第18話 過去から伸びる手

 リアーヌが我に返ると、彼女は机の傍の椅子ではなく、どういう訳か長椅子に掛けさせられていた。泣きすぎて、息が苦しくなって、頭がぼうっとしてしまって。その間に立たせられて、楽な姿勢に座り直させられていたらしい。アロイスはずっと彼女に寄り添って支えてくれていたから、気付かなかったのも当然──なのかどうか。良い歳をして、夫になったばかりの方に何度も泣き顔を見せた醜態にも気付いてしまって、リアーヌは不意に恥ずかしさにいたたまれなくなる。


「あ、の……」

「落ち着かれましたか」


 跳ねるように腰を浮かせて距離を取ろうとする試みは、アロイスの腕であっさりと摘み取られてしまった。居心地の良い檻のような抱擁でしっかりと捕らえられて、リアーヌは優しい拘束の中に留まるしかない。せめて涙で腫れているであろう顔は見られないように、と。アロイスの胸に額を押し付ける格好で、リアーヌは呼吸を整えた。下を向くと、自分の手がしっかりとアロイスの背に回っているのに気づいてまた赤面してしまうのだけど──それは、それとして。アロイスの温もりに包まれるのは心地よく、髪を梳いてもらう感触も幸せだけど、それにいつまでも浸っている訳にもいかない。まだ、確かめなければならないことが残っているのにも気づいてしまったのだ。


「はい、ありがとうございます。それに、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。それから、あの……ルメルシエについても、調べられたのでしょうか。私が発った時には、まだ内乱が収まっていなくて──あの国の方々はご無事なのでしょうか。クロード様は……その、本当に……?」


 早口に礼と謝罪を述べた後、リアーヌの声は次第に小さくなって立ち消えた。三番目の夫、リアーヌが顔を見ることもできないまま召されることになってしまったルメルシエのクロード王子が、本当に戦死だったのか、なんて。そんな残酷なことは、とても口にすることはできなかった。


(どちらにしても、悲しくてひどいことには変わりないのに……)


 尋ねられたアロイスも、きっと困ることとは思う。それでも伝わることを願って、リアーヌは彼の背に回した腕に力を込めた。

 彼女の最初と二番目の夫については、もしかしたら父は陰謀を巡らせてはいなかったのかもしれない。でも、クロード王子についても同じなのだろうか。個人の不幸にとどまらず、国全体に及ぶ戦禍であるからこそ、わずかな間とはいえ見知った人々の消息が気になってしまう。彼女自身が無実かどうか以上に、平穏な暮らしを取り戻してくれているのかどうかも。

 縋る思いで少しだけ目を上げると、アロイスの青い目がわずかに翳った気がした。労わるように彼女の髪を梳いていた手も、一瞬だけ止まってしまう。


「貴女にとってはいちばん最近の嫁ぎ先でしたからね……やはり、気になりますか」

「……あの、申し訳ございません」


 気が急くあまりに、リアーヌは今の夫にかつての夫たちの話をせがむ非礼を犯してしまっていた。アロイスの声は変わらず穏やかなものではあったけれど、その陰に怒りや不快や落胆が隠れていないか気掛かりで、リアーヌは身体を縮こまらせて俯いた。彼は首を振って、彼女の目尻に口づけてくれたけれど。涙の痕を拭い去る舌の熱さを感じて、リアーヌが鼓動を早めるのを他所に、アロイスは残念そうな口調で続けた。


「ルメルシエからの回答はまだ届いていないのです。聞くところによるとまだ内乱が続いているとのことで。だから、交易を口実にした照会ではなくて、貴女とのご縁を理由にした見舞いを送ったのですが。まあ、優先して答えるようなものではないのでしょうね……」

「ああ……そう、なのでしょうね……。私……また、自分のことばかりでした」


 他国からの書簡の回答には気を遣うのは当然のことで、これまで国交がなかった国からのものならなおのこと、瑕疵のなさそうな文面を練るのには時間がかかるのだろう。リアーヌの罪悪感を減じたいがためだけに、かつての夫の国、それも内乱から立ち直ろうと苦難の道を歩んでいる国に回答を急かすことなど許されないだろう。


