第482話
「いやー熱かったですね!」
興奮で顔を上気させたアリスさんは、両手で何度も拍手しながらそう言った。いつの間にか上のボタンは二つ開けられ、汗に濡れた胸元が露わになっている。
色々と指摘したい部分があるが最初に言いたいのは……あんた、あの牛には拍手しないんじゃなかったのかい!
「ところで『どぅいなっう!』ってどういう意味ですか?」
教師としての体面を気にしたかアリスさんは日本語で、小声で囁くように問う。え? 分からないけどコルレスしてたの!? これ以上、ツッコミどころを増やさないでくれるかな!?
「なんでしょうね? 『ドナドナ』なら分か……いや分からないか。どぅいなっう、どぅいっとなう……ドゥイットナウですかねえ」
なんとなく、地球にある某大手スポーツメーカーのブランドスローガン、ジャストドゥイットに近いものを感じる。サッカー界では後発ブランドな方だったが、あの羽も今やすっかりお馴染みだなあ。
「ほう。してそのこころは?」
「どちらも、すぐやれ! やってみよう! みたいな意味かと」
「なるほど! 良い意味に響き! 『声に出したい日本語』ってやつですね!」
アリスさんはドゥイットナウと何度か口ずさんだ後、笑顔で言った。いや日本語じゃないけどな! しかし本当に何故そんな言葉及び元ネタとなっているであろう、子牛が売られていく歌が伝わっているんだ? あの世でクラマさんに会ったら詳しく聞きたい。
「あ、ちょっとすみません」
俺はピッチの方を見て慌てて立ち上がる。早々とウォーミングアップを諦めたハーピィチームだけでなく、アローズも中へ引き上げ始めたのだ。ロッカールームで合流して気づいた事を伝えておこう。
「あれ? 何処か行くんですか?」
「更衣室へ。ちょっとだけチームに合流してきます」
俺はハンカチで顔と胸元の汗を拭うアリスさんから急いで視線を外して応える。てか顔を拭いた布を胸の谷間へ突っ込むってありなのか!?
「えーっ!? ウチの子たちも観てやってくださいよー」
一方、アリスさんは頬を膨らませてそう言った。ウチの子? その立派な胸のことか? あ、いや、テル君とビッド君のことか!
「大丈夫、彼らなら決勝に進出するだろうし、そこで聴きますよ!」
俺が笑顔でそう言うと、アリスさんは確かに! とつられて笑顔になった。いや本気でそう思って言った訳ではないが……。そんなあっさり騙されてくれると胸が痛いな。
「では」
改めてそう断り、アリスさんの元を去る。彼女にとって生徒たちがウチの子なら、俺にとってのウチの子は選手たちだ。さあどうコーチングしようかな……。
関係者通路を通りロッカールーム前まで来ると、例によって閉ざされたドアの前でザックコーチが待っていた。
「監督の言っていた通り、ドミニク選手のコンディションは良くないようだな」
開口一番、ザックコーチは相手エースの体調について話し出す。
「身体が重そうだ。何度かマークの内側をターンしていた」
ミノタウロスのフィジカルコーチが言っているのは、ウォーミングアップ中のダッシュで方向転換する時に目安になる目印の事だ。本来は外側を回ってターンするのだが、そこで楽したいくらいには疲れているのだろう。まあ俺も体育の授業で持久走の時に先生の見ていない所でトラックをショートカットしたりしたものだが、プロのアスリートでも似たような事はするんだな。
「連勝中であまりチームをいじりたくないから、引っ張り過ぎたんでしょうね」
俺はザックコーチの言葉に頷きながら言った。俗に
「勝っているチームは触るな」
という。上手く行っている時は良い流れがあるので、それを維持した方が良いという考えだ。俺はその言葉を100%支持する訳ではないが、チームは生き物なので一理あるとは思う。
しかしそれに固執するのも考えモノだ。例えば休ませるべき選手をずっと使うとか。ドミニク選手は明らかに疲労が蓄積しており、前日のスタジアム練習でも状態は良くない様だった。公開部分が終わると練習を止めコーチたちと話し込むくらいに。
エースとしての重責、集まる相手DFのマーク、アイドルとサッカードウの両立……。ベテランの身体には堪えるだろう。俺やザックコーチがアチラの監督ならベンチにすら入れずに休養を与えているところだ。
「もしかしたらカペラ選手が早めに出てくるかもだ」
俺の報告を昨日聞いて、今日自らもチェックしていたザックコーチが言う。期待のルーキー、カペラ選手は厳密にはドミニク選手の代わりではない。だが注目の的として、エースの負担を和らげる役割もある。ここまで基本的には後半からの出場であったが、もしかしたら早い時間で、しかもドミニク選手と交代という形で出場して来るかもしれない。
「ツンカさんには言ってありますが、この後あらためて」
「うむ。あともうひとつ。何か……ハーピィが全体的にもおかしそうだったが」
ザックコーチはミノタウロスの牛耳をパタパタとしながら首を傾げる。そう言えば彼的にキング・オグロヌーの音楽はどうだったのだろう? やっぱ世代的に合わないのかな?
「あーそれは狙い通りというか、俺のせいなので大丈夫です」
俺は苦笑しながらそう言った。ちょっと説明するには時間が足りないかもしれない。
「ザックコーチ、どうぞ!」
ちょうど中からナリンさんの声がした。ほらね? 残念ながら解説できるような時間はないようだ。
「行きましょう。何なら後日、教えますので」
俺はそう言ってロッカールームのドアを開けた。
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