第17話 許された悲しみ

 フェリクスの足音が完全に聞こえなくなった頃、アロイスは肩の力を抜くと軽く息を吐いた。そして、リアーヌの方を向いてわずかに微笑む。優しいだけではなくて、どこか苦みを帯びた笑みだった。


「──自分のことを棚に上げて、弟には厳しいものだと呆れられたでしょうね」

「いいえ、そんな……! フェリクス様のお気持ちも、分かりますから……」


 思いもよらないことを言われて、リアーヌは慌てて首を振る。彼女が黙して夫の気配を窺っていたのは、もの申したいことがあったからなどではない。弟のフェリクスに対するアロイスの処断が思った以上に厳しくて、けれど彼女の立場で慈悲を乞うても良いのか分からなくて、言葉を探していたというだけだ。声を掛けられたのを好機として、フェリクスを庇おうとしたけれど──でも、アロイスはリアーヌにその隙を許してくれなかった。どこか遠くを見る眼差しをしながら、アロイスはなかば独り言のように呟いた。


「……ガルディーユから縁談と、それと同時に援助の申し出があった時、喜ぶ者と戸惑う者、疑う者がおりました。貴女の以前のご夫君がたのこともあったから……何か、あるのではないかと」

「当然のことです。私こそ皆様にご迷惑を──」

「ですがそれは、シェルファレーズの精神にもとることでした。フェリクスの分も、私自身の非礼も、改めて心からお詫び申し上げます」

「そんな……それに、あの、シェルファレーズの精神、とは……?」


 深い青色の目に見つめられて、リアーヌの心臓はどきりと跳ね、舌はもつれた。アロイスが言うのは、多分、フェリクスから聞かされたことではないかと思うのだけど。平地から追われて山間に国を築いたシェルファレーズの民は結束が固く、国を脅かす者には容赦しないのだとか。その思いは素晴らしいものだとは思うけれど、リアーヌを拒む理由にはなっても、受け入れる理由には決してならないと思うのに。なのに、アロイスはリアーヌに手を差し伸べ、彼女の手を優しく包み込んでくれた。


「傷ついてこの国に辿り着いた者を拒んではならない。むしろ安住の地を与えるべく、守らなければならないのです」

「でも、私は──」

「貴女の御心に巣食う疑いを解くことも含めての、庇護ですよ?」


 アロイスの手の温もりに甘えて良いものか、かといって無理矢理に手を引き抜くのも失礼ではないのか。リアーヌが迷ううちにアロイスは彼女の耳に唇を寄せて囁き、彼女の鼓動をいっそう早めさせるのだ。さらには頬に口づけてリアーヌの熱を高めてから、アロイスはやっと手を離し、書類の山から何枚かの紙を抜き取った。


「私は最初、人から聞いた話ばかりで貴女を判断しようとしていた。ですが間違っていたことに気付いた。だから、判断する材料を集めなければ、と考えたのです。──ご覧ください」

「これは──ランブールに、ロンゴリアの……!?」


 アロイスに渡された紙面には、リアーヌにとって懐かしい紋章が記されていた。つまり、彼女が一番目と二番目に嫁いだ国のもの。ざっと目を走らせただけでも、ずっと気になってはいても、他の国に嫁いだ後では誰かに尋ねるのも憚られた地名や人名が幾つも並んでいる。


(アロイス様が、いったいどうして……!?)


 驚きのあまりに声も出せないリアーヌの髪を、アロイスは指でそっと梳いてくれた。彼女の心を宥め、労わるように。銀の髪を指先からこぼれさせると、彼は席を離れ、リアーヌの背後に立った。リアーヌの膝に広げた書類を、共に覗き込む格好だ。


「ガルディーユ王を信じず、かつ噂に惑わされまいとするなら、生の情報にあたるべきでしょう。ランブールもロンゴリアも、これまでは直接の国交はありませんでしたが、我が国もささやかながら産業というものはありますし、商人が足を伸ばすこともあり得ますから。今後のためにということで照会してみれば、色々と教えてくれましたよ」

「でも、こんなに早く……? いったいいつ、問い合わせていたのですか?」


 書類の内容が気になって仕方ないのに、耳元に吐息がかかるような近い距離に集中を乱されて、リアーヌはうまく文字を追うことができない。アロイスは指先で書類の何か所かを示しながら、彼女の疑問に答えてくれる。