「それだけ辛い思いをなさっていたということです。どうかお気を病まれませんように」

「でも──」

「それに、私としてはルメルシエは回答をくれたのではないかと考えています。書面によるのではない形で」

「え……?」


 アロイスの服の刺繍ばかりを見つめながら話していたリアーヌも、意外な言葉を聞かされて思わず顔を上げてしまった。涙で汚れた顔を恥じて、慌ててまた下を向こうとするけれど──そう、させてもらえない。アロイスの手が彼女の頬に添えられて、青い目が覗き込んで来る。端正な顔に、間近に見つめられるのはまだ慣れなくて、リアーヌの心臓はどきりと跳ねる。でも、それは幸せな恥じらいによるものだけではない。アロイスの眼差しは怖いほどに真剣だった。リアーヌに言い聞かせるように、彼が紡いだ声もまた、同じく。


「貴女を襲った例の賊は、ルメルシエから来た者たちではないかと私は考えています」

「私を……? あの、アデル様を狙ったのかと思っていたのですが。父が、そうさせたのではないか、と……」


 アロイスの手に頬を捕らえられていて、リアーヌが目を逸らすことは許されなかった。父がアデルに、シェルファレーズに魔手を伸ばした可能性を考えると、とても夫に顔向けすることなどできないと思うのに。不安にまた目の奥が熱くなり、アロイスの姿も歪むけれど──彼は、はっきりと首を振った。


「ガルディーユとの繋がりは、私が命じるまでもなくフェリクスが調べたし捕らえた者に問い質したでしょう。あの者の熱心さで証拠が見つけられないということは、ということです」


 フェリクスを引き合いに出されると、ただの気休めではないと信じることもできそうだった。父の悪事の証拠を見つけたら、彼なら喜んで兄大公に報告するのだろうし、それを口実にしてリアーヌを追い出すとか幽閉するとか進言することだろう。フェリクスに調査を命じたアロイスに何か考えがありそうだったのも、そういうことかと腑に落ちなくもない。だから、そこはひとまず呑み込めるかもしれないけれど──


「でも、それでなぜルメルシエだと思われるのですか? ……私への復讐、でしょうか」


 あの女だ、と。賊が叫んだ声を耳に蘇らせながら、リアーヌはドレスの生地をぎゅっと握りしめた。思い返せば、いかにも獲物を見つけた狩人のような弾んだ声だった。だからこそ、アデルが狙われたのだと直感したのだろう。父にとって邪魔な存在を見つけたからこその喜びなのだ、と。でも、その獲物がリアーヌだったのだとしたら、意味合いはまた変わってくる。


「クロード様は亡くなったのに、私だけのうのうと生きているなんて……許しがたいと、思われたのでしょうね……」


 ルメルシエに限らず、これまでの婚家に恨みや憎しみをぶつけられたら、リアーヌは粛々と受け止めるしかできないだろう。ごく正当な感情だと思うから。アロイスが教えてくれた事実に関わらず、彼女は世間から疑われて当然の立場で、それに何より生きている。新しい国に嫁いで、新しい夫と、新しい幸せを掴もうとしている。でも、それが亡き夫たちに対する不実になってしまうなら、手放すべきではないのだろうか。


「仮に彼らがそう考えたのだとしても、あってはならないことです。クロード王子の死について、貴女が関わることができた余地はないのでしょうから。違いますか? 嫁いだばかりの貴女が実戦の場に手を伸ばす隙があるような、その程度の内乱ならルメルシエも苦労はしていないはず」

「それは……分かりませんけれど」


 アロイスの声が尖ったのが怖くて、リアーヌは落ち着きなく辺りを見渡した。大公の執務室にいるのは、今は彼女たちふたりだけ。書類を携えた役人も、調停や陳情のために訪れる民もいない。彼女のために、アロイスは今日の政務を完全に滞らせてしまっているのだ。


「でも、私のせいだと思われているのだとしたら──」


 夫の邪魔をしないためには、さっさと頷いてしまえば良いと分かるのに。リアーヌはまた、でも、と言ってしまう。どうしても、悪いのは自分なのだという思いが拭えないから。父と自身を疑ってきた年月はあまりに長くて、簡単に考えを変えることはできないから。でも、彼女の口ごたえに、アロイスは今度ははっきりと眉を顰めた。


「彼らが思い違いをしているなら正してやるべきでしょう。筋違いの糾弾に、御身を差し出すおつもりですか? そうしてまた、私の心を引き裂きますか?」

「いいえ! そんなことは……!」


 誤解によって毒をあおろうとしてアロイスの怒りを買ったのは、ほんの数日前のことだ。夫に想われていたことを知って喜び、自身の勝手に恥じ入った記憶も新しいというのに、リアーヌはまた同じ過ちを犯してしまっていたのだ。


