コーヒー

「君はやっぱり、世界一可愛いと思ってる」

「お世辞はやめてよ」

「本心なんだよ。わかるだろう?」


 僕はそううそぶいた。

 都心に近い喫茶店。

 そこで僕達は二人掛けの席で互いを見つめ合う形で腰かけていた。

 六分前にテーブルへと運ばれてきたコーヒーは一口含ひとくちふくんだだけで、そのほとんどがまだコップの中で生ぬるくよどんでいる。「彼女と同じものを」なんて気障きざ台詞せりふで注文したばかりにこの体たらくだ。

 彼女はしかし、その黒く淀んだ液体の入ったカップを口へと運ぶ。

 僕の腹黒さと比例するようにその液体は彼女の口のかわきをたし、そして僕の口説き文句の甘ったるさと反比例するように彼女の口の中に濃厚な苦みを残すのだろう。

 それを考えただけで口の中に広がった苦みが思い出され、僕は彼女の分まで顔をしかめた。


「それで、呼び出したからには覚悟を決めたんでしょうね?」


 彼女の甘ったるい笑顔に似合わない、苦い、苦い、問いかけだった。

 まるでコーヒーの苦みだけを舌の上で抽出ちゅうしゅつした様だと思った。


勿論もちろん、けじめをつけるつもり」


 元々、自分のまいた種だ。俗に言う二股。

 僕にその気が無かったかと問われれば、答えはノーだ。一瞬の気の迷いという奴とも違う。

 僕は明確な意思を持って、彼女ではない相手と夜を共にした。

 生温なまぬるい表現では足りない、濃厚な行為を何度も繰り返した。


「まずは、謝らせてほしい。ごめん」

「……あなたが素直に謝るなんて思ってもみなかった」


 彼女の言葉には確かなとげが有った。

 この場をセッティングするのに、多くの犠牲ぎせいを必要としたのに。

 身から出たさびなのだから、犠牲と呼ぶのはあやまりだ。

 少なくとも、僕は愛していた肩割かたわれを失った。どちらが本気だったなんて優劣ゆうれつは無い。

 純粋に悩み抜いて出した結論だった。


「……彼女とは、別れた」

「そう」


 彼女は僕の話を、短い相槌あいづちはさみつつ最後まで聞いてくれた。

 彼女がコーヒーを口にした回数は五回。

 彼女にとっては反吐が出そうな話を、コーヒーの苦さで強引に塗り潰そうとしているようでもあった。だから、僕も全てを打ち明けた後に黒い液体へと口を付けた。

 そして、直ぐに後悔する。

 やはり、コーヒーは苦手だ。


「それであなたは、私を選んだわけね?」

「もし許してくれるなら――」

「選んだわけね?」

「……はい」


 糾弾に近い事実確認に、僕は素直に頷いた。

 きぬの様に上質で滑らかな言い訳の言葉は、今の彼女に何の意味も持たないのだと気付かされる。

 喫茶店の外に見える交差点では、僕達の関係を何も知らない人達が各々おのおのの意志を持って行き交っている。

 僕は発作ほっさの様に、その人数を数えて過ごしたい衝動しょうどうにかられた。

 現実逃避でしかないそれが、今はひど崇高すうこうな行動である様に思えたのだ。

 でも、そう思えたのは一瞬だった。現実はそれを許すほど甘くない。


「端的に言えば、私はあなたに失望しました」


 実にきっちりとした口調。始めから用意されていたような言葉だった。


「その失望を埋めるだけの努力を、貴方はしたんだと思う。自分なりに考えて」


 相槌は必要ないと、彼女の目が雄弁ゆうべんに語っている。

 必要なのは、この一杯のコーヒーだけだと。


「そうしてくれたのは、素直に嬉しく思う。でも、誠意せいいがいまいち見えてこないの」

「それは……」

「分かってる。それが貴方の限界だって事も」


 もう彼女はコーヒーに手をつけない。きっと彼女にとってその液体は、本来の役目を終えてしまったのだ。

 現に彼女の言葉は、とてつもなく僕を追い詰めている。

 目の覚めるような鋭く滑らかな言葉が、僕を追いたてる。

 二股が露呈ろていした時に浴びせられた罵倒ばとうとは違う、明確な拒絶の意思。


「だから、私達も別れましょう?」


 ここで喰い下がればどうなるだろうか?


 そんな結果の見えすいた問いを自分に投げかける。

 みじめでもいい、ここで喰い下がるべきだと頭の中で自分が叫ぶ。

 しかし、出来なかった。僕の視線は一杯のコーヒーにだけ注がれている。全ての色を飲み込む黒のうず、その中心に引き込まれている。


「最後のコーヒー代ぐらい、私が出しておくわ。ありがとう、さよなら」


 彼女が会計を終えて店の外に出るまで、僕の視線はコーヒーに釘づけになっていた。このコーヒーを飲み干せば追いかける勇気が出るのだろうかと、在りもしない空想にしがみ付いて震えていた。

 そこから視線を外せた時には既に、彼女の背中は交差点の向こう、雑踏ざっとうの奥深くへと消えていた。

 僕はその時になってようやくこの状況に唖然あぜんとし、そして全てが手遅れだと悟る。


 ――このコーヒーが元凶なんだ。


 その妄執もうしゅうに取りつかれた瞬間には、僕はその黒い液体を全て口の中に流し込んでいた。味を感じる余裕もなく、生ぬるい液体を嚥下えんかする。

 そして、彼女の席に放置されたコーヒーも同様に飲みほした。心なしか、彼女の残したそれは酷く苦く感じ、液体を胃のに収めてようやく全てが終わった気がした。

 僕はカップを元の位置へと戻し、小さく溜息ためいきを吐く。


「お客様、コーヒーのお代わりはいかがですか?」


 横を通りかかったウェイターが、満面の笑みで僕にたずねた。



~おわり~

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