第23話 危険を冒して

 急峻な山壁に建築されたシェルファレーズの王城では、階段での移動を強いられる場面も多い。窓の外、すぐ目の前に見える部屋を訪ねるのにも、一度階段を下ってから別の棟に入ってまた階段を上がる、というような手順が必要になることもあるのだ。

 公妃の私室からアロイスの執務室に辿り着くのにも、同様に上り下りを繰り返さなければならなかった。公務を行う場と、私的な場所を結ぶ経路を複雑なものにするのは、きっと警護の面でも意味があることなのだろう。


「足元にお気をつけて」

「ありがとうございます」


 すでに何度も通った道だから、リアーヌが迷うことはない。それでも、彼女が身体の向きを変えたり足を踏み出すよりも、いつもフェリクスが手を差し出す方が早かった。アデルの前では彼女に触れるのを躊躇っていたのが嘘のように、彼のエスコートは卒がなくて洗練されていた。

 リアーヌの目に意外の色が浮かぶのを読み取ったのだろうか、フェリクスはどこか恥ずかしそうに眼を逸らしながら、早口に言った。


「私だって礼儀を知らない訳ではないのです。……その、最初の時は失礼いたしました。最初というか、その後も、ずっと」


 フェリクスは、もう何度もリアーヌに謝ってくれている。そもそも彼女は怒っていないし、夫が彼に与えた罰は重すぎるくらいだと思っているのに。アロイスも同じようにいつまでものことを気にしてくれているから、彼女は本当に優しい国に嫁ぐことができたのだと思う。アデルが代わりに憤ってくれるから、彼女は心穏やかでいられるのだろうか、


「いいえ。アデル様のためだったのでしょうから。とても、素晴らしい方ですもの」

「……はい。私は……アデルを愛しているのです。いえ、それを言い訳にするつもりはありませんが!」

「まあ」


 気付いていました、とも言えなくて、リアーヌはフェリクスの告白に曖昧に微笑んだ。間を取り繕うためだけの笑みでもないけれど。アロイスに似た面影があるフェリクスが頬を染めている姿は──なんというか、可愛らしいと思ってしまうし、なんだかんだ言って人の恋の話は楽しいものだ。リアーヌが息を弾ませるのは、階段に難儀しているからだけではなくなっていく。


「でも、では、アロイス様は恋敵だったのでしょうか」

「兄に対してそのようなことは──兄ならば仕方ない……というか退かざるを得ないというか。それで、自分を納得させようとしていたのです」


 アロイスとアデルが並んでいるところが正しい光景なのだ、と。フェリクスは自分に言い聞かせていたのかもしれない。だからリアーヌが割り込んできたのは姿に見えたのかも。恋心ゆえの暴走だったのかと思うと、やはりリアーヌが怒り続けることは難しそうだ。それに、今の状況はフェリクスにとっても歓迎すべきものなのではないのだろうか。


「何といいますか……あの、それでは今なら改めて求婚なさっても問題はないのでは……?」

「継承権を剥奪された身ではアデルには相応しくありません。それに──思い込みで他者を傷つけるような男は願い下げだ、というようなことを言われました。いや、私が図々しくも求婚した訳ではなくて、アデルの方から釘を刺されたようなことなのですが」

「そうでしたか……」


 フェリクスの扱い方をよく心得ているのは、アロイスだけでなくアデルも、ということのようだった。どことなく肩を落とした風情のフェリクスが気の毒で、リアーヌはあえて明るい声を上げた。


「では、今回のことではフェリクス様がお手柄を立てられるようにしませんと。私、頑張りますわ」

「……公妃殿下はどうしてそのように慈悲深くていらっしゃるのでしょう……?」

「そう、でしょうか?」


 過分の評価としか思えなくて首を傾げるリアーヌに、フェリクスは少し眉を寄せながらも頷いた。


「はい。あまりにも慈悲深いからかえって残酷に思えるほどです。優しすぎて、居た堪れないというか」


 フェリクスの呟きは、やはり今ひとつ意味が分からなかったし、彼が顔を顰めている理由も気になったけれど。リアーヌが問い直すいとまはなかった。話している間に階段も終わり、上り切った先の廊下の先には、執務室の扉が見え始めていた。


「とにかく──仰る通りです。贖罪のためにもアデルのためにも、必ず御身はお守りいたしますとも」


 フェリクスが神妙な顔で告げたことには異論の余地はなくて──だから、後は執務室に入ってから、アロイスも交えて話すことになるのだろう。




 リアーヌが執務室に入ると、アロイスはにこりと微笑んで彼の隣に用意された椅子を勧めた。


「お待ちしていました。お座りください」

「はい、アロイス様」


 アロイスがかけているのは、大公が執務をする机ではなく、来客用の広い卓だった。何人も座る余裕があるのに、彼女の席は彼に近すぎて気恥ずかしい気もするけれど──でも、嬉しい。リアーヌが駆け寄るようにアロイスの傍に腰を落ち着け、一方のフェリクスは少し離れた場所に座った。

 楕円形の卓の上に広げられているのは、シェルファレーズの地図だった。とはいえ、リアーヌが見てもまだ実際の光景を思い描くことはできない。彼女が足を踏み入れた場所が少なすぎるのが理由のひとつ。そして、領土内での高低差が激しいシェルファレーズのこと、平面上に川や畑や集落の配置を示されるのを見るだけでは、山の高さや谷の深さまでは想像しづらいのだ。もちろん、アロイスやフェリクスにとっては生まれた時から慣れ親しんだ国土が、地図に重なってありありと見えるのだろうけれど。

