第2話 仁実

 なんだ、これは。私は一体どうしてしまったのだろうか。頭痛がしたと思ったら、次は浮遊感に襲われた。夢でも見ているかのような気分だ。

「でも、これは…」

 くぐもった声が響き渡る。しかしその声が外気を震わすことはなかった。

 夢じゃない。そう頭の中で確信しつつ、私は今目の前に広がる景色を自分の目で捉え、状況を整理した。ここは?――公園だ。何をしていた?――疲れて座っていた。仁実は?――わからない。頭痛を感じるより前から、ずっと黙りっぱなしだ。なぜ声が出せない?――それもわからない。

 私は様々なことに思考を巡らせたが、そのどれをとっても声が出せない原因になり得るものはなかった。強いて言うならば、疲れて声が出づらくなっているか、もしかすると仁実が話さないことと関係があるのかもしれない。ともかく、原因を探すのはこれくらいにして、声を出す方法を考えないといけないな。

 そうして、私が直面している問題に向き合おうとした瞬間。

「え…?」

 声が聞こえた。だ。まるで永い間この声と付き合ってきたかのような、違和感や不自然のかけらが一切見当たらない声。というよりこれは――

「一樹の声…?」

 私の思考を遮るように、私の疑問に答えるように。

 困惑に満ちた声が、外気を震わせた。

「仁実!」

 思わず名前を呼んだ。直感的なものだったが、どうやら正解を引き当てたらしい。「この声は、一樹?」

「良かった。私の声が聞こえるんだね。」

「この状況は…?」

「私にもわからない。でも、話してくれて良かった。」

 思わず安堵してしまったが、事態は何も解決していなかった。仁実が返す。

「ごめんね。少し考え事をしてたんだ。でももう大丈夫だよ!」

「それなら良かったよ。とにかく、家に帰ろうか。」

 事態の解決を急ぎたいところだが、光陰は人を待ってはくれない。そろそろ日没が近いのか、空の端に夜の始まりが見えていた。頭痛に気を取られて気づかなかったが、疲れも随分とマシになっている。私は仁実に帰宅を促した。

「そうだね!一樹の体に風邪ひかせるわけにはいかないよ!」


 ――少し後――


 私たちは無事に帰宅した。外を見れば少し雨が降っている。雨が強くなる前に帰ってこれてよかった。しかし一方で、直面している問題については何一つ解決策が出ていなかった。夕食の時間が近づいたので、私(仁実)は階段を降りてダイニングに向かった。声は出せないが五感は共有されているらしく、美味しそうな匂いが空腹を加速させた。私の家では家族全員で食事をするのが決まりだ。孤食の増加が問題視されている現代では中々珍しい家庭だと思う。また幸いにもハナレ病に理解のある家族で、薬を飲まない私に対してもハナレ病に罹る以前と同じ扱いをしてくれる優しい人たちだ。それもあり、私は仁実と相談して、体のことを家族に言ってみることにしたのだ。


「みんな、実はね…」

「いまこうして話してるのは仁実ちゃんなんでしょ?知ってるわよそれくらい」

「え…?」

 母の言葉に意図せず狼狽うろたえてしまった。

「隠してたのかは知らないけれど、こっちは一樹と産まれてからの付き合いなのよ。それくらいわかって当然です。」

「はは、やっぱり一樹のお母さんには敵わないなー!」

「ちなみに、お父さんとあさひも気づいてたわよ」

 父は昔から勘がいいのでもしかしたらとは思っていたが、まさか母と妹の旭にまで気づかれているなんて。言ってみようかななんて迷っていた自分が馬鹿らしくなってしまい、音としては出なかったがかすかに笑い声が出た。

「一樹の隠しごとがへたくそなのは産まれてからずっとだからな。まあそこが一樹の魅力だとも思うんだが。」

「それをわざわざ旭達に言うってことは、一樹ちゃんは元に戻りたいの?」

 父と旭が同時に聞いてくる。私は仁実に戻りたい旨を伝えて伝言を依頼した。

「うん、一樹は戻りたいって言ってるよ。」

「一応聞いておくんだけど、仁実ちゃんはそれで良いのよね?」

 母が発したその言葉を聞いて、私ははっとした。そうだ。仁実は私から分かれたとは言え、3か月もたった今は別の人格である。私の体は私のものだという風に思い込んでいたが、これは同時に仁実の体でもあるのだ。それを考えずに私は仁実に、体を独占させてくれと言っていたのだ。

「仁実、ごめん。私考えられてなかったよ、仁実のこと。仁実が嫌なら嫌って言っていいんだよ。」

 せめてもの償いに、その言葉を伝えた。

「お母さん、僕は大丈夫だよ。僕は一樹と居れればそれで満足だからさ!一樹の言うことを優先してあげてよ!」

 私の言葉を気にする様子も無く、仁実はなんの逡巡も無しにそう答えた。

「それなら良いのよ。一樹、仁実ちゃんに愛されてるわね、これからも大事にしてあげなさいよ。」

「じゃあ仁実ちゃんの意見も聞いたことだし、解決方法を考えようよ」

 母に続いて旭が言った。旭の目はまるで朝日のごとくキラキラと輝いていた。好奇心旺盛な旭がよく見せる顔だ。

「と言っても、この時間じゃ病院は開いてないだろうしな。父さん達に相談するってことは、粗方できることはやったって感じだろう?ならとりあえず明日を待たないと何もできないな。」

 父の意見はもっともだ。考えても策はあまり出てこなかったし、出来る範囲のことはやったつもりだ。時間が解決してくれる可能性だってある。

「じゃあ今日の残りは仁実ちゃんデーにしよう!日頃どんなこと思ってるかとかたくさん教えてよ!」

 旭の案に、仁実を含めた家族全員が賛成した。私は、いつも仁実がどんな気持ちで過ごしているのか経験するのも悪くないと思った。

 そうして私は、朝を迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る