「貴女とお会いして──その、私の過ちに気付いてすぐに。一刻も早く、正しい情報で判断しなければならないと思ったものですから。返信が揃うまでは確かなことは言えませんから、秘密を抱えているようで心苦しかったのですが」

「そう……だったのですか……」


 では、リアーヌが父に手紙を書いたのよりもずっと早く、アロイスは行動を起こしていたのだ。しかも、彼女は父の悪意を半ば以上決めつけて、試すつもりで偽りを書いて送ったけれど、アロイスはリアーヌを信じる方向で証拠を集めようとしてくれたのだ。それに──それを踏まえると、彼女はまだ誤解をしていたのかもしれない。


(では……も、もしかして……!?)


「あの、アロイス様が書類を裏返したことがありましたでしょう? だから私、てっきり疑われているものと思ったのですが──」

「ああ、気付かれていらっしゃいましたか」


 リアーヌの声が期待と喜びに上擦るのと裏腹に、アロイスは溜息で彼女の髪を揺らした。


「こそこそと探っているのを知られたくなかったのですが……では、ご不快で、不安な思いをされたことでしょうね……。申し訳──」

「いいえ! どうか謝らないでくださいませ! 私は……嬉しいのですもの」


 アロイスが謝る必要などまったくないのだ。リアーヌは完全に信用できる相手ではなかったのだし、疑いが証明されてしまった場合を考えると打ち明けることができるはずもない。半端な段階で聞かされていたら、リアーヌの心はかえって乱れていたことだろう。リアーヌは純粋に喜んでいるのだ。アロイスに、彼女も守るべき存在として数えてもらっていたことに。だから彼女は夫の胸に軽く頭を寄せて、弾む声でねだった。


「それよりも、どうか教えてくださいませ。私の……あの、前の夫の国が、今どうなっているのかを。アロイス様の、お言葉で……」

「そうですね──」


 本当は、もうひとりでも文字を追うことができるくらいには最初の衝撃は乗り越えることができている。それでもなお、アロイスの声で読み上げて欲しかった。彼女の我が儘を、アロイスは苦笑と共に叶えてくれる。さりげなく腕を伸べて、リアーヌを抱きかかえるようにしながら。


「ランブールから貴女に譲られた土地では、今はガルディーユの民が入植して街を築いています。豊かな実りは、増えた分の人口も十分賄えるとの計算です。街が完成した暁には、両国の間の交易は一層栄えるでしょう」


 リアーヌは、祖国は豊かな領地を労せずして得たのだと信じ込んでいたのだけれど、その地の資源を活用するためにはガルディーユ側からも投資が必要だったということらしい。そしてその地の人口が増えれば実りも相応に増えるはずで、だからかつての夫の国も、長い目で見れば利益を得ることができるのだ。


「ロンゴリアとガルディーユの間の──そして海を越えた諸国との交易は今も順調です。いくら確たる証拠がなくとも、自国の王を殺めた疑いのある相手と、長く付き合うはずがありませんでしょう? 内陸の産物が流通することは、かの国にとっても喜ばしいことなのですよ」


 リアーヌは、海を擁するロンゴリアと結ぶことの益を言い聞かされて嫁いだものだった。でも、それはガルディーユからの見え方だったようだ。書類上の数字は、海の向こうの品々が祖国を潤すのと同様に、ガルディーユからも多くの商品が旅立っているのを示している。他の国々の数値と見比べても、彼女の前夫を継いだ王がガルディーユに対してわだかまりを持っていないと信じることができそうだった。


 ひと通り、書類の重要な箇所を読み上げてからアロイスは総括した。


「──いずれの国も、不幸な出来事の後でもガルディーユとの関係が悪化している訳ではありませんでした。ガルディーユが利益を得たといっても、不当なものでも、相手に不利益を強いた上でのことでもありません。もちろん、幸せな未来に貴女がいればより良かったのでしょうが──ですが、若い貴女を未亡人として縛り付けることを望む者は、誰もいなかったのではないかと思います」

