第31話 その後

 シェルファレーズの王城に戻ったアロイスは、リアーヌの心配を他所に、そして手当てもそこそこに、事態の収拾にあたった。捕らえた者たちは牢獄へ、ロランだけは身分に相応しい城の一角に幽閉する。脱走はおろか、傷を膿ませることも自ら命を絶つこともないように、厳重に見張りをつけて。その上で、彼らの企みの全容を尋問し記録するように手配する。リアーヌの誘拐未遂についてだけでなく、ロランがルメルシエの内乱やクロード王子の死にも関わっていたことについての証言を得なければならないのだ。きっと、ルメルシエでは身分高い公爵が突然失踪したように見えるのだろうから。ロランは、自身の不在の間も、乱が続くように手を回していたのだろうから。ルメルシエの被害を拡大させないため、シェルファレーズとの関係に禍根を残さないように、一刻も早く十分な説明を送り届けることが必要だと思われた。

 平和なシェルファレーズにおいては初めてのことばかりで、大公であるアロイスに指示を求める兵や官吏が執務室を絶え間なく訪れた。リアーヌはせめて手当てを受けた後にして欲しいと懇願したし、寝台に横になったままでも采配はできるとさえ進言したけれど、アロイスは非常時だからと聞いてくれなかった。


 そしてやっと誰もが差し当たってなすべきことを把握し、ルメルシエに使いを送り、大公の役目が終わったのを確かめたとたん、アロイスは発熱した。リアーヌが恐れていた通り、決闘の緊張や疲労で気力体力を消耗したところに、全身に負った切り傷や擦り傷、落馬の打撲が一気に祟ったということだった。




 リアーヌによって寝台に押し込められたアロイスは、仕事を全て取り上げられて暇を持て余しているようだった。時刻はすでに夜、食事さえも寝室に運ばせている体調だというのに、ついでに書類も横になったままで確認しようとしてリアーヌに拒絶されたところだ。


「病気ではないのだから大丈夫だと思うのですが……」

「緊急のことがありましたら、報告が参りますでしょう。今はゆっくり休むのが、第一のお役目ですわ」


 今は、フェリクスも兄同様に殴打された傷を癒すべくアデルに見張られているはずだ。だから、シェルファレーズの中枢は手薄になっていると言えなくもないけれど──リアーヌは、この国の人々の忠誠を信じている。大公兄弟が寝込んでいる時だからこそ、主君に負担をかけないように立ち回ってくれるはずだ。だから、アロイスが無理に起き上がる必要はまったくないのだ。

 寝台の前に立ちはだかって何としても寝かしつける、という気迫のリアーヌを見て、アロイスは諦めたように肩を竦めた。


「そうですね……貴女に看病していただける贅沢を、味わうことにしましょうか」

「はい。アロイス様は何もなさいませんように。何もかも、私に申し付けてくださいませ」


 リアーヌが重々しく頷くと、アロイスはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、目の前に用意されたばかりのかゆの皿を指で示した。


「では、それを食べさせてください。いつかもお約束していただきましたし」

「……っ。は、はい……」


 犬にご褒美をやるように、手ずから菓子を食べさせて欲しい、と強請られたことはリアーヌも覚えている。またの機会に何度でも、と。確かに彼女は口にしてもいた。でも、焼き菓子ひとつなら数秒で済むかもしれないけれど、粥をひと匙ひと匙アロイスの口に運ぶのは、その間、彼の整った顔を間近に眺め続けるのは相当に気恥ずかしい。けれど、迷ううちにも粥は冷めてしまうし、アロイスは既に上機嫌で口づけを待つ時に似た顔になっている。リアーヌが願いを叶えてくれるものと、信じて疑っていない顔だ。


(もう、意地悪なことをなさるのだから……!)


 心の中で溜息を吐きながら──でも、同時にどきどきとして頬が熱くなっているのにも気づいてしまう──リアーヌは意を決して匙を手にした。滋養のために乳と蜂蜜をいれた粥は、まだ湯気が白く立ち上っている。ひと匙すくって、火傷しないように軽く吹いて冷ましてから、アロイスの口元に持って行く。食べやすいように、こぼさせないようにと思うとなかなか難しくて──思っていた以上に、アロイスの舌や唇を凝視しなければならない状況に気付いてしまう。しかも、首まで赤くなっているであろうリアーヌを、アロイスがじっと見つめているのだ。


「犬というか、雛鳥になった気分です」


 ふとアロイスが呟いた隙に、リアーヌは手で顔をあおいで熱を逃した。まったく大きくて図々しい雛鳥もいたものだと思う。口元についてしまった粥を唇で拭ってあげながら、リアーヌは涼しげなアロイスの目を少しだけ睨んだ。


「アロイス様は雛ではなくて美しい鷹でしょう。──早く羽ばたけるようになりますように」

「鷹だってたまには巣が恋しくなることもあるでしょうに」


 粥はまだ残っているというのに、アロイスはリアーヌが身体を退く前に彼女の頬を捕まえてしまう。蜂蜜の甘い香りを漂わせる唇に狙われて、口づけに応えたくなってしまって──でも、リアーヌは誘惑を断ち切って毅然と首を振った。アロイスの頬に、いまだ生々しく残る傷痕を見れば、不埒なことを考えている場合ではないと思うのに。


