第19話 前に進む

 その日の残りの時間は、リアーヌはアロイスを独占する訳にはいかなかった。大公がいつまでも妻にかかりきりでは、政務が滞って仕方がない。だから、リアーヌが顔を拭いて化粧を直した後は、執務室の扉は開かれて多くの官吏が出入りして──そして、大公の隣にリアーヌがいるのを見て驚いた顔をしていったものだった。


「そろそろ手伝っていただこうと思ってな。美しい方がいてくださると政務も捗って、良い」

「一刻も早くこの国に慣れたいと思っておりますの。最初は邪魔だろうと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 アロイスが平然と惚気のろけめいたことを口にする一方で、リアーヌの表情も声も硬く強張っていた。真っ直ぐに敵意を剥き出しにしてきたのはフェリクスくらいだったけれど、リアーヌが父の悪だくみの手先だと疑っているシェルファレーズの民は決して少なくないだろう。そうでなかったとしても、嫁いできたばかりの小娘が偉そうにしているのは快く思われないはず。


「さようでございますか。美しい方がいらっしゃると場が華やぎますな」


 官吏たちは、驚きの表情を素早く笑顔に変えると、おおむね似たようなことを口にして恭しくリアーヌに頭を垂れてくれた。でも、一瞬の間に、大公へ諫言すべきではないかとか、油断してはならないのではないかとか、そんな迷いや警戒が透けて見えるような気がしてならなかった。


「気のせいですよ。皆、貴女に見蕩れているだけです」

「そう……でしょうか」


 人の出入りが途切れてふたりきりになった瞬間を狙ったかのように、アロイスはリアーヌに微笑みかけた。どうして彼には彼女の心がすべて漏れてしまうのか、どうして信じられないような素敵なことばかりを囁いてくれるのか、リアーヌには不思議でならない。


「短い間でも、直に接すれば人柄というのは分かるものです。フェリクスのように頑迷な者には、私が分からせてやりますから」

「そんな」


 陳情の書類を広げながら、アロイスが浮かべた笑みはどうにも剣呑な雰囲気が漂っていて、リアーヌは思わず目を見開いた。フェリクスに対してみせたような厳しい態度や重い罰を、シェルファレーズの民や臣下にも下すというのだろうか。誰がどう見ても怪しいリアーヌを庇うために? 大公の権威と人望を損ねないように、リアーヌは諫める言葉を探すのだけど──


「貴女を恐れ疑う者がいるとしたら、それは私の咎なのです。大公である私が、最初に対応を間違えてしまったから、それに倣おうだとか、それが正しいだとか思われてしまっているのです」


 アロイスが額を合わせるようにして間近に囁いてくるから、リアーヌは何も言えなくなってしまう。端正な顔が翳って、いっそどこか苦しげに語るのを見ていると、胸が苦しくなってしまって。


「だから、貴女の居場所を守るのは私の役目です。貴女は堂々と構えていてくださいますように。……ただでさえ、御心が落ち着かないことでしょうから」


 アロイスは、リアーヌを狙った──らしい──賊のことを仄めかしている。彼らは本当にリアーヌのかつての婚家に関わる者たちなのか、その目的は何なのか。すぐに答えが出るものではないから今はひとまず置いておいて、ふたりの時間にゆっくり考えようと彼は言ってくれていた。シェルファレーズの官吏たちに対してリアーヌが上手く笑えないのも、無駄だと知りつつ彼方で巡らされているかもしれない陰謀に思いを馳せてしまうからだ。アロイスには、それもお見通しなのだろうか。


「はい……申し訳……いえ、ありがとう、ございます」


 多分、謝るよりも礼を言った方がアロイスは喜んでくれる気がした。だからリアーヌは反射のように漏れそうになった言葉を呑み込んで、言い直した。そして、期待通りにアロイスが微笑んでくれたのを見て、とても温かい──幸せな気持ちになることができた。




 日が暮れた後に私室に戻ると、笑顔のアデルがリアーヌたちを迎えてくれた。


「フェリクスの反省が足りないようでしたので、私からも叱っておきましたわ」

「え……」


 晩餐の席にリアーヌを案内しながら、アデルは悪戯っぽく囁いた。リアーヌがきょとんと目を瞬かせていると、彼女は執務室でのやり取りを聞いたのだと教えてくれた。


「賊を捕らえさえすればお許しが出るものと信じているようでしたから。そう簡単なことではないと、してあげましたの」

「まあ……どのように……?」

「リアーヌ様に疑われて、御心を傷つけてしまって。私も大変悲しく苦しかったのだと気付かせてあげました。人のことを誤解させておいて得意げにしているなんて、許せませんでしょう?」


 目を伏せて深々と溜息を吐いたアデルは、多分フェリクスにもその憂い顔を見せたのだろう。言葉よりも雄弁に、彼女の怒りと悲しみが伝わってくるようで──その対象が自分ではないと分かっているリアーヌでも胸が痛んで冷静ではいられないくらいなのだから、フェリクスはさぞ慌てたのではないだろうか。彼はきっと、リアーヌのせいでアデルが蔑ろにされているようで許せなかったのだろうに。兄やシェルファレーズのためというだけでなくて、アデルのために案じ憤っていたのだろうに。

 と、ここまで考えたところでリアーヌは腑に落ちた気がした。


(ああ……フェリクス様は、アデル様がお好きだから……?)