「あの、申し訳──」


 慌てて非を詫びようとするけれど、アロイスはリアーヌに全てを言わせてはくれなかった。鋭いけれど真摯な、そして乞うような眼差しで、彼は彼女の舌を凍らせる。


「他の者の考えが気になるのなら、何よりも私を気にかけてくださいますように。貴女は私の妻なのですから。私は貴女に笑っていて欲しいのですから」

「はい……そのように、努めます」


 アロイスの指が髪を梳くのを感じてやっと、リアーヌは声を出すことを思い出せた。言葉に反して、微笑みとはほど遠い、強張った顔だっただろうけれど──それでも彼女が頷いたことに満足したのか、アロイスは少しだけ笑い、そして真剣な表情に戻った。


「ルメルシエを疑った理由について、でしたね」


 話を続けながら、アロイスはリアーヌをしっかりと腕の中に抱え込んだ。二度とことはさせないと、態度で示すかのように。支えられて守られているようで嬉しいのか、どきどきとしてしまって彼の言葉に集中できなくて困るのか、リアーヌにも分からない。ただ、彼の胸に顔を埋めることで、泣き腫らした上に赤面しているであろうみっともない顔を見せなくて済むのは良い、だろうか。


「私の立場だからこそ思うのですが、ガルディーユからの援助は非常にありがたいものです。そして貴女が去った後も国交がある他の二国、ランブールとロンゴリアと違って、ガルディーユはルメルシエから完全に手を引いているように見えます」

「父はルメルシエを見捨てたのですわ……」

「自国を戦乱から守るのも、王としては大事な責務と思いますが」


 思わずつぶやくと、アロイスの苦笑がリアーヌの耳をくすぐった。それは、確かにそうかもしれないけれど。リアーヌは父を疑うことにあまりに慣れていて、良い方向に考えることができないのだ。でも、ガルディーユの民の立場になれば、無益に他国へ兵を向けない王は慈悲深いと見えるのだろうか。実家にいた短い間に父とちゃんと話をしなかったことが、今さらながら悔やまれた。

 リアーヌからの反論がないことを確かめたところで、アロイスは言葉をいだ。


「……それでも、ルメルシエは父君をあてにしていたのかもしれません。夫を亡くした方が、その親族に嫁ぐのも例のないことではありませんし。あなたが再び嫁ぐとしたらルメルシエの誰かに、と期待していてもおかしくはない。私に横から攫われたように思ったのかも──」


 アロイスの言うことはやはり正しく、リアーヌがこれまで考えを向けてこなかったところを照らしてくれるかのようだった。国と国との結婚は、市井の民のそれとは事情が違うもの。互いに愛し合って結婚するのではなく、同盟の証として結ばれるもの。それなら、相手がすり替わったところで問題はないはずなのだ。それまでの二回の結婚とは訳が違って、リアーヌは子を為せる年齢の女になっていた。ルメルシエに留まって、クロード王子以外の方と結婚してもおかしくなかったはずなのだ。父がそうさせなかったのは、内乱が続く国との縁を嫌ったから──だけでは、ないのかもしれない。リアーヌがずっと疑っていたように、父が利益のために陰謀を巡らせる人ではないのだとしたら。


 そこまで考えたところで、リアーヌの脳裏におぼろに浮かぶ人影があった。花婿のように礼装を纏って、彼女と婚礼の式に臨んだ、けれど花婿ではない人だ。


「ルメルシエの次の王太子はどなたになったのでしょうか。私……婚礼を挙げたのは、クロード様ではない方と、でした。でも、王子の代理を務められるくらい、高位の王族でいらっしゃったから……」

「王室の内々の事情も関わるのでしょうし、まだ噂は聞こえてきてはいませんね。でも──ガルディーユの後ろ盾があると主張すれば、王位の継承には有利になることでしょう」


 リアーヌが皆まで言わずとも、アロイスは彼女の意図を察してくれた。彼女の考えに、頷いてくれた。それでやっと、リアーヌは頭に浮かんだ名を口にする勇気を持てる。何度か顔を合わせただけの人を疑うようなことは──実の父に対しては、悪事に手を染めているものと迷わず決めつけていた癖に──躊躇われるから。でも、気付いてしまったことは包み隠さずアロイスに伝えなければならないと、リアーヌもさすがにもう学んでいた。


「ベルトラン公爵ロラン様──代理の方のお名前です。あの方が、私を狙っている……のでしょうか」

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