第30話 帰途に就く

 ロランの配下たちが捨てた武器が地面に積み重なっていた。その持ち主たちは、次々に縄をかけられて馬に乗せられていく。ここまで来た時のように鞍に跨るのではなく、荷物のように縛り付けられる形で。追手の援軍が続々と馬を乗り入れて来たことで、森の中の空き地は、祝祭の日の市場のように込み合っている。逃げることを諦めたロランの配下たちはおおむね大人しく運ばれているけれど、主の失敗の原因である──と、彼らには思えるだろう──リアーヌが手の届くところにいたら何を考えるか分からない。シェルファレーズの兵たちの邪魔をする訳にはいかないから、リアーヌはできるだけ隅の方に寄って、焦れながら夫との間を隔てる者たちがまばらになるのを待った。彼女はアロイスをじっと見つめているけれど、彼はロランに短剣を突き付けながら兵を采配するのに忙しいようで、リアーヌに目を向ける余裕はないようだった。


(アロイス様は本当にご無事かしら。大きなお怪我はないようだけど……)


 でも、無傷なはずはない。ロランたちが枝葉を剣で切り払いながら通って来た道を、アロイスは馬を駆けさせる勢いで押し通したはず。それだけでも擦り傷や切り傷が無数にできているだろうし、ロランの剣がどこを掠めているか分からない。馬から落ちた時にどこをどう打ったかも知れないし。だから、ついにロランが取り押さえられアロイスが立ち上がった途端、リアーヌはドレスの裾を少々はしたなくからげて夫のもとに駆け寄った。


「アロイス様! お怪我は……!?」

「リアーヌ姫、貴女こそ。遅くなって申し訳ありませんでした」

「いいえ、そんなこと……!」


 やっと彼女に向けてくれたアロイスの声も眼差しも優しく穏やかで、リアーヌの目の奥が熱くなる。夫が生きていると──彼女のせいで死んでしまったりはしなかったと、ようやく確かめることができたような気がした。

 湧き上がる喜びのままに抱きつきたいけれど、傷を負っているであろう夫に痛みを感じさせたくはない。もどかしい思いでリアーヌがあと一歩を踏み込めないでいると、アロイスは苦笑を浮かべて両腕を広げ、彼女の身体を包み込んだ。


「辛うじて、なのでしょうが……約束を守ることができた、でしょうか? 一緒に、私たちの城に帰りましょう」

「アロイス様……アロイス様、本当に大丈夫なのですか? 血が──」


 夫の名を何度も呼びながら、リアーヌは彼の顔を見上げ──先ほどまでは見えなかった方の頬に一条の傷が刻まれているのを見て、言葉を詰まらせる。ロランの最後の一閃が掠めたのだろうか、真っ赤な血が顎まで滴っていた。それに、彼女を抱き締めるアロイスの腕にも力が篭っていないし、息を詰める気配も感じられる。痛みを堪えて笑ってくれているのではないかと思うと、無傷で済んだはずのリアーヌの胸も、刃物で貫かれたように痛んだ。なのにアロイスは、何事もなかったかのようににこりと微笑んでくれるのだ。


「この有り様では口づけもできないのが残念ですが。でも、貴女は何よりの薬ですよ。痛みも消えていくようです」

「アロイス様……! 傷が開いてしまいますから……どうか、もう……」


 アロイスが口を動かすたびに頬の傷が引き攣れるのが恐ろしくて、リアーヌは悲鳴を上げた。彼女を安心させるために言葉を費やしてくれる気遣いはこの上なく嬉しいのだけど。でも、彼に負担をかけてしまうことがリアーヌには何より恐ろしかった。必死の思いが通じたのだろうか、アロイスは彼女の髪をそっと撫でると、唇をほとんど動かさない小声で囁いた。


「……本当に、大したことはないのですよ。骨も折れていないと思いますし。でも、仰る通り今は黙りましょう」

「はい。どうか一刻も早く手当てをしてくださいますように……」


 ふたりのやり取りが一段落するのを見計らったように、兵がアロイスに駆け寄った。絞った布で傷が拭われ、軟膏が塗られるのを見てリアーヌはようやくひと息を吐く。──そこに、怨嗟に満ちた声が響いた。


「なぜだ! なぜそのような男を選ぶ!? たかだか小国の大公のどこが良い……!?」


 ロランの声だ。縛られた姿で馬の背に腹這いに乗せられた、ともすれば間抜けな姿で、それでも怒りと屈辱に歪んだ顔を無理矢理に上げてリアーヌを睨んでいる。手当されたとはいえ肩の傷も痛むだろうに、それよりも憤懣をぶちまけずにはいられないらしい。


