第22話 父への手紙、再び

 父への手紙を書くリアーヌの手は、今度は滑らかに動いていた。父の思惑を疑って、夫に想い人がいるなどというをさりげなく混ぜ込もうと頭を悩ませていた前回とは違うのだ。軽やかなのは彼女の手だけでなく、心もだった。


 ──この前は、不確かなことを書いてお父様のお心を乱してしまい、大変申し訳ございませんでした。シェルファレーズ大公に想い人がいるなどということは、まったくの思い違いだったのです。私がそのように考えてしまった方は美しいだけでなく優しく気品がある女性で、今では姉のようにお慕いしています。アロイス大公には早とちりを叱られてしまいましたが、誤解が解けた後ではかえって夫婦の絆も強まったように思えます。この方と共に末永く生きていくのだと、決意を新たにすることができました。


 まあ、詳しく書かずに端折った部分も多いのだけど。父が心遣いで送ってくれたらしい香りの良い精油を、本来の用途で使えなかったことは、申し訳ないと思うのだけど。でも、そう頻繁に国境を越えた手紙のやり取りができる訳でもないのだから、余計な心配をさせるようなことは書かない方が良いのだろう。


(それに、もっと大事なことがあるから……)


 文字を綴る手を休め、ペンの軸をインクに浸しながら続けて書くべき文面を練るリアーヌの手元に、影が落ちる。乳母のオレリアが、茶菓を運んできてくれたのだ。


「リアーヌ様、陛下へのお手紙ですね?」

「ええ。やはり、お父様にお聞きしないと始まらないと思ったの」


 フェリクスは、既にアロイスの命令通りに動き始めてくれている。大公の弟自らの手引きで牢から解き放たれた賊たちは、とりあえずはガルディーユではなくルメルシエの方角に消えたらしい。公妃を──リアーヌをこの国から排除したいとフェリクスから持ち掛けられて、厳しい尋問にも耐えた者たちが顔色を変えたとも聞いた。だから、ルメルシエがリアーヌに対して何かしらを企んでいることは、どうやら間違いないようだった。


「私が、もっと詳しいことを聞いていれば良かったのですが……」

「でも、オレリアは私に隠しごとができなかったでしょう。きっと私も、おかしな風に捉えてしまっていたでしょうし」

「リアーヌ様が危険な国から逃れられるなら願ってもないと、それしか考えられなくて。思えば、ルメルシエには薄情なことでしたわねえ」


 ふくよかな身体を萎ませるようにして、オレリアは深々と溜息を吐いた。

 リアーヌの新たな夫がルメルシエの王族から選ばれなかったことについて、オレリアは何も知らないのだという。アロイスに問われてやっと、急いで──としか思えない──リアーヌを呼び戻した父の命に疑問を持ったということだった。


「私も、自分のことで精一杯だったから……」


 自らを恥じるようなオレリアの溜息は、リアーヌにも深く突き刺さる。どうせ父の思惑に従うしかない身だと諦めきっていたけれど、嫁ぎ先のために抗うことを思いついても良かっただろうに。

 それができなかったのは、《黒の姫君》など一刻も早く立ち去った方が良いと思い込んでいたから。そして、ルメルシエの王宮では、リアーヌも周囲の者たちも、内乱の状況を把握することはできていなかったからでもあるだろう。当時は特段に隠しごとをされていたとは感じていなかったけど、不慣れな場所で馴染みのない地名や人の名前を教えられても、はっきりとした情景を思い描くことはできなかったのだ。


(でも、お父様なら違うはず……!)


 父はガルディーユの王であって、国のため民のために多くの事柄を吟味して判断したに違いないのだから。ルメルシエから冷酷なほどに素早く手を引いた背景には、きっと十分な理由がある。そしてそれは、リアーヌが信じてきたような狡賢い打算によるものではないかもしれない。


 運ばれた茶菓は香りを楽しむだけに留めて、リアーヌは再びペンを手に取った。まずは、手紙を書きあげてしまわないといけない。


 ──今となっては気になるのは、かつてご縁のあった国のことだけです。大公殿下は、私のためにランブールやロンゴリアの近況を調べて教えてくださいましたが、ルメルシエについてだけはいったい何が起きているのかようとして知れないのです。どうしていまだに内乱が収まっていないようなのか、私には不思議でなりません。


 直截に尋ねたからといって、父が正直に答えてくれるとは限らないのは分かっている。悪意の有無が問題ではなく、他国に嫁いだ娘に聞かせるようなことではないと、優しさゆえにこそ誤魔化すかもしれないのだから。だから、父を慌てさせるような文言を仕込まなければいけない。父が思っている以上にリアーヌはものをよく見ているし考えているし、シェルファレーズにいるからと言って安全とは言い切れない状況にいるのだと、気付かせて差し上げなければ。


 ──ことに、気に懸かっているのはベルトラン公爵ロラン様のことです。私は、仮初かりそめにとはいえあの方と婚礼を挙げてしまったのですから。正式に解消するための、何らかの手続きなり書面なりがあった方が良いようにも思えるのですが、ルメルシエとのやりとりもままならない状況では如何ともしがたく、今さらながら心配になっております。お父様から、何か働きかけていただくことはできないでしょうか。