 彼がしきりにリアーヌを睨んでいたのも、疑いももちろんあるのだろうけど、アデルのための義憤でもあったのだろうか。そう思うとほんの少しだけ心は軽くなり、そして同時にフェリクスの心中が思いやられた。想う方のためと思ってしたことが、かえって怒りを買ってしまうなんて。もしかしたら継承権を剥奪されたことよりも堪えたのかもしれない。

 リアーヌの思い違いというか早とちりが、思わぬ余波をもたらしてしまったのかと思うと一層申し訳なく感じられるのだけど。アロイスはアデルの報告を聞くと満足そうに頷いた。


「アデルからのお説教の方があの者には効くのですね。兄としては恥ずべきことですし、本来は貴女への非礼をも理解させなければならなかったのですが……」

「あの、フェリクス様も得意に思ったりなどはなさっていないと思うのですが。私にも、ちゃんと謝っていただけましたし」


 おずおずとフェリクスを庇おうとしても、でも、リアーヌの前にカトラリーを並べるアデルは取り合ってくれる様子はない。変わらぬ笑顔をリアーヌに向けながら、アデルは軽やかな口調で容赦なくこの場にはいないフェリクスを切り刻む。


「ええ、得意げ、というのは少し悪意がありましたわね。大公殿下に手柄を見せなければと必死なのだ、その意気込みを述べただけだと彼は主張するかもしれません。でも、私のためを思ってなどと言われては、我慢できませんでしたの」

「それは……その、ごもっともかもしれませんけれど」


 リアーヌの自害未遂を理由にフェリクスを責めるなら、彼女にも庇うことができる。でも、アデル自身の怒りが理由だと、そんなことはありません、とは言えなくなってしまう。だから、リアーヌは謝ることもできず、かといってフェリクスを詰る気にもなれなくて口ごもるばかり。

 ただ──これもまたアデルの気遣いなのだろうとは、なんとなく分かる。もっと怒って良いと言われてもリアーヌにはそれができないから、彼女の代わりにアデルが憤ってくれている、ということではないかと思うのだ。事実、葡萄酒を注ぎながらリアーヌに語りかけるアデルの笑顔は晴れやかで、欠片も鬱屈を感じさせないものだった。


「リアーヌ様がどう思われようと、あの子はお叱りを受けて当然ですの。だからお気に病んだりなさらないで、堂々としていてくださいませ」

「アデル様……ええ、はい」


 堂々と、とはアロイスに言われたばかりのことだから、リアーヌは思わず苦笑してしまう。ふたりの仲の良さ、考えの近さを垣間見たように思えたから。でも、もう嫉妬したり悩んだりはしない。そうやって俯いて勝手に思い詰めてしまったことが騒動に繋がってしまったのだと、さすがに分かり始めているから。父や自身を悪だと決めつけて悲嘆に暮れるのは、真実を見極めようとするよりずっと簡単だった。毒や、かつての婚家による裁きを待ち望むのも、きっと安易な逃避だった。でも──それでは、いけないのだ。


「あの……公妃が頼りない有り様では、皆様が困ってしまわれるということですよね……? 私は……自分が悪いものだと思っていましたから。でも……あの、頑張ってみようと思っていますの。アロイス様が、信じてくださるから……」


 だから、虚しく謝罪の言葉を並べることはもうしない。それは、アロイスやアデルの優しさを踏み躙ることになるのだろうから。湯気が立つパンやスープの香りに励まされるような思いで、リアーヌは決意を述べる。温かい食べ物を味わって心身を養って、そして未来に備えよう、と。そう思えるようになったのは彼女にとって大きな変化だった。


「まあ。大公殿下にだって、もっとお怒りでも良いと思いますのに。──でも、シェルファレーズの民としてとても嬉しいお言葉ですわ」


(そう……私は、シェルファレーズの公妃なのだから……!)


 だから、リアーヌの居場所は空に近いこの国の、アロイスの傍なのだ。釣り合わないとか後ろめたいとか、思い悩んでいる場合ではない。彼の隣で堂々としているためにどうすべきか──やや無作法にカトラリーを強く握りながら、リアーヌは考え始めていた。

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