「…………」


 リアーヌとしては、彼に言うべきことはもはやない。彼の想いに応える気はないと、幾ら訴えても聞いてもらえなかったのだから、この上何を言っても無駄なのだろう。彼の罪は、シェルファレーズとルメルシエ、国同士の間で裁くべきものだろうし。こうしてアロイスと再会できた以上、リアーヌは彼を糾弾する立場にはないと思う。でも──


「助けられたで絆されるのか!? 私は、貴女のために罪を犯したというのに! 私は、貴女を幸せにしようと──」

「ほかの方の犠牲の上で幸せになれるような女ではありませんわ、私。見損なわないでくださいませ……!」


 夫のひとりを殺されて、しかもそれを誇らしげに語られては、黙っている訳にはいかない。リアーヌの声は思いのほかに冷ややかに尖り、彼女の怒りにようやく気付いたのか、ロランは戸惑ったように瞬いた。


「それは──お知らせするつもりはなかったのだ、本当は! このようなことになったから、たまたまで……それに! 私は貴女の悪評を拭って差し上げると言ったはず!」


 そう、確かに。アロイスと出会う前のリアーヌだったら、前の夫たちの死は父や彼女に関わりのないことだと教えられていたら、ころりと絆されていたかもしれないだろう。自身が手を下したクロードについても、ロランは良いように理由をこじつけていたに違いないから。三人目の夫を殺した相手を、そうと知らずに信じ、愛してしまっていたかもしれないと思うと、リアーヌの血は恐怖に凍り、同時に激しい怒りで沸き立った。アロイスが傷を負っている時でなかったら、彼の腕を振り払ってロランに詰め寄っていたかもしれない。夫と並んだ姿で、背筋を正して毅然と言い放つことができたのは、リアーヌの品位を保つためにはきっと幸いだっただろう。


「私は、シェルファレーズのアロイス大公と幸せになります。後の世では、長年をかけて悲しい別れを越えて、最後に生涯の伴侶と巡り合った女として語り継がれるように。《黒の姫君》の悪評は、私の生涯をかけて偽りだったと証明します。貴方の力など必要ありません」

「馬鹿な……」


 呆然と呟いた表情のまま、ロランを載せた馬は木々の間へ消えていった。リアーヌが言いたいことを言い切ったのだと、兵が判断してくれたらしい。ロランのたわ言など聞きたくなかったからありがたいことだ。


「リアーヌ姫……?」


 アロイスは、ロランが得意げに語ったの全容をまだ知らない。リアーヌを攫おうとしたことなどどうでも良い、彼女の前の夫で、ロランが仕えるべき王子だったクロードを謀殺していたことを。でも、怒りに震える彼女の様子から、何かがあったのだと察してくれたらしい。宥めるように、彼の手が優しくリアーヌの背を撫でた。その手に甘えて、できるだけそっと、体重をかけないように夫の胸に頬を寄せて、リアーヌは呟く。


「詳しいことは、また後で……何があったか、きちんとご報告しますから……」


 クロードの死に関する真相は、ルメルシエとの交渉にあたって重要な情報になるだろう。シェルファレーズは他国の王族を不法に捕らえたのではなく、重罪人を引き渡してあげるのだと主張するための。それに──


(アロイス様に、また泣き顔を見せてしまうけど……)


 会うこともできなかったクロードについて。ロランの、リアーヌへの歪んだ想いが彼の死を招いてしまったことについて。悲しみや憤りや悔恨を、アロイスに打ち明けたかった。彼ならば、嫌な顔をすることなく彼女の思いを分かち合ってくれるはずだから。かつての夫との思いでさえも、彼は受け止めると言ってくれた。過去があっての今のリアーヌだから、と。亡くなった夫たちを嘲るように語ったロランとは違う。そういう優しい方だからこそ、リアーヌはアロイスを愛し、共に生きたいと願うようになったのだ。


「……アデルやオレリアが心配しておりますよ。早く、無事なお姿を見せないと」

「はい」


 ほら、リアーヌが涙を堪える気配を察しているだろうに、アロイスは何も聞かないでいてくれる。傷に障らないように、喋らせてはいけないと思うのに。ごく密やかな囁きとはいえ、彼はリアーヌを宥めようとし言葉を尽くしてくれている。


「フェリクスも、後に残るような怪我ではありませんから。あいつ自身のことより、貴女のことを案じていることでしょう」

「それは……良かったです。あの、私は本当に何ごともなくて……だから、フェリクス様も」

「はい、すぐに貴女を追うように兵に命じてくれていました。これで、継承権も戻してやれますね」

「はい……!」


 リアーヌが案じることを、アロイスは先回りして教えてくれた。だから何もかも心配いらないのだと告げてくれる。怒りや悲しみだけでなく、抑えがたい愛しさと喜びと安堵によってリアーヌの目から涙がひと粒零れ落ちる。それでもアロイスを心配させたくなかったから、リアーヌは彼の胸でこっそりと涙を拭き取った。

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