第20話 共にいるために
寝室でふたりきりになるなりアロイスに抱きつくのが、リアーヌの日課のようになっていた。彼の背に腕を回しながら軽く背伸びをしても、口づけをするにはまだ少し届かない。もどかしくて──それに、彼の香りを味わいたくて。子猫がするようにアロイスの胸に頭を擦りつけると、彼の方から身体を屈めて頬や額に口づけを落としてくれる。さらに唇を重ねてからやっと、アロイスはくすくすと笑ってリアーヌに語りかけるのだ。
「急に甘えん坊になってしまわれたようですね」
「はい。今までがもったいなかったと思ったのです。最初から……こうしていれば、良かったと」
腕に思い切り力を込めると、アロイスの存在を全身で感じられる。父の意図を思い悩み、自身の罪を疑って距離を置いていたのは、なんと愚かなことだっただろう。あまつさえ、彼女は誤解によって命を捨てようとしていた。自らが何度も味わった伴侶を喪う悲しみを、アロイスにも与えてしまうところだった。そう思うと、恐怖に凍える思いがする。そして同時に、生きて抱き合うことができる喜びに震える。アロイスの温もりを感じて安堵して──でも、またすぐに不安が襲ってくる。こんな出来過ぎたような幸せが、いつまでも続くものなのかどうか。
「アロイス様……ずっと、このままで良いのですね? 私がここにいても……あの、父が何を考えていたとしても?」
「もちろんです。……容易くは信じられないと思われるようなことをしてしまったのを、本当に申し訳なく思っています。でも、もはや貴女以外の妻は考えられません」
アロイスの胸に額をつけた格好で囁くと、すぐに嬉しい答えが返ってくる。これもまたお決まりになってしまったやり取りだから、夫は彼女の不安を除く言葉を、もう幾つも考えてくれているのだ。何度も同じようなことを尋ねてしまう鬱陶しさは百も承知で、リアーヌは安心をねだってしまう。
「この国に危険が迫ってしまうかもしれませんわ。それでも?」
「それなら、下界への道を閉ざしてしまいましょう。お父上からの援助のおかげで、当分篭れそうですから」
宥めるような言葉と口づけを浴びながら、リアーヌは寝台に運ばれる。アロイスとふたり分の重みで柔らかな羽毛が詰まった寝具を沈ませても、彼女の心はまだ安らぎには遠く、夫に縋らずにはいられない。
「私を、置き去りになさらないでくださいね? ……もう二度と、あんな思いをしたくないのです」
リアーヌの不安の根本は、つまるところそこなのだ。また夫に先立たれるのではないか、喪服を纏うことになってしまうのではないか、と。彼女自身や父の潔白を信じるとしても、あるいはだからこそ、人はある日簡単にいなくなってしまうこともあるのだと、リアーヌは知ってしまっているのだ。
「前の方々のことが、忘れられないのですね」
「……申し訳ありません」
今の夫に触れられて目覚め始める官能と、かつての夫たちを思うと感じる胸の痛み。相反する感覚にリアーヌは眉を顰めるけれど、アロイスは彼女の裡に悦びだけを高めようとしているようだった。寝間着に手を掛け、肌のより敏感なところに指を伸ばしながら、アロイスはリアーヌの耳に熱く囁く。
「良いのですよ。今の貴女の夫は私なのだから。かつての不幸があったからこそ、私は貴女に出会えたのだから」
「そんな……っ、こと……」
どこをどう触れば、リアーヌがどんな声を上げるのか──アロイスは、もう熟知してしまっているようだった。アロイスの優しく丁寧な指先に神経を解されて、リアーヌの声は上擦ってしまう。亡くなった夫たちの話を、今の夫と閨でするなんて。しかも、こんな甘く蕩けた声で。
羞恥と背徳感に悶えるリアーヌの耳朶を、アロイスはそっと
「何を言っても、貴女は気にしてしまうでしょうから。せめて、その方たちの死は私の幸せに繋がったのだとお伝えしておきたいのです。少なくとも、私にとってはそうなのだと。だから……貴女の悲しみにも意味があったのだと、考えることはできませんか?」
「分かりません。そんな風に……ん、考えても、良いものなのか」
「分からないままで構いません」
舌を絡める口づけですっかり息を乱したリアーヌから、アロイスはいったん身体を離した。深い呼吸で胸を上下させながら寝台の天井の意匠を見上げるリアーヌの耳に、衣擦れの音が響く。アロイスも纏っていた服を脱ぎ捨てたようだった。改めて彼がリアーヌの傍らに身を横たえた時、その体温は一段と近く、熱い。素肌で触れ合うことによって、リアーヌの体温も上がっていく。抱き起されて、髪を梳かれる──それだけのことで、どうしようもなく、苦しいほどに胸が高鳴ってしまうのだ。
多分、アロイスが言ってくれることがあまりに嬉しいからでも、ある。
「ただ、私は本当に気にしていないし恐れてもいないのですよ。他の方々がいたことも含めての、今の貴女だと考えています。悲しかったことだけでなく、嬉しかったことも、全て。聞かせていただきたいと思っています」
「アロイス様……どうしてそんなに優しくていらっしゃるの……?」
リアーヌにとって、新しく嫁ぎ直すということは、かつての夫の思い出は封印するということとほぼ同義だったのだ。はっきりと嫌な顔をされたことこそないけれど、周囲の者たちが前にいた国の話をしなくなることで、そうすべきなのだと幼い彼女は教えられた。楽しかった出来事も、笑い合ったことも、ひとり胸の裡にしまうしかなかった。思い出を語れるのは嬉しいことかもしれないけれど──リアーヌは、きっとまた泣いてしまう。アロイスを困らせてしまう。何より──
「妻の前の夫のことは……あの、普通は、聞きたくないものではないのですか……?」
