第21話 作戦会議
執務室に呼び出されたフェリクスは、向かいに座ったリアーヌが気の毒になるほど強張った表情をしていた。立ったままで罰を言い渡された先日とは違って、今日はちゃんと椅子を勧められて茶菓を出されても、安心できないらしい。アデルに釘を刺されたのが相当堪えているのだろうし、逃げた賊を捕らえられていないのを叱責されるための席だと思ってもいるのだろう。
「フェリクス様、あの……」
「……お恥ずかしいことですが、ご報告できることは、まだ──」
リアーヌが声を掛けたのは、楽にしてもらおうと考えただけだったのに。フェリクスは沈痛な面持ちのまま、彼女に深く頭を下げた。はらりとこぼれた前髪が、茶に浸かってしまうのではないかと心配になるほど、深く。過度な恐縮ぶりにリアーヌが慌てて腰を浮かす一方で、アロイスは軽く笑って弟の軽挙を窘めた。
「お前の毎日の報告は届いているし、リアーヌ姫にもお伝えしている。そう畏まる必要はないのだ」
「は──兄上、ですが」
「民への被害がないことこそ成果、とも言えるだろう。だから、今日は別に咎めるために呼んだのではない。──頼みたいことが、あるのだ」
「兄上……?」
アロイスの真剣な声と表情に、フェリクスも顔を上げて姿勢を正した。リアーヌにちらりと向けた目にも、敵意よりは戸惑いの色が濃い。ここ最近、アロイスを手伝う彼女の噂は、彼の耳にも届いているだろうか。フェリクスの、自身に対する印象が少しでも良くなっていれば良いと願いながら、リアーヌは口を開いた。
「先日、私とアデル様を襲った者たちですが──ルメルシエの思惑があるのではないかと考えておりますの」
そしてリアーヌは、アロイスとあらかじめ語り合っていたことをフェリクスに説明した。
最初の二回の結婚が終わった時と違って、既に成人していたリアーヌがルメルシエで再婚しなかったのはやや不自然であるということ。内乱の処理に手を焼くルメルシエにとって、ガルディーユからの援助は貴重なものであったということ。だから、リアーヌとの縁を通じてガルディーユの後ろ盾を期待していたのではないかということ。
「……私がルメルシエで婚礼の式典を挙げたのは、夫であるクロード様ではなくて、代理の方──ベルトラン公爵ロラン様という方でした。ロラン様からすれば、ご自身こそが私を得るものだと思われていたのかもしれません」
アロイスと同じ色の目で、じっと見つめてくるフェリクスが何を考えているのか、リアーヌには分からなかった。真剣な面持ちで、少しだけ眉を寄せて。話を遮ることはしないから、聞き入ってくれているのだろうか。不安を感じ始めながらリアーヌが言葉を切ると、続きはアロイスが引き取った。
「ガルディーユ王は、リアーヌ姫をシェルファレーズに匿ったつもりではないのか、とも思うのだ。性急にも見えた縁談も、ルメルシエの干渉を察知していたからではないのか、と。シェルファレーズの守りの固さを信じてくれたのならば、その御心には応えねばなるまい?」
この点は、ふたりで語り合ううちに気付いたことだった。リアーヌが最初から考えていたように、シェルファレーズのような小国に、援助と引き換えに押し付けるようにして王女を嫁がせるのは、やはり裏がないことではなかったのではないだろうか。でも、一方で父に悪い企みがあったと断じる証拠もない。ならば、良い──と言い切れることでもないけれど──意図があったと考える方が、事実に近いのかもしれない。リアーヌの手紙への返事として、宥める言葉と心を落ち着ける精油を送って来た父の善意を、信じるならば。
でも、兄の問いかけを受けたフェリクスは、皮肉っぽく唇を歪めて鼻を鳴らした。
「どうでしょうか。危険を知りながらこちらには何も言わなかったのならば、不実かと思いますが」
そして彼の指摘ももっともなことだから、リアーヌは膝の上で拳を作り、ドレスの生地を握りしめた。アロイスは彼女に優しすぎるほど優しいけれど、シェルファレーズの民の全てが同じように考えてくれるはずはない。再びリアーヌが口を開いた時、声は震えてしまっていた。
「もちろん、申し上げたのは推論に過ぎません。ルメルシエの刺客だとしても、私を恨んでのことである可能性も高いと思っています。いずれにしても、この国を乱してしまったことは本当に申し訳ないと──」
「貴女がご存じなかったなら、謝られる必要はないでしょう」