「これで、良いかしら……」


 書き上がった手紙をじっくりと眺めて、リアーヌは呟いた。これを読めば、父はおかしいと思ってくれるはずだ。ルメルシエにいた頃、彼女が手紙で案じていたのはであるクロード王子だけ。代理の花婿のことなど一行たりとも触れたことはなかったのだから。


(だって、ロラン様は王宮にいらっしゃったから……危険なことなんて、なかったから……)


 直接会うことができなかったクロード王子とは違って、ロランの容姿はさすがにリアーヌの記憶に刻まれている。黒髪の、怜悧な印象の貴公子だった。婚礼の時の縁を理由に、何かと見舞いに来てくれた。王族の全てが戦場に出るはずもなく、嫁いだばかりの王太子妃を案じてくれるのは厚意によるものだと信じて不審に思うこともなかった──というか、クロード王子の安否を心配してそれどころではなかった。あの頃のリアーヌは、彼がもたらしてくれる情報に感謝して、心待ちにしてさえいたけれど──でも、何か別の思惑もあったのだろうか。リアーヌに取り入っておこうとか、将来のルメルシエの玉座を狙うとか?

 でも、それが何であれ、今のリアーヌにもシェルファレーズにも何ら関係のないことだ。できることなら先方も同じ認識であって欲しいし──もしもそうでないなら、分かっていただくしかないだろう。ロランがガルディーユの後ろ盾を望んでいるとしたらなおのこと、当のガルディーユからの掣肘せいちゅうは効くだろう。

 父の言いなりになるのではない。今のリアーヌは、自身の未来と幸福のために実の父さえ利用しようとしているのだ。自分でも信じられないほどの変化は少し怖く、けれど同時に楽しくもあった。手紙に封をする時は、知らず、鼻歌めいた節を歌っていたほどに。


「公妃殿下、よろしいでしょうか」

「は、はい。構いません、フェリクス様」


 扉の外から呼びかけられて初めて、リアーヌは鼻歌を歌っていたことに気付いた。まさか彼に聞こえてはいないだろうか、と少し不安になりながらフェリクスを招き入れる。すると、彼は軍装を纏い生真面目な表情でリアーヌの前に進み出た。アロイスの命を意識しているのだろうか、どこか無理をして肩肘を張っているような気配もする。部屋の隅で花を整えていたアデルの口の端に笑みが浮かんだのは、子供が背伸びするのを見るような気分になるからだろうか。


「兄上とご相談することがありまして。公妃殿下にもおいでいただきたいのですが、お手すきでしょうか?」

「はい。ちょうど手紙も書き終わったところですの。あの──ルメルシエのことで?」


 フェリクスに席を勧めようとしたリアーヌは、でも、ぴしりと立った彼の姿にゆっくり座る時間はないのだろうと察した。ならば彼の用件もおのずと想像がつく。声を低めての問いかけに、フェリクスは案の定大きく頷いて応えた。


「ええ。二度手間になるので詳しくは執務室でお話したいのですが。とりあえず、からの返信が届いた、とだけ」

「まあ……では、、ですね?」


 緊張と不安を隠して、リアーヌは微笑んだ。フェリクスは、この間に何度も賊たちと書簡のやり取りをしている。兄大公を惑わす《黒の姫君》に憤り、ガルディーユの傲慢に苛立つ振りを隠れ蓑にして、彼らの素性や目的を探ってくれているのだ。もちろん、アロイスやリアーヌもその都度報告を受けているし、実際に書面を確認したりもしているから、単にからの返信を受け取ったというだけではフェリクスがこれほど硬い表情を見せるはずがない。

 だから──はついに具体的な計画を持ち掛けてきたと、そういうことなのだろう。リアーヌを攫うのか害するのか。そして、それをいつどこで、どのようにして行うのか。アロイスに相談することというのは、いかにに怪しまれずこちらの手勢を配置するかとか、そういった類のことなのだろう。


「そう……なるのでしょうね」


 リアーヌのような晴れやかさは、フェリクスにはない。彼女に少しでも怪我を負わせれば罪に問うとの、アロイスの無茶な命令を気に懸けているのだろう。夫とも何度も交わしたやり取りをまた繰り返す気配を感じて、リアーヌは笑みを深めた。フェリクスに、少しでも安心して欲しかったのだ。


「そんな顔をなさらないでくださいませ。私は進んでを引き受けるのですもの」


 アロイスが懸念していた危険は、まさにこの点だった。妻を危険に晒せないと、眉を顰めるアロイスをリアーヌは懸命に説得したものだ。

 相手の狙いがリアーヌなら、目標が無防備な姿を見せればはず。シェルファレーズ大公の弟の手引きまであると信じさせることができれば、命令を受けた小物だけではない、その人だって近づいて来るかもしれないのだ。先の襲撃では、捕らえられた者から決定的な情報を引き出すことができなかったから──だから、相手を油断させることが必要なのだ。


「フェリクス様、参りましょう? どのように守っていただけるか、アロイス様とご相談するのでしょう?」


 リアーヌがにこやかに手を差し伸べると、フェリクスはぎくしゃくとした動きでそれを取ってくれた。ちらりとアデルに目を向けたのは、助けを求めるかのようでもあった。リアーヌをエスコートするのは気まずいと思っているのか、兄の妻に触れるのは憚られるのか──でも、リアーヌは手を引っ込めてなんかあげないのだ。多少強引にでも、夫の弟となりたいと思うことができはじめている。これもまた、彼女の変化だった。

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