どうして裸で抱き合いながらこんなことを話しているのか、本当に分からなかった。アロイスにとっては、決して楽しい話ではないだろうに。リアーヌも、不貞を犯しているかのような居たたまれなさを感じてしまうのに。
寄る辺を求めるようにアロイスに身体を預けると、どこか悪戯っぽい笑い声がリアーヌの肌をくすぐった。
「貴女の『特別』になりたいから、かもしれませんよ? 貴女がこれまで、前の方々を語れる相手はいなかったからでしょうから……」
「アロイス様……」
アロイスの声と、彼の体温と、手指と。素肌に感じる異なる感覚にわななきながら、リアーヌは思う。アロイスの言う通りでは、ある。以前の夫のことが彼女の耳に入るとしたら《黒い姫君》の悪評と共に、だったから。だからこそ、リアーヌは疑いや恐ればかりを育ててしまっていたのだろう。かつての夫たちの思い出を語らせることで、アロイスは彼女が事実と向き合う手助けをしようとしてくれているのかもしれない。そして、そこまでしてくれるアロイスは、リアーヌにとって決して代えることができない存在になる。
「アロイス様……優しいのか狡いのか分からない方」
両手の間にアロイスの頬を挟み込んで、リアーヌはうっとりと呟いた。下心があると打ち明けることさえ、彼の策のように思えてならない。そうやって、彼女の後ろめたさを減じようとしてくれているのではないか、と。優しく言葉巧みに、アロイスはリアーヌの心を操っているのではないかと、そう思えてしまって。
「でも、好きです。私の……旦那様……」
夫と幸せに暮らしたい、というリアーヌの望みは、今では少し変化している。幸せになるのは、アロイスとでなければならないのだ。父によって組まれた縁だからではなく、国や民のためでもなく。彼女自身がその未来を望むのだ。胸の裡に思いを留めておくのではなくて、言葉に出してはっきりとアロイスに伝えるのも、彼女の変化のひとつ。胸に湧く思いが、恐れや不安だけではなくなったのも。
(誰にも……何があっても、奪われてなるものですか……!)
アロイスの背に腕を回し、目が眩むような幸福感を感じながら。リアーヌは強く決意していた。
夜の闇と静寂の中、ぐったりと四肢を脱力させたリアーヌは、情事の後の気怠さに抗ってアロイスの耳元に唇を寄せた。繋いだままの手に少しだけ力を込めて、まだ眠ってはいないことを夫に教えながら。
「アロイス様──ルメルシエのこと、ずっと考えていたのですけれど」
「ああ……賊を捕らえることができず、申し訳ないことです。いつまでも城の中では息が詰まるでしょうに」
快楽の余韻を乱されたにも関わらず、アロイスが気分を害した気配はなかった。それどころか、彼女を守ろうとでもいうかのように、裸のままのリアーヌの肢体は褥に包まれた上で抱き寄せられる。滑らかでひんやりとした絹と、夫の温かく逞しい腕と。二重の繭に包まれているようで、リアーヌとしてはこの上なく心地よく安心できる空間だった。
「一度失敗したことで、警戒しているのでしょう。彼らの素性や目的について、私やアロイス様に勘づかれてはならないはずですし……二度目はないと思ってもいるでしょう」
でも、ずっと守られている訳にはいかない。閨の中でも、日ごろの生活でも。例の襲撃があって以来、リアーヌはシェルファレーズの王城から外に出ていなかった。庭園を散歩するだけでも窮屈な思いをせずに済んでいるし、城の中でできる政務に限っても、リアーヌが学ぶべきことは山ほどある。とはいえ、いつまでも正体の知れない賊を警戒し続ける訳にはいかない。リアーヌは、シェルファレーズの四季を見たいのだ。青く広い空の下、夏の盛りも秋の彩も、冬の雪の白さも直に感じたい。アロイスと共に、治める土地や人々と接したい。
「……捕らえた者たちを拷問するしかないかと、考え始めているところです。貴女には絶対に見せられるものではないですが……」
すっかり乱れたリアーヌの髪を梳くアロイスの手が、止まってしまった。この城の多くの場所を既に案内してもらったリアーヌだけど、賊たちが捕らえられている牢は、さすがにまだ足を踏み入れていない。比較的平和なシェルファレーズとはいえ、
「でも、本当にルメルシエのロラン様の意を受けているなら、早々口を割るはずがない者を選んでいるのではないかと思います。絶対に、露見してはいけないことなのですから……だから、動かぬ証拠を押さえなければいけないのではないでしょうか」
「何を考えていらっしゃいますか? 危険なことではないでしょうね?」
星明りだけが頼りの暗がりの中、アロイスは寝台に片肘をついて半身を起こした。ぼんやりと浮かび上がる顔が顰められているようなのは、きっと、先日の
夫の不安と不審を解きほぐそうと、リアーヌは努めて明るい声を出そうとした。実際に成功したかどうか分からないけれど。少なくとも、
「危険……かもしれませんけれど。アロイス様が守ってくださると信じています。それに、二度と命を無駄に投げ出すようなことはいたしませんわ」
リアーヌも少しは狡いおねだりのし方を覚えたのかもしれない。信じていると言われたら、アロイスも彼女の案を無碍にすることはできないのではないかと思うから。彼女の信頼に応えるべく、きっと全力で策を講じてくれると思うかから。
「……まずは、お話を伺いましょうか」
そして、たっぷり数十秒は考えた後に、アロイスはとりあえずは頷いてくれた。いかにも渋々ながら、といった口調ではあったけれど。青い目が少し細められて、油断なくリアーヌを窺うようではあったけれど。それでも──ふたりで力を合わせて何かをするということを、初めてできるのかもしれなかった。
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