言い訳を聞くのは無駄とばかりに、フェリクスはリアーヌの言葉を遮った。でも、ぶっきらぼうな声と鋭い視線に、傷つくことがないのはどうしてだろう。フェリクスの態度に、アロイスが言うのと同じ、シェルファレーズの精神を感じるから、だろうか。険しい山間に難を逃れて来た者は守るべきだ、と──災いをもたらす存在ではなく、この国の一員として認めてくれたのだとしたら、とても嬉しいことだった。
リアーヌが熱くなった頬を抑えて俯いた理由は、多分フェリクスにはどうでも良いことだったのだろう。彼は兄に向き直り、鋭く問い質した。
「兄上は──大公殿下は、どのようになさるおつもりですか。ルメルシエもガルディーユに劣らぬ大国だ。さほどの交流がある訳でもなし、確たる証拠もないのに非難することなどできないと存じますが」
「そうだ。だからまずは、その確たる証拠を掴まねば」
そう──フェリクスを招いた本題は、ここからだった。弟からの視線を受けて、アロイスも表情を一段と真剣なものに改め、兄弟ではなく大公としての威厳でもって短く命じる。
「今捕らえている者たちを、逃がせ。
「な……っ!?」
「彼らが狙っていたのはリアーヌ姫だと、お前も察していたことだろう。《黒い姫君》の噂を信じ憂いたシェルファレーズの大公の弟は、不吉な妃に溺れる兄を案じて公妃を追い落とそうとするのだ。ありそうなことではないか?」
リアーヌとアロイスの目の前でフェリクスは頬を紅潮させ、次いで青褪めさせた。心外なことを命じられてまず怒り、次いで兄の真意を疑って恐れたのだろう。リアーヌに敵意を向けたことをまだ
「兄上……お怒りなのはごもっともですが、私は、もう──」
「アロイス様もお分かりです。あくまでも策の一環として、ということですわ」
とはいえ、継承権を剥奪されるほどの罰を受けている身で、大公に反駁することもできないのだろう。言いづらそうに口ごもるフェリクスを見かねて、リアーヌは横から口を挟むことにした。
「大公一族からの助力の申し出だなんて、さすがに『黒幕』の指示を仰ぐべき事態でしょう? 怪しむことは確実でしょうけれど、もしも本当なら私を──攫うなり害するなり、とても簡単になるはずなのですもの。逃がした者たちがどこへ行くか、次に現れる時に誰の名を携えてくるのか──きっと、重要なことだと思いますの」
「私に、その者たちや──『黒幕』との交渉役になれということですか。卑劣な役目なのは、まあ拝命するしかないですが、これ幸いと貴女を害する計画に加担する可能性は考えられませんか?」
フェリクスの挑むような視線を受けて、アロイスは穏やかに微笑んだ。彼が脅すように述べた懸念も、リアーヌたちはとうに考え付いている。どう対応するかについては──リアーヌは、フェリクスを信じれば良いと思っていたのだけれど。アロイスは、さらに念を押しておくべきだと主張して聞かなかった。
(フェリクス様、お気の毒に……)
リアーヌが密かに同情する一方で、アロイスはいっそにこやかに弟に告げた。
「万が一にも、たとえ髪一筋でもリアーヌ姫が傷つくようなことがあれば、作為や悪意の有無に関わらずお前は反逆者になる。公妃の身に害を及ぼした者には当然の罪、だろう?」
「はは……」
フェリクスが浮かべた笑みのような表情は、多分、引き攣った頬がそのように見えただけだろう。彼にそんな顔をさせたアロイスの方は、本物の穏やかな笑顔で、平然と茶器を持ち上げて口を湿す余裕を見せつけているけれど。フェリクスが気を取り直す前に、アロイスはかちゃりと優雅な音をさせて茶器を置き、とどめのように晴れやかに笑う。
「だから、心してことに当たれ」
「あの、でも、危険なのは承知の上ですから、多少の怪我は覚悟しておりますから」
アロイスが弟に対してあまりに冷酷な気がして、リアーヌは恐る恐る声を上げた。彼はフェリクスを脅しているだけだと思いたかった。フェリクスがシェルファレーズを想う気持ちはきっと心からのものだから、外患と安易に通じるはずなんてない。アロイスも良く知っているはずのことだから、と思ったのに──
「いいえ。ここまで買っていただいたのです。必ず、応えてご覧に入れましょう」
フェリクスは唇をきっと結んでから、意外なほどにしっかりと、そしてはっきりと頷いて胸を叩いた。
(買う、とは……?)