「そう……でしょうか。本当に……?」

「ええ。きっと、誰もが貴女の幸せを願ったはず。こんなに美しく優しい方なのですから」


 リアーヌを背後から抱き締めながら囁くアロイスの言葉は優しくて、甘い。そして簡単に縋るにはあまりにも都合が良すぎる。書類の束は膝の上に置いて、リアーヌはアロイスの手を胸元にかき抱いた。彼の言葉にすぐに飛びつきはしなくても、彼の腕を頼りにしてしまうなんて。こんな浅ましい女が、優しいだなんて言われて良いのだろうか。


「でも、誰も教えてくれなくて……!」


 子供が駄々をこねるように言い募っても、アロイスはひたすらリアーヌを甘やかしてくれる。彼の腕がそっと彼女を抱え直し、温もりで包み込みながら。


「貴女は幼くていらっしゃったし、他の国に嫁いでしまわれたから機を逃したこともあるでしょう。悲しいことを思い出させないようにと気遣った者もいたでしょうし……後には、余計な噂もお耳に入れないように、との配慮もあったかもしれません」

「そんな……でも、では──」


 自分に都合が良いように考えてはならないと、必死に言い聞かせようとするのだけれど。でも、アロイスが冷静に語り掛ける言葉を否定できる理屈は見つからなかった。そういえば、悪い噂は届かないようにしていたつもりだったと、オレリアも言っていただろうか。

 では──リアーヌはしっかりと守られていたのかもしれない。父にも、かつての夫の国の人たちにも。そんなことも知らないで、漏れ聞こえる悪評だけに気を取られて、疑いを育ててしまっていたのだろうか。


(それなら……?)


 見るべきものを見ず、聞くべきことを聞かず、心を閉ざしていじけていたのは、恥ずべき態度だった。でも、為すべきことをしなかった後悔よりも先にリアーヌが感じたのは安堵だった。心がふ、と軽くなるような。恐怖と疑いの重石に押さえつけられていた思いが、ぽろりとリアーヌの唇から零れる。


「私は……悲しんでも良いのでしょうか。私に、許されるのでしょうか」


 これまでの夫たちに捧げるリアーヌの悲しみは、決して純粋なものではなかった。すぐに次の結婚の準備をされて、悲しむ時間を十分に与えられなかったからだけではない。纏うのが喪服だろうと新しい花嫁衣裳だろうと、彼女は悲しみながら疑い、恐れてきたのだ。夫を殺したのは自分自身ではないのかと。汚れた手を組み合わせて祈ったところで、亡き人の魂を冒涜することにしかならないのではないかと。


(こんな私が、皆様の死を悼んで良いの……!?)


 誰にも尋ねることはできなかった。尋ねる相手こそ、父の意を受けた者かもしれないと恐れていたから。仮にそうでなかったとしたら、その者はリアーヌを疑っているはずだ。図々しく白々しい女だと、見下げ果てられることもまた怖かった。そして、たとえそんなことはないと言ってもらえたとしても、今度はリアーヌが信じられない。大して事情を知らないか、気休めでものを言っているとしか思えなかっただろう。

 でも、アロイスは違う。この方は父の陰謀──があるのかないのかも、もう分からないのだけど──には関係なく、しかもリアーヌを信じてくれた。《黒の姫君》の不吉な評判を紐解いて、彼女は悪くないのだと言ってくれた。彼の答えなら、リアーヌも受け入れて良い──だろうか。


「もちろんです。その上で、幸せになってくださいますように」

「──っ」


 まさに、リアーヌが求めていた言葉をアロイスは与えてくれた。優しく力強い抱擁と、彼女のこめかみに触れるような口づけを添えて。悲しむ赦しだけでなく、幸せに、なんていう願いまで。

 膝の上に広げたままだった書類に、ぽつぽつと雫が落ちる。インクが滲むのを避けようと、慌てて紙を畳もうとするリアーヌの手は、けれどアロイスに優しく抑えられた。今はそんなことをしなくても良いというかのように。


「アロイス、さまぁ……」


 言葉さえも要らないのだろうか。アロイスはリアーヌの涙と嗚咽を受け止めることに徹してくれた。彼の胸に縋って、リアーヌはひたすら泣いた。これまで流すことができなかった、自らに禁じていた分を、一時に流し尽くそうとするかのように。

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