「いけません、お食事の途中ですから……!」

「そうですね、リアーヌ姫のお食事もまだでしたしね」


 アロイスは大人しく頷いてまた口を開けたものの、食事が終わったら、と言外に言おうとしている気がしてならなかった。休ませて差し上げなければ、と心から思うのに──頬に上った熱がどうしても引いてくれないのを、いったいどうすれば良いのだろう。




 アロイスのを終えた後は、リアーヌも彼の枕元で食事を取った。秋が近づき始めた窓の外の景色のこと、シェルファレーズのこれからの季節について──他愛もないことを語らうことしばし。就寝の時間が近づくと、今度はリアーヌにはアロイスの身体を拭き、湿布を貼り替える役目がある。


「なかなか引きませんね……それに、お熱も……」


 リアーヌが恐れた通り、森の中を強引に駆けたことでアロイスの肌は木の枝などによって無数の擦り傷ができていた。大方はすぐにかさぶたができる程度のものだけど、中には深く皮膚を抉ったものもある。それに何より、落馬した際の打撲の後は痛々しく、腫れは引いても毒々しく黒く染まった痕が夫の背に散っているのは、見ているだけでも胸が痛む光景だった。


「まあ、骨が折れていなかったのは幸運でしょう。怪我をしたのが貴女でなくて本当に良かった」

「少しでも代わって差し上げたいくらいですわ。あの、染みたりはなさいませんか?」


 夫の看病ということなら、二番目の夫のトビアスの時に経験している。だから布を湯に浸しては絞るのも、薬草の独特な匂いにも慣れたものだ。でも、病に倒れた前夫と怪我で寝込んでいるアロイスとでは状況がまるで違う。湿布を貼ったり軟膏を塗る時に、迂闊に触れては余計な痛みを与えてしまうのではないかと、不安で仕方ないのだけど──


「いいえ。貴女の指先は冷たくて心地良いです」


 アロイスは、彼の背中に向かうリアーヌに、流し目で意味ありげな笑みを向けた。


「こう──もっとぴったりとくっついていただけると、熱が下がりそうな気がするのですが」

「え……ええ?」


 突拍子もない申し出に、リアーヌの全身の血がかっと燃える。それはもう、アロイスよりも熱が上がってしまうのではないかと思うほどに。


「あの……痛いと、思うのですけれど……?」

「そうですね、熱もあって眠りが浅いようです。なので、貴女がいてくださると良いのですが」


 ごく真剣な、かつ期待に満ちた眼差しで言われると、頑なに首を振るのも悪気がしてしまう。きっと、アロイスの術中に嵌っているに違いないのは分かっているけれど。でも、たった数日寝室を分けていただけで、リアーヌも寂しくて仕方なかった。夫が無事で生きていてくれているということを、身体で確かめたかった。


(ど、どうせ後は寝るだけなのだし……?)


 侍女も召使も既に下げさせているし、薬の類は置いておいて明日の朝に片付ければ良い。リアーヌがアロイスの寝室から出て来なければ、みんな察して放っておいてくれるだろう。期待と羞恥でますます顔が熱く火照るのを感じながら、リアーヌはそっと寝台に乗る。彼女の体重によってしとねが沈み、アロイスの身体が少しだけリアーヌの方に寄る。


「こう──ですか?」


 腕を伸ばして、そっと包み込むように。アロイスの背中に被さると、確かに彼女の身体よりも熱を帯びている。布での清拭では湯浴みには及ばないのだろうか、首筋に唇を寄せてみると少し塩の味がする。薬草の匂いに鼻が慣れると、馴染んだ、そして愛しいアロイスの香りが感じられて思わず腕に力が篭ってしまう。慌てて力を緩めようとするけれど──


「ええ。ああ、心地良い……!」


 アロイスがリアーヌの手を捕らえて、身体を倒す方が早かった。ふたりして寝台に倒れ込むと、彼は素早く身体を反転させてリアーヌを腕の中に抱え込む。氷嚢ひょうのう代わりなら喜んで務めるけれど、彼の手はどうも彼女の寝間着を剥ごうとしているように思えてならない。


「アロイス様、あの……っ」


 熱い掌で素肌を撫でられて声が上ずるのを感じながら、それでもリアーヌは夫の悪戯を止めようとした。


「あの……をしたら、お体に障りますから……」


 湿布を貼るために上体を露わにしていたアロイスは、服を脱ぐまでもない。夫の裸体を見てしまって、リアーヌの方でも否応なく体温が上がってしまう。一瞬だけ──ほんの一瞬だけ、このまま流されてしまえば、と思ってしまうけれど、そんなはしたない欲望には蓋をしなくては。だって、アロイスは怪我人で、熱もあるのだから。


「はい。だから、できるだけそっと──あまり、無理をしないように努めますから」

「いけません。あの……一緒に寝るだけなら、構いませんから。これで、我慢なさってください」


 無理をしない、とは断言しない夫のことなど信じることなどできないのだ。でも、アロイスはどうしても腕を緩めようとしないから──リアーヌは、強引な夫に少しだけ譲歩してあげることにした。彼の頬を両手で包んでその額に口づけを落とすと、苦笑の気配がさざ波のように伝わってくる。今宵はここまで、と。アロイスも諦めてくれたらしい。

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