 その地図の上に、アロイスは新たに一枚の書面を広げた。封蝋を剥がした跡も新しい、届いたばかりの書簡だと見えた。


「アロイス様、これが……?」

「はい、フェリクス宛てに届いたものです」

「例によって署名はなし、封蝋にされた印も形ばかりの、ありきたりのものです。まったく舐めている……!」


 フェリクスがやり取りをしているは、ルメルシエの者だということこそ明かしたけれど、名前や家名は教えてくれないままだそうだ。邪魔な公妃を排除してやるのだからは気にするなとでも言いたげな文面、だそうだ。

 身分を隠してシェルファレーズの内部に手を伸ばそうとするなんて卑劣なやり方だ。でも、フェリクスの立場がなければ相手をことはできなかっただろう。大公の弟という立場を弁えず怪しげな賊に協力を申し出たフェリクスが迂闊なのだと、黒幕は嗤ってでもいるのだろうか。


(ロラン様の手跡は、存じ上げていないし……)


 手紙の文面や筆跡から書き手の人柄を窺おうと、リアーヌは必死に目を凝らした。彼女が文字を追う間に、アロイスも内容を手短にまとめて声に出してくれる。


「フェリクスが公妃の護衛を任せられているとの情報に興味を持ったようです。公妃の外出の隙に手勢を配すので、隠れやすく逃げやすい場所と経路を明かすように、と」

「教えてはやりますが、無論、奴らの要望を叶えるつもりはありません。他所者には都合が良く見えるとしても、我らから見ればさらに隠れる場所がある──気付かれぬように囲んでしまえるような、そんな場所を探す予定です」


 シェルファレーズの地図は、誘い出す場所を選び、警備と待ち伏せの計画について練るために広げられているのだろう。兄弟ふたりが語り終えたところで、リアーヌもちょうど差出人不詳の手紙を読み終えた。顔を上げて──二対の同じ色の目をしっかりと見て、微笑む。


「アロイス様とフェリクス様を信じておりますから、お任せします。この目立つ髪ですもの、彼らも警戒を忘れてくれるでしょう」


 私室で過ごしていたところだから、リアーヌの髪は結わずに下した楽な姿だった。侍女たちの手入れによって保たれた銀の輝きを手に取って、指の間からさらさらとこぼれさせると、アロイスはなぜか眉を寄せている。彼女を呼びに来た時のフェリクスの顔とそっくりだから、リアーヌは思わずくすくすと笑ってしまう。そうすると、アロイスの眉間の皺は一層深くなってしまうのだけど。


「リアーヌ姫……本当に? 何度もお話しましたが──」

「ルメルシエの人たちならば、私の顔を見知っているはずですから替え玉を用意したところで無駄でしょう。何より、ほかの方を危険に晒す訳には参りません」


 アロイスが言い出しそうなことは分かっていたから、リアーヌは先手を打って彼の言葉を封じてしまった。危険な役目を他の女性に押し付けるような真似をしたら、シェルファレーズの公妃として民に受け入れてもらえるはずがない。リアーヌだって自分自身が許せないと思うだろう。アロイスとは何度も話し合っていることだというのに、危険が現実に迫ったら怖気づくだろうと思われたのだとしたら、見くびられたものだと思う。


(私は、自ら毒を呑む覚悟だってできたのですよ?)


 渋面の夫に微笑む陰で思ったことは、決して口に出さないけれど。そんなことを言っては、アロイスはますます不安に感じてしまうだろうから。だから、代わりに安心できる材料を挙げてみる。リアーヌは指を伸ばすと、手紙の何か所かを指でなぞった。


「──この手紙を書いた方は、自ら出向くとまで言っているのです。捕らえるための絶好の機会ということでしょう? それに、ほら、すぐに殺してしまうつもりではないようですし」


 手紙を書いたのが誰であれ、教養ある高い身分の方であることは確かであろう、と思わせる整った筆跡が、今回は高揚によってか少し乱れているようだった。企む内容の重大さを憚ってだろう、リアーヌの名前こそ直に挙げてはいないけれど、やっと銀の月を手中に収めることができると、その人物は記していた。逃走経路は女連れでも問題ないように、とも書かれている。だから、彼らはとりあえずリアーヌをルメルシエまで連れて行くつもりらしい。


(だから、攫われたとしても取り戻していただく猶予はありますわ)


 にこりと微笑んでみても、アロイスの顔が晴れることはなかった。冗談めかしていては伝わらないようだと察して、リアーヌは声と表情を真剣なものに改めた。


「……前の嫁ぎ先の方が悪い企みをしているなら、私もいつまでも安心できません。何の憂いもなくアロイス様のお傍にいるためですわ。だから、は絶対に捕まえないといけません。それも、言い逃れができないように、私に手を伸ばしたその場を押さえませんと」

「分かっているつもりなのですが……冷静ではいられませんね」


 見つめ合うことしばし──やがて、アロイスは折れてくれた。リアーヌから視線を外した彼は、小さく溜息を吐いて苦笑した。そして、再び彼女に顔を向ける時には、目に力が戻っている。


「とはいえ、仰る通りです。時間を無駄にして申し訳ありませんでした。──誘き出す場所を決めましょう。それに、貴女をどう守るか、どう振る舞っていただくかも決めないと」

「はい。よろしくお願いいたします」


 神妙に頷きながら、それでもリアーヌは胸が弾むのを感じていた。緊張や不安ももちろんあるし、彼女自身も足を引っ張るような真似をしてはいけないのは重々承知しているけれど、楽しみだとも思ってしまうのだ。きっと、アロイスは警備をフェリクスだけに任せるようなことはしないだろうから。夫と外出できるのは久しぶりだから──だから、表向きの目的として何をするのだろうとか、どんな衣装や髪型にしようかとか、そんなこともわくわくとした気分で考えてしまうのだ。

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