが成り立ったと、別の方向へと関心を移行させた。

 そうでもしなければ、二人の――正しくは彼女が一方的に垂れ流す騒音に耐えられそうもなかったからだ。


「着物ぐらいは一度着てみたいわね」

「きっと似合います」


 ようやく肯定的な言葉が出て来た為、機内の空気が僅かに緩む。

 飛行機はようやく滑走路へと侵入、本格的に始動した四つのタービンが機内を小刻みに振動させ、全乗客と搭乗員合わせて二百十二名のうち百七十九人の胸を揺らした。

 そうして機内が一種の緊張状態に引き戻されたにも関わらず、彼女の毒舌は留まるところを知らなかった。


「だいたい、ワビとサビだったかしら。そんなもの易々と解かる筈無いじゃない」

「国民性、ですからね」

「思った事は口に出せばいいじゃない」

「思いやりの、精神です」


 飛行機が滑走路を滑り出し、地面に引かれた長い白線を一つ踏むごとに、彼女の愚痴は吐き出される始末だった。

 乗客は飛行機が飛び立てるかどうかよりも、この先の事を心配してシートに深く身を委ねている。そうしている間にも愚痴の間隔は狭まり、そして飛行機がいざ飛び立とうという瞬間――。


「全く、どうしてハタシタなんかと結婚しちゃったのかしら」

「――――えぇっ!?」


 乗客の驚きの声が、離陸の歓声に混じって木霊した。

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