彼の熱意の源が今ひとつ分からなくて首を傾げるリアーヌを他所に、アロイスも満足そうな顔をしている。
「やってくれるか」
「はい。まずは、捕らえた者たちに信じさせるところからやりましょう。少し前までの気持ちを思い出して──厄介払いをしたがっているように思わせなければ」
「言うまでもないが、演技に呑まれてはならないぞ?」
弟を見るアロイスの目が一瞬だけ険しくなって、横で見ているリアーヌをどきりとさせる──けれど、フェリクスは動じた様子もなく再び頷き、席を立つとその場に恭しく跪いた。
「無論です。──名誉挽回の機会を与えていただいたことに感謝いたします、兄上」
フェリクスが去った後、リアーヌが腑に落ちない顔をしているのに気付いたのだろう。アロイスは無造作に肩を竦めた。
「フェリクスは昔から負けん気が強いので。無理難題を押し付けた方が発奮するだろうと思ったのです」
「そうでしたか……」
弟の性質を把握しているのは兄としても大公としてもさすが、ということなのだろうか。リアーヌにもきょうだいはいるけれど、嫁ぎ先で過ごした年月に比べると、実家で過ごした期間はごく短いからそこまで気心が知れている相手はいない。だから、アロイスたちの親しさは羨ましかった。
顔もおぼろになってしまったきょうだいたちに思いを馳せるリアーヌを、アロイスの声がこの場に引き戻した。
「フェリクスめ、何も手をつけないで出て行ってしまいましたね」
「ああ……あの、お茶が冷めてしまいましたね。淹れ直しますわ。お湯を持ってきてもらって──」
せっかく用意した茶菓も、アロイスが少し茶を飲んだだけで終わってしまった。フェリクスはもちろん、リアーヌも話の流れを追うのに集中しすぎてしまって味や香りを楽しむどころではなかったのだ。リアーヌは慌てて立ち上がろうとするけれど──アロイスは彼女の手を捕らえて引き留めた。
「アデルから聞いたのですが、犬にご褒美をやったそうですね。貴女の手で、直に」
「え……ええ、はい」
夫の手の温もりに頬を染めながら、それでも唐突な問いかけに首を傾げていると、アロイスはにこりと魅惑的な笑顔をリアーヌに向けた。
「お茶のお代わりよりも、私にも同じご褒美をくださいませんか?」
「……え?」
アロイスの期待に満ちた眼差しは、確かに以前見た牧羊犬と同じように輝いている、かもしれない。
『大公殿下がこの場にいらっしゃったら、犬になりたいと思われるでしょうね』
アデルがあの時笑いながら漏らしたことも、リアーヌはちゃんと覚えている。日ごろの政務に加えて、ガルディーユやルメルシエの思惑を解き明かそうと手を尽くしくれてている彼には、いくら礼をしてもし過ぎるということがないのも分かっている。でも、大人の殿方を相手に、犬と同じように手渡しで菓子をあげるのは──どう、なのだろうか。
「あの、そんなことでご褒美になりますか?」
「はい。是非」
アロイスは軽く目を閉じて口づけを待つ時のような表情になって、リアーヌの頬をさらに熱くさせる。
(じゃ、じゃあ……?)
別に、何がなんでも嫌だということではない。ただ、何となく恥ずかしいだけで。菓子をアロイスの口元に運ぶ、ただそれだけのことで彼が喜んでくれるなら、リアーヌにとっても嬉しいことのはずだ。
「ど、どうぞ……?」
アロイスに捕まっていない方の手で小さな焼き菓子を摘まむと、リアーヌはひな鳥のように待つ体勢のアロイスにそっと差し出した。形の良い唇が開き、菓子はひと口に呑み込まれる。──それに、リアーヌの指先も。
「あ──」
指先についた細かな欠片まで綺麗に舐め取ってから、アロイスは満足そうに頷いた。
「とても美味しかったです。ありがとうございました」
「いいえ、これくらいなら、何度でも」
「おや、本当に?」
アロイスが食いつくような勢いで言ったので、リアーヌは口を滑らせたことに気付いた。
「で、でも今はおしまい、です! まだお仕事も残っているのですから……!」
「そうですね。では、ふたりきりの時の楽しみにしておきましょう」
アロイスはあっさりと頷くと、来客用の席を立って書類の積まれた机へと戻っていった。すぐに引き下がられたのが残念なような、またとんでもない言い間違いをしてしまった気がするような──複雑な思いで胸をどきどきとさせながら、リアーヌも夫の背を追った。
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